接触の効果








――訳も無く泣くこと。それは一切を理解した証である――


撒いた水が片端から蒸気になってしまうような熱気だ。
時刻はもう五時を過ぎている筈だったが、一向に涼しくならない。
 今年の夏は猛暑になりそうだ、と斉木は思う。  暑いのは嫌いではない。
グラウンドでサッカーをしている時は、暑さなど全く平気なのだ。
だが、脛まであるゴムの長靴と、手袋に麦藁帽子を被っている今のいでたちでは、暑さもいや増そうというものだ。
 だからと言って今の時期に潅水をさぼれば、たちまちのうちにこの薔薇達は枯れてしまう。  万全のマルチングを施していても、一日に一回の潅水は必要なのである。
勿論病害虫の駆除も欠かせない。
殺虫剤を散布し、秋の花の為に花芽を摘み取る。  更に細々とした手入れがあるのだが、それらも全てこなしてしまい、仕上げの潅水も直に終わる。
 何時の間にか手際が良くなったものだ、と斉木は自分で感心した。
この100坪はあろうかという薔薇園は、当然彼のものではない。
所有者である老人が妙に彼を気に入って、行く行くは孫娘を嫁にやり財産共々遺そうと目論んでいるらしい。
 あなたは人が好いから、(てい)よくこき使われているだけですよ、と老人の孫息子に言われるが大方そんなところだろうと斉木も思っている。  斉木自身は元々園芸などに興味はなく、それでもここに訪れるのは一つには老人の好意を無に出来ないこと、もう一つは老人の孫息子に会う為であった。
 引き戸を開ける音がして目をやると、往診を終えた医師が、鞄を抱えた看護婦を従えて帰ろうとするところだった。
奥から出てきた少年が礼を言いながら丁寧にお辞儀をしている。
医師は大様に頷きを返すと、次の患者が待っているのか大股に去っていく。
 その姿を見送ると、少年は視線に気づいて斉木と目を合わせた。 そして小さく笑ったようだ。   一旦玄関に取って返すと、手にサンダルをぶら下げて歩み寄ってくる。
「祖父さん、どうだった? 神谷」
「軽い熱射病だそうですよ。 寝てれば治ります。」
 神谷はそっけなく答えた。
祖父の病気が仮病だと判っているのだ。
 神谷の祖父は独居である。 とは言っても現代社会問題の一つに数えられる悲痛で孤独なものではなく、自由気ままな余生を楽しむ為の独居なのだ。
70を超える高齢にしては矍鑠としたもので、その精神にも稚気と呼ぶべきものがある。
掌中の珠と可愛がっている孫が、子供の時ほど懐いてくれないのが唯一の不満で、孫を呼び寄せるために仮病という()はもう何度も使っている。
斉木も長い付き合いでそこの所はよく知っているが、だからと言って苦しげな老人に「最後に一目孫に会いたい」と言われて無視することも出来まい。
 斉木はすっかり薔薇栽培の助手の役割を与えられてしまい、今日訪れたのもその為だったのだが、着いた早々薔薇園の主は寝込んでしまったものだから、全ての作業を彼が一人でやる羽目に陥った訳である。
こんな目に逢ってもかの老人を嫌いにならないのは斉木の人の好さだけではなく、憎めない明快さを老人が持っているからであろう。
連絡を受けた神谷の方も、祖父のそれが仮病だと知りつつもすぐに駆け付けて来たのであった。
「祖父が迷惑をかけてすみません」
 殊勝気に言うが、顔は笑っている。
「何だよ」
見咎めた斉木が質すと、苦笑する形に眉を寄せる。
「相変わらず、人が良いですね。   斉木さん」
 そう言われて、斉木は改めて自分の格好に目をやった。
ゴム長ゴム手袋に麦藁帽子、これで首に手拭でも巻いていたら、立派な農作業スタイルである。
他人の祖父のためにそこまでしなくても、と神谷は言うのであろうが、これについては斉木にも言い分がある。
「じゃあ、お前がやれよ」
手にしたホースを突き出すが、神谷は受け取ろうともしない。
「いや、俺は全然判らないから」
「お前がそんなだから、俺を後継ぎに、何て言い出すんだぞ、祖父さんは」
「お陰で助かってます」
 軽くいなすと神谷はぶら下げていたサンダルを差し出す。
「どうぞ。 もうお終いでしょう?」
