裸の付き合い






 その日は、もう一ついいプレイが出るまでと、自主的に練習時間が押してしまった。
 そうなった時、削られるのは自由時間である。
 疲労した成長期の体は、休養と栄養補給を要求する。睡眠時間と食事の時間――もっとも、食事の時間については普段から普通の人の倍以上のスピードで済んでしまうのだが――を削るなんてとんでもないことである。
 よって、それ以外の時間が削られることになる。
 そのため、その日の風呂場は戦場となった。
 いつもであれば上級生が済ませた後に下級生と、自然発生的に入れ替えが行われていたのだが、時間がないために、本当の早い者勝ちになってしまったせいである。
 こんな場合、経験がものを言う。
 こういった合宿に参加しつけている3年の連中は、ポジションどりと言うか、隙を突き他人を押しのけ、先に行くのがうまい。
 短いながらも人生のキャリアがなせる技だ。
 こればかりは、世渡り上手でもってならす馬堀も敵わない。
「邪魔だ、どけ」
 と、にっこり笑顔で言い放つ内海の前に、馬堀はやはりにっこり笑って道を譲った。
 内海に睨まれるのは、ある意味で大変においしくないことを、本能で悟ったのである。
 急がば回れ。
 損して得取れ。
 馬堀は処世術にも長けていた。
 サッカー以外ならば、長いものに巻かれることも時には必要である。
 そして、転んでもただでは起きぬのが馬堀である。
 馬堀は、同学年の中でポジション争いを始めた最上級生に負けず劣らず経験を積んでいる、その人物を見出した。
 同じ学年の中で唯一の寮住まい――恩田である。
 恩田は、まるで影のようにスルスルと動き、先輩連に蹴散らされることなくカランを使っている。その動きは、やはり100人部屋で鍛え上げられ会得したものなのだろうか。何事にも騒がしく、先輩連のいいおもちゃにされている3バカトリオとは正反対である。
 馬堀はさりげなく恩田の隣に陣取った。
「悪ィ、お湯、汲ませてもらえる?」
 人懐こい笑顔を浮かべて洗面器を示す馬堀に、恩田は無表情のまま、何も言わずにカランを馬堀に向ける。
 それを好きにしろ、と言う意思表示と理解して、馬堀は遠慮なく蛇口を捻った。
 この恩田、とにかく口数が少ない。馬堀は、恩田に対してはまず行動することに決めていた。
 その行動が気に入らなければそう言うだろう。何も言わないなら問題がないと言うことだ。返事があるものと思って待っていると、そのまま時間が過ぎて行ってしまう。
 恩田は顔を前に戻して、再び体を洗い始める。
 その横顔は相変わらずの無表情だったが、特に苦情はない。淡々と体を洗っている。
 多分、馬堀の理解は正しい。
 その恩田が、おもむろにシャワーヘッドを取った。体中の泡を洗い流す。狭い空間に並んでいると言うのに、馬堀にはわずかなしぶきぐらいしかかからない。器用な技と言うべきだろう。
 そして、シャワーヘッドを戻すと、馬堀には何も言わないまま、恩田は湯船に向かった。
 馬堀はこれ幸いとカランの正面を占拠する。
 恩田も馬堀も全く気にした様子はないが、これが田仲辺りであれば、何か恩田の気に障ったのかと気を揉むところだろう。
 馬堀は、人はそれぞれだと知っている。だったらそれなりの対処をすればいいのだ。恩田はああいう口が足らないタイプだが、その分、自分のことだけでなく、他人に対しても細かいことはあまり気にしない。
 そういう人間には最低限の礼儀を守っていればいい。楽と言えば楽である。
 それぐらいの使い分けも出来ない田仲は、逆に馬堀にとっては不思議な存在である。
 とにかく。
 あまり苦労せずにカランを確保した馬堀は、真っ直ぐ湯船に向かう恩田を勇気があるな、と、思いながら見ていた。
 確かに、馬堀も上級生だからと言って必要以上に遠慮するタイプではない。しかし、今、湯船に浸かっているメンバーは、岩上、榊と言う帝光の先輩に加え、加納、斉木、内海、東に更には神谷と言う、全員が一癖では済まないツワモノぞろいだ。
 さすがの馬堀でも、面突き合わせての裸の付き合いは、ご遠慮申し上げたいそうそうたる顔ぶれだ。
 触らぬ神に祟りなし。
 正に至言である。
 だが、恩田の歩みにはそういったことを気にしている風は全くないのだ。
 馬堀でなくとも違う生き物を見るよう目になっても、致し方のないことである。
 その恩田の足が、ピタリと止まった。
 湯船の一歩手前だ。
 すっと、恩田の手が、タオルを巻いた腰の脇まで伸びた。
 直立不動の姿勢である。
 それからいきなり、恩田は体を腰で90度に折り曲げ、声を張り上げた。

