双羅山の山道を、弥勒が歩いていた。
瑞々しく生い茂る山の緑に、これほど似合わぬ人物もいないかもしれない。
何よりその、表情が。
仏頂面ならまだしも、本当に感情と言うものが彼の中に存在しているのか疑ってしまうほどの無表情が。
生命溢れる緑の景色の中に彼の姿を溶け込ませないでいる。
一体何を考えているのやら、さくさくと歩いていた弥勒が、ふと足を止め、空を見上げた。
生い茂る枝葉の間から見える空は、そろそろ色を濃くし始めていた。
秋の日ほどではないが、日暮れまでさほどの時は残されていない空の色だ。
弥勒は空を見上げたまま目を細めて、呟いた。
「困った…」
端からはとてもそうは見えなかったが、弥勒は途方に暮れていたのである――。
ことの起こりは昨夜のこと。
唐突に新作の面に取り掛かる気になって、弥勒は工房に積み上げてある木片を検めていた。
木片は、全て弥勒自身が確かめて気に入って集めて来た物だが、その中にいつも頭に思い描く面の形が見える木片があるとは限らなくて。
昨夜は見つからなかった。
思いついたのが深夜のこと、さすがに諦めて横になったのだが、今朝は常からは信じられぬほど早起きしてしまった。
気が急くので朝餉もそこそこに、木片を分けて貰うために泰山を探しに山に入ったのだ。
そんなことは村に来てから始めてではない。
市中の長屋とは違い、夜を徹して面を打っていても文句は言われないし――弥勒の体を心配して説教をされたことは一度や二度ではないのだが――、よい素材がないとなればすぐ目の前の山に入って木材を手に入れられると言うだけで、弥勒はこの村に連れて来て貰えたことを感謝していた。
それに比べたら、たまに戦闘に引っ張り出されることなど弥勒にとっては些細なこと――例え命がけであっても――だった。
無論、感謝しているその思いは、ついぞ弥勒の口から語られることも、表情に出ることもないのだが。
それはさておき。
何しろ泰山はあの巨躯で、行くところ動物達が纏わりついているのでいつもすぐに見つかるのだが、この日は全く行き会えなかった。
途中何人か泰山の仕事仲間である樵達に会ったので所在を尋ねてみたのだが、誰も今日は姿を見ていないと言い。
そこで諦めればよかったのだろうが、何しろ面一番の弥勒は気が急くに任せて樵達から無理矢理泰山がいそうな心当たりを聞き出して、その言葉を頼りに山の中を歩き回っている内に、村へ戻る道を見失ってしまったのである。
道を見失ったことに気がついた時は、まだ日は高かった。
だから、適当に歩いていればまた樵達の誰かに出会って帰り道を聞くことも出来るかと思っていたのだが、誰に会うこともなく今に至る。
「…困った」
と、再び弥勒は全く困っているようには思えない口調で呟いた。
もう日が傾きかけたこの刻限では、朝が早い樵達は山を下りてしまっていることだろう。
と言うことは、恐らくこの山にはもう誰もいない。
暗くなってから歩き回るのは危険だから野宿をするしかないのだろうが、そんなつもりなど更々なかった弥勒は野宿の準備など全くしておらず、着の身着のままである。
一晩ぐらい食べなくともどうと言うことでもないが、火を起こすことも出来ないのは痛い。
実はほとほと困り果てていたのである。
かろうじて、商売道具である刃物類は持って来ているのが唯一の幸いか。野犬に襲われたとしても、何とか応戦出来るだろう。
すでに弥勒の中では野宿は避け難い事態であり、少しでも楽に夜を越せそうな場所を探そうと、再び弥勒が動き始めたその時だ。
「おんやぁ、珍しいとこに珍しいお人がいてはるね」
突然、背後から声をかけられて、弥勒は弾かれたように振り向いた。
「君か…」