 まだ何か言ってやろうかと斉木は思ったが、思い直して素直にサンダルを受け取った。
考えてみれば、この薔薇園に来る事は自分の意思であり、誰に強要された訳ではない。
ただここに居る時の神谷は中学生の頃に戻ったようで、斉木は時に昔のように他愛ない口論を吹っかけてみたくなるのだ。
 だが、明らかに時間(とき)は過ぎている。
その"時間"は傷だらけでささくれ立っており、容易に触れられるものではない。
その傷の原因の一端が自分にあるとなれば尚更だ。
 斉木はホースの水を止め、重装備を解くとサンダルを突っかけた。
神谷は立ち尽くして薔薇園を眺めている。
薔薇の樹はどれを取っても勢いがあってしっかり根付いている。
濃い緑の葉を飾る水滴が、陽光を反射して貴石の様に煌く。
 薔薇は夏の間は花を咲かせない。
咲かせたとしても養分の消耗が激しいばかりで、色形匂い共に劣る花しか得られないからである。
暑い盛りをどれだけ消耗せずに乗り切れるかが、秋の花の質を決定する。
 斉木は、まだこの薔薇達が咲き誇る様を目にしたことがない。
中学生だった頃は自宅を行き合う様な仲ではなかったし、この後輩の強い光を放つ瞳から斉木への憎しみが消えてからそう長い時間が経った訳ではなかったのだ。
憎しみが消えた、と、そう思うのも自分の都合のいい解釈かもしれない。 
 サッカーだけで繋がっていたあの頃と違い、今は二人の間には様々なものがある。
互いの家族、共通の知り合い、通学する高校の違い――その距離が憎しみの感情を薄めただけかも知れぬ。
それとも、神谷にとって斉木は憎むにも値しない過去の存在になったのか。
言い知れぬ寂しさが斉木の胸を襲う。
 ふと、神谷が斉木に視線を向けた。
斉木は反射的に口を開き、しかし何も紡ぐ言葉を見つけることが出来ず、そのまま口を閉ざした。
神谷が苦笑を洩らす。
「悪い癖ですよ、斉木さん」
「何のことだ」
「もっと格好悪いところ、見せて下さいよ」
 苦笑を顔に乗せたまま、言う。
「俺はお前にみっともないとこ、一杯見せてるだろ」
 神谷の前では格好つけてばかりいると言われたようで、斉木は心外だった。
「そうですか?」
「そうだ」
 斉木が頷くと、神谷は声を出して笑った。
「自信たっぷりに言うことじゃないでしょうに」
 その通りだが、なんだか子ども扱いされているようで、斉木は憮然となる。
「じゃあ、言い直します。 言いたい事があるなら、はっきり言って下さい」
そう言うと神谷は斉木のすぐ傍らに歩み寄った。
「我慢せずに」
 斉木は神谷から僅かに顔を逸らせる。
「我慢なんか」
「してないとは言わせませんよ」
言葉尻を神谷に奪われ、斉木は困惑した。
神谷の様子が、何時もと違うのだ。 顔を背けていても、その強い瞳が自分をみ凝視て居るのを感じる。
憎しみではない何かが、自分に向けられている――それがなんなのか、斉木には全く見当が付かない。
「あなたは意外と嘘が上手だ。 久保も言ってました、あの人は自分を勧誘に来てるんじゃなくて、お前が心配で見に来てるだけだって」
 その名をどんな表情で口にしたのか、斉木は見ることが出来なかった。
それ程あつかましい心を持っていなかったからだ。
勧誘と称して掛川へ何度も訪れるうち、久保は斉木に親しみを覚えるようになったらしく、プライベートな話もするようになった。
友、と呼んでもいいかもしれない。
 ある時久保は笑いながらこう言った。
『あなたは損な性分ですね』
何故、と問うと些か真面目な顔になって、言った。
『あなたは神谷を切り捨てた訳じゃない。 そんなつもりはなかったのに、結果的にそうなった事をずっと悔やんでいて、こんな風に見守ってる。 しかも、許してもらう気はないんでしょう?』
 久保に、自分がどのように返事を返したのか、斉木は覚えていない。
久保の言うことは一部で正しく、また一部では間違っている。
あの頃神谷にきつく当たったのは、確かに憎悪からではなく好意からであった。
斉木は神谷を皆と馴染ませようと試み、上手く行かない事が腹立たしかった。
