十人十色






 その日の夜のメニューは、合宿では定番メニューである、カレーライスがメインディッシュであった。
 カレーが合宿所などでよく出されるのは、調理の手間があまりかからないこともあるが、比較的、全国どこで味に共通性があり、文句の出にくいことも、大きな理由の一つである。



 しかし、どんなものにでも、けして渡ることのできない個人の嗜好の差と言うものが、存在するのである。



 「東、嶋っ、お前ら何かけてんだよっ」
 広い食堂の一隅で、非難の声を上げたのは、姫野である。
 埼玉出身の姫野と、群馬出身の東と嶋は、代表合宿のメンバーの中でも、よく練習試合などで顔を合わせて、気の置けない仲であった。
 一方、非難された前山コンビは平然と、それぞれ手にしていた黒い液体の入ったビンを掲げて、言った。
「醤油だけど」
「醤油だな」
 そう言う二人の表情は、それが何か? と言っている。
「普通、かけないぞ、カレーに醤油は」
「えー、普通だぞー?」
 小首を傾げる東に、姫野は整った眉をしかめる。
「しょっぱくなっちまうじゃねえかよ」
「そのしょっぱさが隠し味でいいんだ」
 嶋は口元にお弁当をつけたまま、胸を張る。
「しょっぱいって分かるなら、隠し味じゃねえだろ」
 と、言いながら、姫野は彼らの隣の席に陣取り、調味料のラックに手を伸ばした。
「カレーには、コレだろ、コレ」
 姫野が取ったのは、ソースのビンだ。
 確かに、醤油よりは普遍性があるが、五十歩百歩である。





 しかし、世の中には、そんなものでは済まない差が存在するのである。





 「うわあっ」
「黙れ!」
 食堂の反対側で上がった悲鳴に、思わず前山コンビと姫野は声がした方を振り向いた。
 視線の先に、新鋭・掛川の一年生達が群れていた。
 田仲の口を、馬堀が押さえている状況からして、先ほどの悲鳴は田仲のもののようだ。
 田仲は離れている三人にもありありと分かるほど、全身で驚きを表現していた。
 田仲の感情表現の豊かさは、常に彼の最大の特徴である。
 オーバーアクションとも言う田仲の態度は、今、前山コンビと姫野だけでなく、その場にいる物見高い連中の視線を集めまくっていた。
 何となれば、田仲達の前にいたのは、『静かなるキング』こと、岩上であったからだ。
 勝手知ったる代表メンバーにしてみれば、カレーと言ったら岩上なのだ。
 そんなことは知るはずもないが、頭の回転の速い馬堀は危険な匂いに気がついたのだろう。
 触らぬ神に祟りなし、と言うヤツだ。
「賢明だな」
「アイツはバカじゃないから」
 岩上と付き合いの長く、その性質もよく知っている彼らだ。
 東が呟くと、馬堀とも仲のいい姫野が応じた。
 嶋は、醤油がけカレーを猛然と、胃の中に片付けている。
 しかし、その馬堀の気遣いは、一人の恐れ知らずによって無に帰した。
「岩上さん! アンタ何してんですかっ!?」
「健二! バカ!」
 慌てて平松が止めに入ったが、手遅れである。
「何だ、白石」
 岩上が、不躾な一年坊主を振り仰いだ。
 その目は、すでに少々とんがっている。
 岩上には、白石や田仲の言いたいことが分かっていた。
 そして、彼らのやり取りをニヤニヤしながら眺めている周囲にも分かっていた。
 何しろ、それは毎度毎度繰り返されているやり取りだったからだ。
「平松!」
「健二!」
 田仲の口を全力でふさいでいる馬堀が平松をせかしたが、それは平松も言われるまでもないことだった。
 分からないのは天下無敵の怖いもの知らず、白石だけである。
「岩上さん、ダメッすよ! そんな食べ物を粗末にしちゃ!」
 平松の制止も聞かずに言ってしまった白石と、眉間に盛大にしわを寄せた岩上の姿に、周囲からクスクス笑いと、同情の溜息が漏れた。
 今回ばかりは、白石だけを責められないことを、岩上と付き合いの長い者は全員知っていた。
 本当は、制止した側の馬堀や平松だって叫びたかったのだ。
 だが、何も本人の前でやるこたねえだろう、と言うのが、世渡り上手な馬堀の意見である。
 岩上は右手に、かつてお冷が入っていたガラスのコップを持っていた。
 ちょっと前までコップに入っていたお冷は、今はカレー皿の中だ。
 ちなみに、まだ岩上は、カレーに一口も手をつけていない。
 カレーライスが水の中で泳ぎ、カレーの上にまだ融けきらない氷が載っているその様は、かなりシュールな眺めである。
 人によっては食欲の減退を訴えるだろう。
 だが、岩上は雷雲を孕んだ低い声で言った。
「しょうがないだろ、猫舌なんだから」
「猫舌だからってカレーに水かけますかぁ?」
 白石、暴走。
 すでに平松は天を仰ぎ、馬堀は退避の体勢に入っている。
「これがちょうどいいんだよ」
 何でもないような表情をして、岩上は氷水かけカレーライスを食べ始める。
 しばらく置いてしまったため、ご飯が水を吸って膨れ始めている。
 しかし、岩上には何の不満もないようだった。
「俺は子供の時からコレなんだ。それなのに何で、みんな、そういつもいつもケチつけるんだ。俺は何だって水かけるぞ。味噌汁とか、スープとか、シチューとか」
 拗ねたような岩上の言葉に、懲りる、と言う言葉を知らない白石が、追い討ちをかけようとする。
「いや、味噌汁ぐらいならいいっスけど、それ以外…」
 その刹那。
 ボクッ、と、鈍い音が白石の言葉を遮った。
「すんません、岩上さんっ」
 割って入ったのは、『ドツキ大将』の名を欲しいままにする神谷の鉄拳である。
 後頭部にクリーンヒットした拳に弾かれたように、白石が振り返る
「何、する…」
「黙れ」
 が、殴った勢いのままエルボーを食らわせ、神谷は白石を完全に黙らせた。
「神谷」
「ウチのバカがつまんねーこと言ったみたいっスけど、本当のバカなんで、勘弁してやって下さい」
 と、岩上が多くを語る前に、神谷は撃沈した白石の耳を持って歩き出す。
「いてっ、神谷さんっ、何すんすか!」
「いいからこっち来いっ、こんのバカッッ」
「いでででで…」
 問答無用で、神谷は白石を連れて食堂から出て行く。
 さすがの岩上も、怒りを忘れてあっけに取られている。

 その場に居合わせた者が想像した白石の末路は、全て一致していたのは言うまでもない。





夕日(2005.07.29再)






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