弥勒は、夏が嫌いだ。
 何故かと問うても一言。
「暑い」
 それだけだ。
 もっとも、一言だって答えるならまだましだ。
 機嫌が悪ければ、それすら答えぬこともある。
 いや、答えることの方が珍しい。
 夏の間の弥勒の機嫌はいつでも最悪に近い。






 そして今日も、梅月が訪れてから弥勒はまだ一言も発していなかった。
「・・・確かにこう毎日毎日暑い日が続くと参るのは分かるのだがね」
 と、梅月は工房の縁側に腰掛けて、小さく溜め息を吐きながら言った。
 手はせわしなく扇子で扇いでいるが、生暖かい空気が動くばかりだ。
 しかし、梅月の面には汗の一粒も浮いていない。
 ある意味こちらも人外ぶりを発揮しているのだが、そんな梅月が呆れた視線を工房の奥に投げる。
「少しぐらい、客人をもてなそうと言う気はないのかい」
 だが、工房の奥の薄暗がりからは何の反応もない。
 その薄暗がりの中の様子は、明るい場所にいる梅月にはいくら目を凝らしてもよく見えなかったが、弥勒は確かにそこにいるはずだ。
 声すらも発しない弥勒は、半ば暗がりと同化してしまい、今や気配すらも希薄だ。
 どうやらそこが工房の中で一番涼しい場所らしく、暑くなってくると、弥勒は日がな一日そこに蹲ってほとんど動かなくなってしまうのだ。
「君は猫か」
 呆れ返って思わず声に出して言ってしまってから、梅月は後悔した。
 遊び人の梅月の目から見ても、弥勒は相当気ままに暮らしている。
 猫でないはずがない。
 何しろ、あの薄暗がりの中に引き篭もってしまうと、触れることはおろか、近づいただけで暑いと怒るのだ。
 毛を逆立てる猫以外の何物だと言うのだ。
 くだらぬことを言ってしまったと、梅月は悔やんだ。
 どうせ弥勒が歯牙にもかけないことも分かっているのだ。
 嫌味にすらならないことを言っても、憂さ晴らしにすらなりはしない。
 そして実際、薄暗がりの中からの反応はない。
 その内、暗闇で目が光り出すのかもしれない。
 その姿を想像してみたところ、あまりにも違和感が無くて、梅月はこめかみを押さえた。
 ふと、沈黙が辺りを支配する。
 聞こえるのは、暑さをいや増す蝉の声と、梅月が扇ぐ扇子が立てる音だけだ。
 しばらくそのままぱたぱたと扇いでいたが、梅月はついと視線を落として、片手で器用に扇子を閉じた。
「全く、あんまり暑い暑いと言うから、せっかく差し入れを持ってきたと言うのに」
 そう言って、梅月は扇子を膝の上に置き、脇の小さな包みを取り上げる。
 丸い包みを解くと、中から出てきたのは風鈴だ。
 透明な玻璃に朝顔が描かれている。
「これで少しぐらいは涼を取れるだろう?」
 深い青の美しい風鈴を、梅月が吊るし紐を持って掲げると、温い風に煽られて、ちりんと涼しげな音を立てた。
 と、
「うるさい」
 薄暗がりから低い声が聞こえた。
 梅月のこめかみがひくりと動く。
「さんざ客人を無視した挙げ句、せっかくの心遣いにその言い草はなんだい?」
 抑えた口調ではあったが、流れる水の如くにとうとうと述べられる繰り言に、弥勒はやはり一言。
「俺が頼んだ訳ではない」
 取りつく島のない口調に、梅月もかちんと来た。
 裾を払って立ち上がり、縁側の梁を検める。
 その隅に少し飛び出した釘を見つけて、梅月は風鈴をかけた。
「やはり夏の暑さを凌ぐのに、風鈴は欠かせないね」
 と、白々しくのたまって、梅月は再び扇子で扇ぎ始める。
 ちりん、ちりん、と、風鈴が涼やかな音を奏でる。
 険のある視線を薄暗がりから感じるが、動く気配はなかった。
 意に添わぬ梅月に腹は立ったとしても、一番涼しい場所を放棄するほどの怒りではないらしい。
 そして、明日にはきっとこんなやり取りがあったことすら忘れているに違いないのだ。
 梅月は溜め息を吐いて目を伏せた。
「全く、少しは構ってくれてもいいだろうに」
 低い声は、恐らく弥勒の耳まで届いてはいないだろう。
 薄暗がりから出て来なかったとしても、言葉を交わせればそれで充分満足できるものを、とは、心の中だけの呟きだ。
 もっとも届いたところで、やはり弥勒を動かすことは叶わなかっただろうけれども。
 今日の手札は全て晒してしまったが、どうやらこのまま弥勒を引っ張り出すことはできそうもない。
 さて、どうしたものかと梅月が三度小さく溜め息を吐いた、その刹那。
 さあっと、縁側の外から音がした。
 つられて面を上げると、雨が降っていた。
 空は明るいままだ。
 夕立ではない。
 弥勒の工房は村の外れに建っており、縁側のすぐ前に山の緑が迫っている。
 水滴を浴びた生命溢れる緑が光に照らされる様が、梅月の心を鷲掴みにした。
「ああ、見てごらん、天気雨だ。緑が照り映えて実に美しい――」
 梅月はそれまでの苛立ちなど全て忘れて、薄暗がりに声をかけた。
 その途端。
 陰が二つに分かれた。
 いや、今まで暗がりと全く同化していた弥勒が動き出したのだ。
 思いもよらなかったことに、梅月の動きが止まる。
 何の意図もない、口からついて出ただけの言葉だった。
 その下心の無さ故に、弥勒も動く気になったのかも知れない。
 だが、いつもと変わらずうっそりとした気配をまとって隣に立つ弥勒を、梅月は目を見張ってまじまじとみつめた。
 そんな不躾な視線を浴びながら、弥勒は無表情のままだ。
「確かに」
 ぼそり、と、呟く声も常と変わらない。
 あまりにも変わらなすぎて、梅月の言葉に応じたのだことにさえすぐには気づけなかったほどだ。
 しかし、一度気づいてしまえば緩む口元を抑えられない。
 並んで同じ物を見て、同じように美しいと思う。
 例えどれだけささやかなことでも、誰かと時と思いを共有できることが嬉しいことだと梅月が知ったのは、家を出てからだ。
 まして、その相手が自分の思い人であるなら尚更だと。
 そんな思いを噛み締めている梅月の視界に、弥勒の背中が映った。
 そのまま止める暇もなく、弥勒は縁側に脱ぎ捨ててあったつっかけを履いて、まだ止まぬ雨の中に出ていってしまったのだ。
「弥勒!」
 思わず叫んだ梅月の声も聞こえぬ風で、弥勒は顔を上げて、雨に打たれていた。
 その背中に。
 梅月は何故か言葉を失う。
 雨が日差しを反射して輝く中にたたずむ背中に。
 呼び戻すことも、まして、自分も雨の中に飛び出して軒先に引き入れることも叶わず。
 梅月は、まるで腑抜けたように細い背中を黙って見つめていることしか出来なかった。