神谷は決して自分を曲げようとはしなかったのだ。
好意を無にされたようで、悔しかった。
 冷静になって考えてみると、どんな情況にあっても自分を曲げない強さこそが、神谷の長所なのだ。  自分のやろうとしていた事は、神谷を撓めて型に嵌めようとしていたに過ぎない。 それに気付いて、斉木はぞっとした。 何時の間にか独善に陥っていた、自分の善人面に吐き気がした。
 その一方で、斉木は尚自分の正しさを確信している。
皆をまとめる立場にある者として、最善の道を採ったのだと。
周囲の者も斉木を支持した。 そして神谷は孤独を深めたのである。
 正しかろうと間違っていようと、斉木は自身に償いを求めた。
その必要はないのだと理性では判っていても、感情が赦さなかった。
どんなに小さなずれであったとしても、それが神谷の人生の歯車を狂わせてしまったのではないかと、斉木は懼れた。
「罪なんか何処にもないんですよ」
斉木の心を読んだかのように、神谷が言う。
「お互いにとって譲れない事があっただけで」
穏やかな表情をして諭すように言う神谷は、斉木の知らない男のようだった。
ほんの少しの間に、あっという間に成長してしまった。
「何故、今――」
斉木の喉からはか細い声しか出てこない。
感情が昂ぶって、涙が出そうだった。
「本当はもっと早く言ってもよかった」
神谷が手を伸ばし、斉木の髪をなだめる様に梳いた。
「でも、自信がなかったんです。 自分が間違っていない自信が欲しかった。
そうじゃないと、またあんたを苦しめるだけになるような気がして――」
髪を撫でる神谷の手の感触が心地良かった。
頼りない子供になったような気がしたが、その心地良さを失いたくなかった斉木は、されるがままを許した。
 言いたい事があったら言って下さいと、神谷は言った。
我慢せずに、とも。
自分は何かを我慢しているのだろうか。  自問したが、斉木の心は確かな答えをもたらさない。
霧のように掴み所のない、あやふやな思い……
 不意に神谷の指が、頬を滑った。
斉木は神谷の指を追う様に己の頬に触れ、そこが濡れていることを知った。
泣いていたのだ。
「何で――」
人前で泣いたことなど、幼い頃以来絶えてなかったと言うのに。
情緒不安定になっているのを、斉木は自覚せざるを得なかった。
「お前のせいだ」
お前が変なこと言うから、と神谷に八つ当たりをした。
斉木は羞恥で顔を伏せた。  
泣き顔を見られるなんて、幾らなんでも情けなさ過ぎる。
しかも、何故泣いているかも判らないのだ。
女の子じゃあるまいし、しっかりしろ。
斉木は自分を叱咤する。  だが涙腺は緩むどころか壊れてしまったらしく、涙は止まってはくれない。
悲しくも悔しくもないのに頬を濡らすこの液体はなんなのだ。
 ふわりと優しい感触が斉木を包んだ。
疑問に思う暇もなく神谷の匂いを感じ、その腕に抱き締められていることに斉木は気付いた。
「神谷――」
名を呼んだ唇が、言葉を奪うように塞がれた。
突然の行動に、斉木は抗うことも出来ない。
だが斉木の驚愕は、神谷に向けられたのではなかった。 
自分に、驚いていた。 
嫌悪していない自分に。
むしろその甘さは昔から予定されていたとさえ、斉木は感じた。
触れ合う箇所から流れ込んでくる想い。
言葉にするのなら、唯一つしかない。
「好きだ」
その言葉は、自然に斉木の口から溢れ出た。
その瞬間に斉木は理解した。 
これこそが彼の言いたかった言葉だったのだ。
心の奥深くに封じ込んでいた想い。
一生口にすることはない筈だったのに。
神谷が、暴き出した。
 だが。
「ずっと待っていました」
神谷は夢見るように囁いた。
待っていたのだ、彼も。  過酷な季節を耐え花咲かせる薔薇のように……
 斉木はおずおずと、それでも確信を持って神谷の背に手を回して抱き返した。
「好きです」
神谷の囁きが、耳朶をくすぐる。
 斉木はゆっくりと、目を、閉じた――


fin.












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