弥勒はぼんやりと木片の前に座り込んでいた。
 まだ山と積まれた木片を前にして、どうしようかと思う。
 その間も、心の臓がギリギリと音を立てている。
 一度咳をすると、その後しばらく空気が喉をこするような音がしばらく続く。
 次が最後だと、弥勒には分かっていた。
 体が限界だと言うよりは、もう一枚打ったその次に、何を打てばいいのか全く分からないのだ。
 ああ、この時が来たのだな、と、思う。
 面を打つためだけに生きている自分が、面を打つ気にならなくなってしまったら、それはもう生きていなくていいと言うことだと、右腕を失った時から弥勒は自覚していた。
 その時がいつ来るのかは分からなかったが、そう遠くないことだと言うことだけは知っていた。
 そして、その時がとうとう来たのだ。
 早すぎたとも、遅すぎたとも思わない。
 自分の定めの時が来たのだと、それだけだ。
 やはり怖いとは思えなかった。
 嬉しいとも思わなかったが。
 弥勒は、あるがままをそのまま受け止めることしか知らなかった。

 ただ一つ困ったのは、目の前の木片の山だ。
 自分としては全部面を打つために気に入った木材を集めていたつもりだったのだが、どうやらそうではなかったらしい。
 面を打つために必要なのは、あと一枚。
 それはすでに、これ、と思う一枚をのけてある。
 後の山は、面としてはもう不要な物だ。
 だが、それなりに気に入って集めて来た木片を、出来損ないのように燃やしてしまうのは気が引ける。
 その始末に、弥勒は本気で困っていた。
 他に何か使える者がいるのなら譲ってもいいのだが、いかんせん、面のために集めてきたものなので、木材として使うには、どれもこれも小さすぎる。小引き出しのようなものなら作れるかもしれないが、木目も色もばらばらで、きっと使いにくいだろう。
 そうでなくても、かつての工芸品などは昨今の西洋化の流れに押されて、見向きもされない傾向がある。
 あの男も、猿真似西洋化の権化である鹿鳴館に行ってきた後などはよほど腹が立つらしく、わざわざ着物に着替えて茶を立てたり、華を生けたりしていたものだ。
「どうしたものか・・・」
 弥勒は思案げに小首を傾げて呟く。
 しばらく首を捻っていたが、突如ぽん、と、膝を叩いた。
「あるな、使い道が」
 思いついた名案に、弥勒は咳をしながら早速一枚の木片を手にした。
 まだ、時間はある。
 体がどれほど辛くても。
 最後の一枚に取りかかる前ならば。










 「ふう」
 最後の独楽の仕上げを終え、弥勒は息をつき、軽く咳をした。
 小刀をしまい、出来上がった独楽を指で回す。独楽は、緩やかな回転ながらしっかりと軸を保っている。
 弥勒は、その回る様をじっと眺めていた。自然に、回転が止まるまで。
 独楽は次第に回る速度を緩め、右に左に振れながら、最後にころんと止まった。
 ころころと転がる独楽を捕まえて、箱の中に入れる。
 独楽も剣玉も羽子板も、色付けはしていないが、それは手にした子供が好きに描いて塗ればいい。
 その方がきっと大事にしてくれるだろうと思う。
 自分の色は着けない方がいい。
 これで弥勒にとって最大の問題であった木片は片付いた。
 弥勒は部屋の中をぐるりと見回す。
 押し入れの中には布団と着替えを納めた柳行李、小さな食器棚にちゃぶ台。
 何もない部屋だ。
 だが、弥勒にはそれで充分だった。
 何物にも惑わされることなく面を打てる環境を与えてくれた九角と、この村には感謝している。
 自分のような、どこの馬の骨とも知れぬ面打ちしか能のない男を受け入れてくれただけで充分なのに、工房までぽんと与えてくれて。
 何しろ、面打ちしか能がないのだから、何も返すことは出来ないけれど、せめて最後の一枚は九角と村に残していこうと思う。
 面そのものは、この村には何の役にも立たないだろうが、売れば金になる。少なくとも奈涸であれば、それなりの値で買い取ってくれるはずだ。
 もしも打ち終わってまだ命が残っているなら、簡単に書き置きでも残して、そして消えてしまおうと思う。
 弱った体で山に分け入っら、命が尽きる前に野犬に食われてしまうかも知れないが、それはそれで自分に相応しいような気もする。
 自分のような人でなしには。
 誰に送ってもらう必要もない。
 その瞬間、ぶるりと頭を振った。
 頭の中を人影が掠めたのだ。
 いけない。
 思い出してはいけない。
 自分が未練を残すのは勝手だが、それで万が一にも夢に招いてしまったら、洒落にもならない。
 あの特別な力を持つ男は、きっと気がついてしまう。
 所詮、自分はこの世の客人(まろうど)なのだから。
 ただ、通り過ぎていくだけの。
 自分の有り様が、普通の人々のそれと異なっていることを弥勒は自覚している。
 いや、鬼道衆と言う、普通とは明らかに一線を画す人々の中においても、自分はあまりにも違い過ぎた。
 喜びにしろ、憎しみにしろ、あれほどまで強烈に感じることが、弥勒には出来ない。
 弥勒にとっては鬼道衆に加わったのも、失った右腕の恨みを晴らすと言うよりは、単に自分に声を掛けてくれたからに過ぎない。
 斬られたその時はともかく、今となっては右腕を失ったことを恨みには思っていない。
 右腕を失わなければ、それ以降に打った面を打ち出すことは不可能だったからだ。
 理不尽さを嘆いたこともあるけれど、今となってはあれも必然だったのだと、そう思うだけだ。
 全ては必然――自らの死さえも。
 弥勒にとって死は、この世に何の拍子か迷い込んでしまった自分が去るだけだ。
 行き先は、自分が本来あるべき場所かもしれないし、また別の世の客人(まろうど)となるのかもしれない。
 だが、とにかくこの世に残る、生きていかなくてはならない人々に、もうこの世にいる必要のなくなる自分が余計な思いを残していってはいけないのだ。

