芹沢直茂の不安な日々  番外編




 恐ろしく整った顔の男が微笑を浮かべて近づいて来たとき、斉木は思わず呟いていた。
「悪霊退散」と。
絶対聞こえない筈だった。
だがその男は笑みを浮かべたまま、斉木の頭を一発どついた。
 ぱかん!
「あ、空っぽ」
相変わらずの美しい微笑なのである。  
手加減は一切なかった模様であった。  斉木は痛みの余り頭を抱えた。
「何すんだ、内海!」
涙さえ浮かべて怒鳴るが、内海は天使の笑顔とも言うべき笑顔で澄ましたものだ。
「撫でただけだろ?」
「これがか? 見ろ、たんこぶ出来てるぞ!」
頭頂部を見せ付けるが、内海は相手にもしない。
却って冷ややかな目つきになって、斉木を一瞥した。
「今、お前心の中で人を中傷誹謗しただろうが」
ここで白を切れないのが斉木の斉木たるゆえん所以である。
う、と唸ったきり黙り込んでしまった。  内海は満足そうに頷いた。
「そうそう、素直にしてりゃいいの。  素直になったマコちゃんに良い事教えてあげようね」
再び、笑顔になる。
これだけ美しいのに、見た者が恐怖に震え上がる笑顔と言うのも珍しいであろう。
斉木は我知らず身体を逸らして、少しでも離れようとする。
「何だよ、いい事って」
聞きたくはないが、聞かねば話が進まない。
それでなくとも衆目を集めているのだ。  これ以上掛け合い漫才をやっている場合ではない。  何しろ現在は代表候補選考会の最中であり、1日の厳しい練習を終えて一息付いているところだったのである。  ライバル達が居並ぶ中で「マコちゃん」は辛い。
おまけに芹沢が。  斉木が五月蠅く言うので、心持ち離れた椅子に腰掛けているのだが、その視線は斉木にしか向けられていない。
 色目を使うの使われるのと莫迦な事を言っていたが、先輩に挨拶をしただけであれなのだ。
幾ら幼馴染みだからといって、内海が除外されるとは限らないではないか。
内海と言えば判っていて殊更斉木に接触して見せるのだから堪らない。
良いこととやらを聞いて、さっさと離れたい。
「愛想ないねぇ。 まぁいいや、麗しの愛子様がお見えになってるぞ」
「姉貴が? 何でまた」
「さぁ、俺はマコちゃんを呼んで来るように言い付かっただけだから」
肩を竦めた――かと思うと次の瞬間には、不意に斉木の耳元に口を寄せていた。
何処かで椅子を倒す勢いで誰かが立ち上がったが、斉木は目をやりもしない。
それ所ではなかった。 内海は耳元でこう囁いたのだ。
「お前があんまり逃げ回るんで、見合い写真持って来たんじゃないの」
今度は斉木が慌てて立ち上がる番だった。
冗談ではない。  自分に見合いの話が来ている事を芹沢に知られたら、色目云々所の騒ぎでは済まないに決まっている。
斉木は血の気の失せる思いだった。
「で、姉貴は何処なんだ?」
「ロビーにおいでだぞ」
「判った」
そう言って走り出そうとしたが、急に立ち止まると、立ったまま固まっていた長髪の男に向かって「お前は着いて来るなよ」と言い捨て、今度こそ本当に去って行った。
残された内海はと言えば。
腹を押さえて、声を出さないように笑うのに苦労していた。
斉木は二人の仲をばらす様な事をするなと芹沢にしょっちゅう言っているみたいだが、内海に言わせれば斉木の方が余程あからさまだ。
今まで話していた内海ではなく、離れていた芹沢に釘を刺す辺り、どういう仲なのか疑われても仕様がないのではないか。
「楽しそうですね、内海先輩」
恨めしそうな声が頭上から降ってくる。
頭上から、というのが気に食わないが、何時も良いオモチャになってくれるので多めに見てやる内海である。
「ああ、楽しいぞ。 斉木を揶揄(からか)う楽しさは、お前もよく知ってるだろ」
「そんなのはね」
芹沢は更に恨めしそうな声になった。
「俺だけ知ってれば良いんです」
大真面目で言う芹沢に、一瞬絶句した後内海はとうとう声を上げて笑い出した。
「何が可笑しいんですか!  大体先刻(さっき)だってくっつきすぎです! あぁんなにくっつく必要ないでしょう?」
「何で俺様がお前に必要あるかないか、お伺いを立てなきゃならないんだよ。
いいか、俺とあいつは風呂に一緒に入った仲なんだぞ」
何故か自慢げな内海。
だが確かに芹沢はダメージを受けていた。
「ふ、風呂に一緒に入った仲……」
「お前、入って貰った事ないんだろ」
追い討ちを掛けられて芹沢は沈んだ。
 実を言うと同棲(斉木は同居と言う)を始めたばかりの頃おねだりをしたことはあるのだ。  結果は、まあ、言わずと知れているが。
芹沢が頭に数日消えないたんこぶをこさえていた事だけ、記しておこう。
