バレンタインの憂鬱
バレンタイン直前の休日、内海、加納、斉木(50音順)の3人は、静岡市内でウィンドウショッピングとしゃれ込んでいた。
受験真っ只中の内海はもちろん、加納もすでにチームに合流しているはずで、文字通り卒業までのお気楽な日々を過ごしているのは斉木だけのはずなのだが、今日の主催は内海である。
と言うか、呼び付けた、と言うのが正しい。
自らはお気楽極楽状態の斉木だが、さすがに内海からの電話には我が耳を疑った。
しかし、斉木の心配などどこ吹く風で、内海は言い放ったものである。
『加納は二つ返事だったぞ』
二つ返事とかではなく、恐らくは内海が決め付け、加納も特に抵抗しなかったのだろうことは容易に想像がついたが、それを口に出さない理性は、斉木にもある。
息抜きをさせろと喚く内海に敵う者など、斉木には思いつかない。
そうして、デカい男3人連れで、市内をフラフラしている訳である。
あちらこちらを冷やかして、適当なところであるファーストフードに入った。
それぞれ好きなだけ頼んだ挙げ句、内海と斉木は席をキープしておくからと言って、加納を財布代わりにする。
そして、席についてコーヒーを飲み、一息ついたところで、内海が太い息と共にうめいた。
「失敗した…」
「何が?」
あまりに深いため息に、ポテトをくわえたまま、斉木が問う。
「またこの時期が来ちまった…」
「あ? ああ」
頭を抱える内海を前にして、思い当たった斉木がポン、と、手を叩いた。
壁面に大きく取った窓から外に視線を投げれば、世の中はバレンタイン一色である。
どの店も、店内で一番目立つところにコーナーが設けられ、数々のチョコレートがきらびやかに陳列され、女性が我先にと買って行く。
店に入ってまず最初に漂ってくるのは、チョコレートの甘い香りだ。
それは、『まんじゅうこわい』が文面通りの意味しか持たない内海にとって、汚染された空気と代わりない。
「くっそ、遊びになんか来るんじゃなかった」
「って、お前が呼び付けたんだろうが」
「忘れてたんだよっ」
ブツブツと呟く内海の目が座っている。
なまじ整った顔立ちだけに、鬼気迫るものがある。
しかし。
「だけどさ、内海はかなりもらうよな、チョコ」
斉木の言葉に、微かな羨みがにじむ。
この3人の中で、一番女にモテるのは、間違いなく内海である。
斉木とてかなりモテるのだが、内海にはかなわない。
いわんや、加納に至っては、だ。
高校生ルーキーのくせに鳴り物入りでプロに入団する加納には、勿論ファンは多いのだが、現実にアタックしてくる根性のある女はやはり少ない。
声をかけた途端、はるか頭上から男でもビビる視線でにらまれたら――本人にその自覚は全くないのが救われないが――、無理もない話ではある。
一方内海は、いざと言う時の視線の鋭さは加納に負けるものではないが、TPOで外面を使い分けるから、性格のキツさが目立たない。
しかし何より、すこぶるよろしいルックスが、全てを覆い隠しているとも言える。
だからこそ。
年に一度のバレンタインは、内海にとっては苦行に等しいのだ。
「下駄箱開けたらチョコが溢れ出したんだろ、去年」
「そうっ。そもそも食い物を下駄箱なんかに入れようって言う、神経が信じられねえんだよ、俺はっ」
どうせ俺が食うんじゃないからいいけどよ、と、内海はのたまう。
内海宛てのチョコレートのほとんどが、飢えた部員の胃袋に納まってしまうと言うことは、清水学苑サッカー部では公然の秘密である。
実際、内海に集中している分、他の部員がもらえるチョコは非常に少なかった。中には丸坊主と言う奴もいるのだ。
「だけど、まあモテる証拠だと思えば、そんなに悪い気はしなくないか?」
斉木も、やはりいくつもらえるか気になる。男なら誰だってそんなもんだろうと思う。
特に学校のような閉鎖された空間にいると、どうしても競争が発生する。数はステータスだ。