 ふと、その時部屋の片隅に追いやった物が目に入った。
 しまった、と、思った。
 せっかく思い出さないようにしていたのに。
 かと言って。
「これは・・・勝手に始末出来んな」
 梅月の置いて行った茶道具だ。
 一番上に伏せてあった、紫の釉薬がかかった茶碗を手に取ってみる。
 あの梅月が気に入ったと言うのだから、結構な値打ちものなのだろう。
 弥勒とは別の理由で浮世離れしている男は、とことん贅沢に慣れていたから。
『この部屋は潤いがなさ過ぎるからね』
 そんなことを言って勝手に持ち込んで、余計な物を置きたくないと弥勒が主張すると、あろうことか館に預けて帰って行き、次にやってきた時には取ってくると言うことを繰り返されたため、さすがの弥勒が根負けしたのだ。
 ――必死に、自分の手を引いてくれた男。
 何とか自分をこの世に引き止めようとしていてくれていたのは分かっていた。
 こんな自分のために泣いてさえくれたのに、何も返せないことを悪かったとは思うが、だからと言って、弥勒自身にもどうすることも出来ず。
 弥勒なりにその時の精一杯を返したつもりではあるのだが、それが梅月の求めていることではないことは分かっていた。
 普通に、泣き、笑い、喜び、怒る。
 そういうことを求められていることが頭では分かっているのに、出来ない自分はどうしようもなく人でなしだとつくづく感じ入るばかりで。
 せいぜい彼の秘密を黙って聞いてやることぐらいしか、出来なくて。
「・・・すまない」
 そう呟いて。
 弥勒は茶碗を茶道具の上に戻した。
 これで最後だ。
 他には本当に何もない。
 また一つ、咳をする。
「さて」
 弥勒は立ち上がって腰を叩いた。
「取りかかるとするか」
 呟いて、工房の明かり取りの窓の下に移動しかけた、その時だ。
「お邪魔するよ」
 聞き慣れた声と共に、入り口の戸が開いた。
 光を背負って、梅月が仁王立ちしている。
 きれいな顔を紅潮させて。
「しばらく家に、来てくれないか」
 梅月は、時折、秋月の予定が連続している時など、こうして弥勒を自宅に招くことがあった。
 例えば、秋月家の当主として招かれた鹿鳴館から帰って来て、弥勒に一晩中愚痴をぶちまけたり。
 かつての仲間でも彼の秋月真琴と言うもう一つの顔を知らされている者は少ないから。
 今回もそういうことかと一瞬思ったが、違う、と、何かが頭の後ろで告げた。
 その手を取ってはいけないと。
 そうでなければ――。
「弥勒、頼む」
 梅月は真摯な目つきで、弥勒に手を差し伸べた。
 その手を、取ってはいけない。
 けして。
「分かった」
 けれど、弥勒はうなずいていた。
「少し、待て」
 そうして、出かける用意をするために梅月に背を向けた弥勒の顔が、微かに、しかし確かに笑っていたことに、弥勒自身も気づいてはいなかった――。





















『決別の時』の直前なのですが、何でか自分でもよく分からないですが、どうしても後に読んで欲しくて、こういう順になっています。
多分、弥勒の心情を事細かに書くのは、これが最後だと。あんまり心情が動かないしね。
何て言うか、それでも普通の人から比べたら断然情動が薄いんだけど、それでも『道程』の時よりは空っぽでない、と言うことを書きたかったんです。
空っぽのまんまじゃ寒すぎるんだもん(涙)。
多分、この弥勒は結構彼なりに幸せだと感じていたのではないかと思います。この弥勒にとって梅月はかなり特別な位置を占めていたと思いますし。
恋ではないですが。わーん、結局私の得意パターンじゃん!(痛)
お気に召したら、幸いですが・・・ハンパしてしまった気はしてます・・・。



■ 小説一覧 ■

■ 東京魔人学園top ■