気づかれたかもしれない―― それでも芹沢は視線を逸らさない。 彼は、芹沢よりも低いが充分に均整の取れた体躯を、静かに佇ませている。 癖の強い黒髪が、早春の陽射しを受けて波打っている。 まるで陽光をその髪で織り上げているかのようだ。 脆弱な所など微塵もにじませぬその人は、何かの拍子にはっとするような無垢を剥き出しにする。 妙に幼い、少し不機嫌な表情を隠そうともしない横顔に、芹沢は瞳を釘付けにされていた。 ――触れたい。 芹沢はそう思う。 触れるだけでは済まないだろう。 芹沢は自分の欲望をよく判っていた。 判らされていた、と言った方が良いかも知れない。 それは無意識の領域、夢によってだ。 サッカーに、まさか自分がこれ程のめり込むとは、予想もしていなかった。 現状に満足出来ずに、更に上を目指して懸命になるなど、自分の柄ではないと思っていた。 時に我に返って自嘲の笑みを浮かべることも一再ならずある。 汗にまみれ練習に励み、疲れ切って眠りに着くとそれがやってくるのだ。 夢が、訪れる。 彼を引き連れて。 呆れるほどリアルな彼が、芹沢の手の届くところに居る。 その顔、仕種、肢体――そして芹沢は勃起している自分に気づく。 夢の中では芹沢に抑制など働かぬ。 躊躇いもなく彼を裸にして――無論服を着たままでも構いはしないが――自分の好きなようにするのだ。 その顔を快楽に歪ませ、喘ぎの間に自分の名を呼ばせる。 腕は背に回され切なげに爪を立て、足は腰に絡み付いてくる。 思う様彼を乱れさせ、やっと芹沢は満足する。 所詮は架空の満足に過ぎないが。 目覚めれば、少々の罪悪感と空しさを味わうことになるのである。 最初の内は芹沢も自分の夢、淫夢に驚き狼狽した。 彼を求めていると認めるのを恐れ、他の女、飛び切り美人で豊満な女を妄想の相手に選び取ろうとするが、上手くいかなかった。 疲労の極地に達した頭と身体は、欲望の矛先を変えようとしない。 尚更正直な欲望の対象を妄想してしまうのだ。 今までマスターベーションには余り世話になったことがなかった芹沢は、それが精神的な作業だと初めて知った訳だが、そんな事よりもう一つの認識の方が重要であった。 彼に、斉木誠に恋している、ということ。 芹沢は現実から逃げない。 逃げても無駄なことを知っている。 それは後ろから追い駆けてきて襟首を掴んで引き戻し、大抵はもっと酷い事態と直面させられることになるのだ。 斉木に恋していると知っても、芹沢はだからその気持ちから逃避することはなかった。 しかし、芹沢はその気持ちを持て余す。 人当たりがよく優しい性格である彼の激しい情熱の全ては、今のところサッカーにだけ向けられている。 その幾分かで良いから、自分に向けて欲しいと芹沢は望んでしまったのだ。 どうすればよいかも判らぬままに、そう望んでしまった。 斉木が、芹沢に一瞥をくれる。 その瞳が自分を捕らえているのを確認するかのように。 火に惹き付けられる虫の様に、芹沢は斉木の傍らに歩を進めた。 「内海の奴、自分から誘っといて」 なぁ、と同意を得るように少し首を傾げて見せる。 「俺じゃ駄目ですか」 言外に意味を含ませて、そう問うた。 鈍感な所のある斉木は気が付かないだろうが。 内海先輩は、妙に斉木について知りたがる後輩の気持ちに、多分気付いているのだろう。 わざわざ斉木を映画に誘い、待ち合わせ場所に芹沢を行かせたのだ。 『感謝しろよ』と念を押されたが、その声が笑っていた。 これからはオモチャにされることを覚悟せねばならぬに違いない。 判ってはいるが、こうやって手の届く距離に想い人が居る今、何を思い煩うことが出来ようか。 斉木が微笑う。 「そういうことじゃなくて、お前だって迷惑だろ?」 「自分、映画観たかったんで」 嘘である。 一体何の映画を観る予定なのか、知りもしない。 「そうか?」 ならいいけど。 短く答えたきり、斉木は口を噤んだ。 不可思議な沈黙。 決して気詰まりな沈黙ではない。 それは斉木が芹沢という存在が傍らに居ることを、全面的に認めているからであろう。 簡単そうで実は難しいことだ。 