村の人間で西の言葉を喋るのは們天丸しかいないのだから顔の確認などするまでもなかったが、弥勒は思わず呟く。
「ごめんやす、弥勒はん。工房から滅多に出てこへんお人がどへんしたんどすか?」
声がするまで気配などなかった。
一体どこから涌いてきたのだと、あまり機嫌がいいとは言えない弥勒は心の中で呟く。
そんな弥勒の内心を知ってか知らずか、們天丸がにっと笑った。
「ふうん、弥勒はんかてびっくりしはることあるんやねぇ」
「…気配を殺して忍び寄られたら、誰でも驚くだろう」
からからと笑う們天丸の口振りに、わずかに不快感が声に滲んだ。
「驚かせた方が何を言う」
「ああ、かんにんやす」
弥勒が責めても們天丸はさらりとかわし、そして話を戻した。
「せやかて弥勒はん、何でこへんなところにいてはるんどすか?」
「泰山に木片を分けて貰いに来たのだが、会えなくてな」
弥勒の答えに、們天丸は口元に羽団扇を当てて、考え込む表情になった。
「あれ、泰山は確か風祭の坊と市中に潜伏中やよね」
それを聞いて、
「そうか」
弥勒は左手で前髪をかきあげ、天を仰いだ。
道理で会えないはずだ。
そして、弥勒は們天丸が口に出してこそ言わなかったが、その隻眼が訝しげな光を宿したことに気がついた。
多分、自分も鬼道衆の一員として風祭と泰山が共に出撃するその作戦を聞かされていたはずだ。
あの年若い御屋形様は、旧来の家臣と新参者にもその辺分け隔てがない。
自分が面に夢中になって、すっかり失念していたのだろう。
「忘れていた」
もっとも、指摘されても思い出せない辺り、同席はしていたものの、自分には関係ない話と右から左に聞き流してしまったのかもしれない。
実にありうる話である。
ぱたり、と、髪をかきあげていた左手を降ろし、溜め息をつく。
「仕方ない」
と、そこで、弥勒は動きを止めた。
会えなかった理由も分かったし、それが自分の失策であったことも理解した。
が、それでこの場がどうなる訳でもない。
村に戻る道が分かった訳ではないのだから。
まるでぜんまいが切れたからくり人形のように動かなくなった弥勒に、們天丸が不思議そうに声をかける。
「まあ、泰山には会えへんことは分かったんやし、はよう山を下りた方がいいでっせぇ」
「そうしたいのは山々だが、道に迷ってしまってな。日の残っている間に少しでもましな寝床を探さないと…」
何も考えずに考えていたことを言った弥勒の前で、們天丸は絶句した。
そういう訳だ、と、暇も告げずに歩き去ろうとする弥勒の襟首を、慌てて們天丸が捕まえる。
「待ってぇな、弥勒はん」
「…何だ」
背後から不意に襟首を掴まえられ、転びかけたがすんでのところで踏み止まった弥勒は険のある目つきで下から捲り上げるように睨みつけた。
本来、身の丈はさほど変わらないはずだが、高下駄を履いている們天丸の顔は、弥勒の視線よりも随分上にある。
弥勒に睨みつけた自覚はないのだが、その目つきは相当怖い。
だが、們天丸は気にした素振りもない。
「何とぼけとんねん。そへんなことならわいに案内を頼めばええんに」
にっこり笑顔で言われて。
「……ああ」
しばらくの沈黙の後、弥勒がようやく納得したように呟いた。
弥勒が、ようやく気づいたとばかりに呟いて。
們天丸は思わず目を眇めた。
呆けているのか、天然なのか、計り難い。
基本的に工房にこもりっきりの弥勒との間に、これまで接点はほとんどなかった。
それは們天丸に限ったことではなかったが。
最初に村に来た時に屋形で引き合わされて名を名乗りあった後、基本的に工房にこもっている弥勒とまともに会話することはなかった。
同時に出陣する時は、お互いに中距離を得意とする術師同士で相生の関係にあることから近くにいることが多いが、普段から喋らぬ弥勒がそんな場面で世間話などするはずもなく、碌に知り合う機会もないままここまで来てしまっていた。