 大体少し考えれば、一緒に風呂に入ったのは内海も斉木も子供の頃だと判りそうなものなのであるが、「風呂に入った」と言う言葉だけで理性が飛んでしまった芹沢には冷静な思考回路など望むべくもない。
 芹沢の反応が余りにも楽しいものだから、内海はすっかり悪乗りしてしまう。
「斉木ってさぁ、色は白くないけど肌は綺麗だよな。  もち肌ってかさ。
それがお湯に入ると少し上気して、ほんのりピンクになったりしてな」
沈んでしまった芹沢の頭上から、妙に優しい声音で内海が囁く。
「『〇〇は誠の肌にそっと指を滑らせた。  誠は身を引いたが、それは嫌悪の為ではなく羞恥の為だった。その証拠に誠の肌は、まるで触れられるのを待ち侘びていたかのように〇〇の指に吸い付くようだ。
その肌が熱を持っているのは、湯の所為ばかりではあるまい。
『ねぇ、気持ち良い?  言ってよ、誠』
『――そんな、恥ずかしいこと・・・』
『良いよ、じゃあ言わせてあげるから』
〇〇は誠を素直にさせようと、動きを大胆にした。』」
(※〇〇には好きな名前を入れてお楽しみ下さい)
「止めてくれ――!!」
芹沢は耳を塞いで絶叫した。
脳裏は〇〇と斉木の絡みでぐるぐる状態だ。
悶絶する芹沢を満足そうに眺める内海である。
その姿はさながら魔王のようであった。
お前は何者だ、と突っ込みを入れるような者は居なかった。  皆まだ平穏に生きて居たかったからだ。
 否、一人居た。
時代劇の悪役の如き哄笑を上げかねない内海の肩を叩く者が居る。
誰あろう、加納隆次である。  彼は別に悪魔払い(エクソシスト)ではない。
単に長い付き合いで内海の魔王っぷりに耐性があるだけの事である。
そして何より彼はリアクションの乏しさと無口さが面白みに欠ける為、魔王の餌食になりにくい。
 加納隆次、食べるとき以外は口を開きたくない男。
雑誌のインタヴューで理想の(ひと)を問われ「何も言わなくても何でも判ってくれる(ひと)」と答えたのは有名な話である。
そんな加納であるが、食事中など黙っていても欲しい調味料を差し出してくれる斉木のマメさには、「こいつが女だったらな」と心中呟くことも度々だとか。
 肩を叩かれて振り向いた内海に、加納は短く言った。
「もう止さないか」
「余計なお世話だ」
そう言いながらも内海は態度を改めた。
でしゃばりとは対極にあるこの友人が口を出してくるときは、本当にリミットだからだ。
「今日の所は、これぐらいにしてやるか。  ――で? 何か聞きたい事があったんだろ?
楽しませてくれた褒美に、教えてやらんでもないぞ」
本当にあんたは何様だ、と言いたいのを芹沢は堪えた。
折角内海が開放してくれる気になったのだから、刺激してはいけない。気が変わってしまったら、目も当てられないではないか。
そもそも芹沢は、早く斉木を追い掛けて行きたかったのだ。
「じゃあ聞きますけど、斉木さんのお姉さんってどんな人なんですか」
「愛子様は弟と違って出来たお方だぞ。 お美しく頭脳明晰、スポーツにも秀で人格もご立派だ。  斉木家一の傑物だな」
内海がそこまで褒めるとは。
「要するに、怖い人なんですね」
芹沢は思い切り要約する。
すると横から加納が、
「昔の悪さを握られてるからな」
と言うと「何言ってやがる、共犯の癖に」と内海が毒づいた。
加納の方はリップサービスは終わりだと言いたくもないのか、口を噤んで黙してしまった。
 こいつはこれだから面白くない。そう言いたそうな内海であったが、話し掛けたのは後輩に向かってであった。
「まぁ、お前もお姉さまに取り入ろうとしてるんだろうが、一筋縄じゃいかないぞ。
せいぜい頑張るんだな」
激励の言葉と言うよりけしかけているだけなのだろうが、芹沢は不敵に笑った。
「言われなくとも」
斉木が自分たちの事を公表したがらないのは、身に染みて判っている。
恥じている訳ではなく、公表することによって起こるだろう騒動や、悪くすれば二人が引き離されてしまうことを、危惧しているのだ。
そう、芹沢の自惚れでなければ斉木の一番恐れているのは、自分と無理やり別れさせられる事だ。
だから芹沢も公表しないと言い張る斉木の言い分を、尊重していられるのだ。
芹沢としては、誰彼構わず斉木との仲を言いふらしたいのだが。
そんな事をした日には、何週間指一本触れさせて貰えないか判らない。
『もしそうなったら、お許しが出た後ベッドから出してやらないだけだけどな。』
芹沢の鼻の下は周りが退くほど伸びていた。


 一方、斉木である。
「一体、何でわざわざ――」
ロビーで姉を見つけた途端詰め寄ってしまい、一喝された所であった。
「挨拶も出来ないの? 幾ら弟でも、礼儀は守りなさい」
口調は強くないが、有無を言わせぬ迫力である。