「先輩方! 湯船に失礼します!」

 何しろ風呂場の中のことであるから、恩田の声は反響してしばらく残った。誰もが驚いて恩田に視線を投げた――目の前にいる斉木や内海も手が止まっている――が、当の恩田は体を90度に折り曲げたまま、微動だにしない。
 と。
「よし、入れ」
 言ったのは、岩上である。
「ありがとうございます!」
 恩田はようやく上半身を起こして、もう一度、
「失礼します!」
 と言ってから、湯船に足を入れた。
 恩田の声の反響が消えてから、斉木が呆れたような声で言った。
「もしかして、帝光の寮って、毎日毎回、今みたいなこと、してるのか?」
 だが、言われた岩上は何を指して言っているのか分からなかったようである。
「今みたいって?」
「今の、恩田のアレさ」
「ああ、だってそんなの、当たり前だろう」
 岩上は、何でもないことのように言った。
「先輩と後輩なんだから、礼儀は必要だ」
「そりゃあ、そう思うけどさ、ここまでやるかぁ?」
「規律はいったん崩れると、もう元には戻らん。俺だって、去年まではやっていた」
 それから、岩上は神谷に顔を向けた。
「俺に言わせてもらえば、掛川の上下関係のなさは異常だ。そんなんじゃ下級生はつけあがるばかりだ」
 いきなり矛先を向けられた神谷は、しどもどと弁解する。
「いやあ、ウチは何せ初代が帰国子女だったもんで、そーいうの嫌がったんですよ。大体、最初は一学年しかいなかったし」
「だが、もう久保はいない」
「まあ、俺もあんまり得意じゃないですし、それにちゃんとチームもまとまってるし…」
 神谷は口の中でモゴモゴと呟いた。体育会的上下関係で躓いた過去はあまり大声で言いたくなるようなものではなかったし、何よりもう一方の当事者が目の前にいるのだから、話しにくいことこの上ない。
 ちなみに当の斉木はあらぬ方を見やっている。
 だが、岩上はそんな事情には頓着してくれない。
「それはまだ全員が久保の時代を知っていて、人数も少ないからだ。来年の新人は久保を知らん。まだ来年は神谷が残っているからいいが、誰もが神谷のようにチームをまとめられる訳じゃない」
「でも、今更…」
「今だからまだ手を打てるんだろうが」
 自分の言を曲げない岩上に、神谷は救いを求めて視線をさまよわせたが、斉木はそっぽを向き、東は首を横に振った。内海に至ってはこの対決をニヤニヤ笑いながら見ている。
 処置なし、と言うことである。
 加納に、口での援護を期待する方が無理であるし、大体、7軍まであると噂の藤田東の上下関係――学年によるものではないが――が厳しいのは、神谷は去年、実際に目の当たりにしている。
 他人が突ついた薮から飛び出してきたヘビに噛み付かれ、対応に苦慮する神谷の声を背中で聞きながら、馬堀は隣に座っていた芹沢に尋ねた。
「なあ、清水もあんな感じな訳?」
「あんなんだったら俺が今ここにいる訳ないだろ」
「確かに」
 芹沢も馬堀と並ぶと言うか、馬堀以上のナンパ者だ。あんな体育会系バリバリの上下関係の中ならば、女性問題を起こすような選手はあっという間に放逐されてしまうだろう。
「まあ、礼儀知らずだって暴力は振るわれるけどさ」
「あー、暴力はウチもだな。白石専門だけど」
「岩上さんが出るまで、湯船入るの止めとこ」
「無難だな」
「早く浸かって足伸ばしてえんだけどさ」
 と、芹沢は人並み外れて長い足を、苦しそうに折りたたむ。
「でも、出そうもないなあ」
「姫野さん、どうにかしてくんねえかな」
「姫野さんは関わんないと思うよ」
「ちえ」
 芹沢は鋭く舌打ちした。
 そして馬堀は、
 ――会ったこともないけど、久保さん帰国子女でありがとう。
 と、天国の久保に、思わず感謝するのであった。




夕日(2005.10.15再)






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