かく言う斉木の密かな目標は、3年間部内人気ナンバーワンの座である。
しかし内海は、言い募る。
「どいつもこいつもお菓子屋の策略に乗せられやがって…」
「モテる男は余裕だな」
斉木は肩を竦めた。どうせ何を言っても内海は聞き入れはしないのだ。
「ロッカーも机も、しばらくチョコの匂いが取れないんだぜ。も、一年でこの時期が一番憂鬱だよ」
と、
「全くだ」
それまで黙りこくっていた加納の言葉に、斉木は驚いてそちらを見た。
加納は、窓から外を眺めていた。その視線は、華やかなバレンタインの装飾に向けられているようだった。
しかし、
「何で?」
斉木は首を傾げた。
「加納だっていくつかもらえるんだろ?」
超甘党の加納にとって、チョコレートがもらえるバレンタインと言うのはうれしい日だろうと思う。今もバニラシェイクなんぞ飲みながら、甘ったるいアップルパイなど食べている加納にとって、この際モテるモテないは別問題だろう。
それに一個ももらえないようならともかく、数は少ないと言っても、加納は確実にいくつかはもらえる立場にいる。
世の中には、相当気合の入った女も、少ないが存在するのだ。
「いくつか、はな」
加納は呟いた。視線はバレンタインの装飾に貼り付いたままだ。
「なら…」
「だが、世の中には俺がもらえるよりもっとたくさん、チョコレートがあるんだ」
「そりゃあ…」
そうだろう、と、斉木が言う前に、加納は小さくため息をついた。
「普段売ってるチョコレートさえ、みんなおいしそうに変身する上に、この時期しか出ないチョコレートまである」
「まあ、あるな」
加納は自分のペースでしかしゃべれない。それを知っているから、斉木は根気強く相槌を打つ。内海はすでに自分の食欲を満たすことに集中していて、会話を放棄している。
「この時期は特にうまそうに見える」
加納は遠い目をして呟いた。
さすがの斉木も、そろそろ痺れを切らし始めていた。
「だから…」
促す声が暗雲をはらんでいたが、加納の口調は変わらない。
「買いにくい、すごく」
ぼそりと呟く加納の瞳には、捨てられてしまった小犬のような悲しみが満ちていた。
勿論、それは見る者が見なければ分からないのだが。
「これでもかってぐらいに美味そうなのに」
ようやく、斉木も理解した。
しかし笑いをこらえるのに必死だった。
――見るからにゴツイ加納が女に混じってバレンタイン用のチョコを買う姿と言うのは、想像しただけで噴飯ものである。
「そりゃあ…ちょっと気が引けるよな」
必死で声の震えを押さえて、それだけ言うのがやっとである。
そこへ、食欲を満たし終えた内海が乱入してきた。
「お前、あんな中でチョコなんか買いたいのかよ」
「……懲りた」
ああ、そう、と、斉木は何気なくうなずきかけて、その意味に気づく。
「………もしかして加納、バレンタインのチョコ、自分で買ったこと、あるのか?」
それは恐る恐るの確認だったのだが。
「一度だけ」
加納の返答は聞き間違いようがない。
斉木は頭を抱える。
内海はけっ、と、吐き出した。
「普段は名古屋にでも行かないと、手に入らないチョコだった」
言いながら、加納はバレンタインの装飾から手元に視線を落とした。
「レジでジロジロ見られて、さすがに恥ずかしかったな」
バニラシェイクのストローをごにょごにょ動かしている様は、とてもではないが『帝王』と呼ばれる男だとは思えない。
「食べてみたいチョコがたくさんあるのに、指をくわえて見てなきゃならんのだ」
憂鬱だ、と、呟いて、加納は遠い目をした。
過去の記憶をまざまざと思い出しているのかもしれない。
斉木もさすがに哀れを催して、思わず慰めの言葉を口にした。
「ま、まあな、プロになれば、これでもかってぐらい、もらえるだろうから」
だが、その肩が小刻みに震えている。
そして。
こらえきれずに斉木が爆笑し始めるまで、それほど時間はかからなかったのだ。
夕日(2005.10.24再)