 唐突に、雨はあがった。
 単なる天気雨だ、あっという間の出来事だった。
 しかし。
「だから止めたのに」
 縁側に戻って来た弥勒を見て、梅月は呆れた声を出した。
 ほんの少しのことにも関わらず、弥勒は髪から着物から水を滴らせていた。
「手拭いはどこだい。そのままでは風邪を引いてしまうよ」
 と、散々訪れているというのに、未だに何がどこにあるのかよく分かってない梅月が問うたが、
「どうせすぐに乾く」
 と、弥勒は無造作に縁側に腰掛けて目を閉じた。
 工房の薄暗がりから決して出てこようとしなかった弥勒が、日に当たって濡れた体を乾かしている様に、梅月は盛大に溜め息を吐いた。
「そんなに涼みたいのなら、僕の屋敷に来たまえ。氷ぐらいはご馳走してあげるよ」
「行くまでが暑い」
 梅月の誘い文句に、言下に答えた弥勒が付け加える。
「それに、こんな景色は市中では見られん」
 弥勒の視線を追う梅月の視界を、通り雨を浴びて生き生きと輝く緑が埋め尽くす。
「・・・そうだね」
 梅月は微笑んで、弥勒の傍らに腰を下ろした。










1000HITの陸海様からのキリリク、『梅弥で、弥勒の工房から見る天気雨』です。
何だか妙にリリカルになってしまったのですが、よろしかったでしょうか・・・(汗)。
弥勒が天気雨の中にだかだか出てっちゃうまでは予定通りだったのですが。
梅月視点だと、どうにも夢見ちゃってる感じになってしまいました。梅ちゃん、何ポエムってるの、と思ったのですが、考えてみれば梅ちゃんはプロのポエマーでした。失念失念(乾笑)。
・・・も、申し訳ありません・・・(滝汗)。



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