しかし、もし斉木が自分の持つ欲望を知ったら、この穏やかな心地良さは失われてしまうのだ。 らしくもない、と芹沢は自嘲する。これ程に臆病になるのは、初めてだ。 失うことは恐ろしくない筈だった。 失えばまた手に入れれば良いだけの話だと、以前の芹沢は思っていた。 だがそれは結局の所、失っても構わないものしか持たなかっただけのことだったのだ。 芹沢は斉木を盗み見る。 しっかりした輪郭と濃いめの眉は既に青年期に入った男のものであるのに、その印象に少年らしさが拭えないのは意外と黒目勝ちな所為だろう。 その漆黒の瞳はまた、実に色々な表情を映し出す。 どんな高価な宝石よりも綺麗だと、芹沢は本気で思う。 ふ、と甘い香りが鼻腔をくすぐった。 斉木が何気ない仕種で髪をかき上げ、その微かな芳香を風が運んだのだ。 芹沢は無意識に手を伸ばし、斉木の髪に触れていた。 見た目より柔らかい髪が、指に絡みつく。 避けるでもなく、斉木は訝しげに芹沢を見詰める。 「シャンプー、何使ってるんですか」 純粋な好奇心からの質問だった。 だが斉木は一瞬答えに迷ったようだ。 「何ていうシャンプーだったか知らない。 姉の使ってる物なんだ。 俺、癖毛だろ? 中々合うのが無くて困ってたんだが、髪質がおんなじだから姉のを使ってみたらこれが良くってさ。 それ以来共用してるんだけど――」 一旦言葉を切って、伺うように芹沢の顔を見上げた。 「変かな」 つまり、女物という事だ。 そしてそれが今更ながらに、恥ずかしい事かもしれないと思い至ったのだろう。 全く、この人は何て可愛いのだ。 芹沢の整った顔に、押さえ切れぬ笑みが浮かぶ。 「変じゃないですよ」 そう言うが斉木は納得しない。 「顔、笑ってるぞ」 「いや、本気で。 変じゃないですって」 芹沢は斉木の髪を長い指で梳いた。 「俺は好きですよ。 この匂い」 斉木は驚いた顔をした後、俯いて肩を震わせ始めた。 笑っているのだ。 「お前、それじゃ口説いてるみたいだ」 声が、笑いに揺れている。 「さっきから女達が振り返って見てるんだぞ、お前を。 何を好き好んで、俺なんかと居るんだ?」 それは残酷な言葉であった。 無知が言わせる残酷な言葉。 女共の視線など、煩わしいだけだ。 芹沢が見て欲しいのは斉木だけなのだ。 だが、自分は斉木に何も告げていない。斉木を責めるのはお門違いだろう。 判っていても、凶暴な感情が目を覚ましそうになる。 いっそこのまま、自分の欲望をぶつけてしまおうか―― 「本気であなたを口説いてると言ったら、どうしますか」 芹沢は、斉木の髪に触れていた手を、その俯いた頬に滑らせた。 斉木がビクリと身体を竦ませる。 それでも逃げようとはしない。 「見境無しの色情狂なのか?」 笑いを含んだ声で、俯いたまま憎まれ口を叩く。 ――自分を包む大気の温度が上がった、と芹沢は錯覚した。 火を煽る様な言葉を、斉木はどんな顔で口にしているのか。 瞳を見たい。 斉木の心を知りたい。 その漆黒の瞳に秘められた秘密を解きたい。 だが斉木は目を伏せたまま、芹沢にそれを赦さない。 芹沢は焦れて、斉木の顎を掴んで強引に仰向かせた。 ようやく手に入れた瞳は、挑むような強い光を放っていた。 芹沢は幻惑されそうになる。 これでは、まるで―― その時。 斉木の腕に嵌められた時計が時を告げて音高く鳴り響いた。 「時間だ」 その一言で、斉木は濃縮された時間の流れを修正してしまう。 時が過ぎたことを知っても、芹沢は斉木から手を離せない。 「あの時……お前を看病した時みたいに」 しかし斉木は瞳を芹沢に当てたまま、身を躱す。 そして、言った。 「キスするんじゃないのか?」 まさか、許されていたのだろうか。 そうだとしたら躊躇いはしなかったものを。 芹沢は斉木を捕らえようと、再び手を伸ばす。 斉木は身軽に逃れて、その手に空を掴ませる。 「映画、始まるぞ!」 それだけ言うと、さっさと歩き出した。 振り返りもしない。 熱を煽り立てたまま、芹沢を放り出して――
――誘惑機械――
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