とは言え、鬼道衆の中でもそんな相手は弥勒一人で。
これは丁度よい機会であるように思われた。
「本気?」
「何がだ」
「わいに頼めばええって気ぃつかいへなんだのか?」
「気がつかなかったな」
「はー、案外おっちょこちょいなお人なんやね、弥勒はんて」
們天丸が正直な感想を述べると、表情は変わらなかったが、少しむっとした気配が伝わってきた。
どうやら、無表情であっても無感情ではないらしい。
――おもろいかも。
そう思ったが最後、們天丸の悪戯心がむくむくと頭をもたげる。
「で、どへんしまんねん?」
「何がだ」
今度は先程よりもわずかに声が低い。
やはりつむじを曲げているようだ。
それが分かって尚、們天丸は高飛車に出る。
「そやさかいに、わいに道を聞くか、野宿しはるか」
このやたら矜持の高そうな男が、どういう態度に出るのか、見物だと思った。
実際、弥勒は一瞬の逡巡を見せた。
しかし、
「では、頼む」
どうやら、多少の損得勘定は出来るらしい。
ただ、們天丸を見据えたまま、いつもの無表情で言うので、とんでもなく傲慢に見える。
が、すっかり弥勒との会話を楽しんでいる們天丸は、口元を羽団扇で隠して、意味ありげな視線を向ける。
「かて、ロハっちゅう訳にはいきまへんよ」
すると、弥勒の右眉がくい、と、跳ね上がった。
いつも頭巾を被っている戦闘中には見られない表情だった。
「何を、しろと」
まるで野生の獣のように警戒も露な口調で問われて、們天丸はにっと笑った。
「したら、ご飯食べさせてくれまんねん?」
「は?」
よほど意表を突かれたのか、弥勒が間抜けな声を出した。
目を丸くして、普段の無表情からは想像も出来ないような顔で們天丸を見上げている。
「…何故?」
絞り出すように尋ねた言葉に、們天丸は笑みを深くした。
「弥勒はんのご飯、美味いって聞いとったから、いっぺんごちそへんになりたかったんや」
「誰に聞いた」
「龍々」
們天丸は間髪おかずに答える。
それでようやく弥勒も得心がいったらしい。
龍斗と們天丸は吉原仲間である。
「龍さんか…」
ふう、と、溜め息をついて、弥勒は肩から力を抜いた。
「よかろう、們天丸。その程度ならお安い御用だ」
「ほんま?」
「ああ」
うなずく弥勒は相変わらず無表情だが、その視線から険が取れたことを們天丸は見逃さない。
「おおきに、弥勒はん。ほなあ、わいの後ついてきて」
上機嫌で歩き出そうとして不意に思い出し、們天丸は足を止めた。
「們天丸?」
不審げに見上げる弥勒に、們天丸はにっと笑って言う。
「そへんな堅苦しい呼び方はやめてえな。わいのことはもんちゃんでええで」
「も…」
「もっとそへんな風に顔に出したらええんに」
思わず絶句した弥勒の表情を見て、們天丸は満足げに高笑いしながら山道を歩き始めた。
随分前に書いた初們弥です。
東女の私には京都弁分かるはずもないので、ネット上の翻訳スクリプトにセリフぶち込んで、適当に手を入れて使っております。ですから本当の京都弁と違うのは当たり前ですが、どう考えても原作のもんちゃんとも違う…どうも原作のもんちゃんは京都弁より大阪弁に近いみたいですね。
正しい京弁の突っ込みがありましたら大歓迎ですので教えて下さい。お願いします。
どっちかって言ったら們ちゃんも私にとっては受けなんですが、どうも外法帖で私のハートを掴むのは百合カプみたいです。
梅弥に比べて們弥はほのぼの系だと思うのですが。
その割に、続きはグロになってしまうので、迷った挙句に随分長い間経ってしまいました。
続きは反応次第…ですね。表に置いていいもんか迷う話なので。