幼い頃からの条件反射で、斉木は背筋を伸ばした。
「お久し振りです。 ご無沙汰していましたが、お変わりなくお元気そうで安心しました」
いささか棒読みであるが及第点には達したらしい。  にこりと笑った。
「あなたも変わりなさそうね。 単純な所とか」
人には礼儀に煩いくせに、いきなりこれである。
斉木は一言ならんと口を開きかけたが、こちらに向かって駆けて来る姿を認めて顔を綻ばせた。
「まーちゃん!」
可愛らしい声で名を呼ぶと、ぶつかりそうな勢いで斉木の足に抱きついた。
甥の克彦である。
たまにしか会わないのに、何故かと言うか当然と言おうか、斉木に懐いている。
まだ三つのこと故、自由にならない言葉を真剣に聞いてやる事や、話をするとき絶対に目線を合わせてくれる事等が、甥っ子の信頼を得ているのだろう。
そして何より、それを無意識にしている優しさも、重要なものであった。
斉木は片膝を付いて、克彦の頭を撫でてやった。
「ちょっと見ない内に、大きくなったなぁ」
「この子は本当に、誠が好きよね」
照れたように笑うわが子を見詰め、愛子が言う。
彼女の愛息は、実の父より誠に懐いていた。  実際そうやって二人で居ると、父子以外の何者でもない。
おまけに顔もそっくりなのだ。
簡単に言えば斉木家の血が色濃く出たと言うことだが、男の子である分、母である愛子より叔父に似たのである。
「まーちゃん、ブーンってして!」
叔父の首っ玉にしがみついて克彦が言う。
ブーン、というのは両脇を支えて振り回す、飛行機ごっこのことだ。  大抵の子供は、この遊びが好きである。
   斉木も何時もなら進んで遊びに付き合ってやるのだが、今はなんとしてもしなくてはならない話がある。
「ごめんな、お兄ちゃんお母さんとお話があるんだ。  遊ぶのはその後で良いよな?」
「あとで?」
明らかに不満そうな声で聞いてくる。
三歳児相手に、後で、は殆ど通用しない。 見る見るご機嫌斜めになって行く克彦に、斉木が困って救いを求めようと姉を見ると、ねぇ誠、と反対に声を掛けられた。
「あの子、もしかして誠の後輩?」
「は?」
斉木は嫌な予感を覚えた。
「あの柱の陰からこっちを見てる、アフガンハウンドかサルーキみたいな子」
あいつは犬か!と思ったが、すぐに誰だか判る所は的確と言えるかもしれない。
芹沢が、ご主人様に飛びつきたいが、命令を無視したから起こられるかもしれない、と迷う犬のような表情でこちらを見ている。
隠れているつもりなのかもしれないが、あの図体ではどうやってもはみ出してしまうのだ。
怒る気も失せたが、ここで甘い顔をしては癖になる。
怒った顔を作り、叱り付けるために一つ息を吸った。  
だが、斉木は折角吸ったその息を噴出してしまった。
何故ならば克彦が芹沢を指差し、
「あー!キリンさんだぁ」
と叫んだからだ。
「き、きりんさん…」
確かに、90cmちょっとの幼児から見れば、芹沢はでかい。
それにしてもキリンはないだろう。
 当の芹沢は自分が何を言われているか知らない。 知らないが、斉木が笑っているのだから怒られないだろうと見当をつけ、いそいそと傍らにやってきた。
「来るなって言ったろう?」
苦笑しつつ言ったが、来てしまったものは仕様がない。
「紹介するよ。 俺の姉の愛子」
掌で指し示すと、愛子は華やかに微笑んで見せる。
顔の造りは斉木と似ている。
しかし女性特有の円やかな輪郭と繊細さ、何より性格の違いが印象を全く似ていないものにしていた。
望まなくても人の上に立つ、そんな風格が愛子にはある。
成る程、これならば内海が敬うのも判ると言うものである。
芹沢は居住まいを正した。
「初めまして、芹沢直茂と言います。  斉木さんには何時もお世話になっています」
「この子はお世話するのが好きだから」
それはそうなのだが、そんなに軽く言われると少々癪に障る芹沢である。
「俺は特別お世話になってます。 そりゃあもう、色々と」
力を込めて言うと、愛子もにっこりと笑い
「まぁ、どんな風に?」
と切り返す。
これは勘付かれているのではなかろうか。
そう気付いた芹沢の横では斉木が青くなっている。
「ち、ちょっといいかな」
芹沢の腕を引いてその場を離れようとしたが、「芹沢君は私と話してるのよ」と一蹴されてしまう。
 斉木は途方に暮れた。  このままでは芹沢が何を言い出すか判らない。
後が怖いが、芹沢を強引に連れ出すしかない。そう決心した時。
「キリンのお兄ちゃん、抱っこして!」
克彦が背を一杯に伸ばして、芹沢を見上げている。
「うわっつ!何ですか、この子。  斉木さんにそっくり!
あ、もしかして――」
じと目で斉木を睨む芹沢。
「隠し子じゃないでしょうね」
物も言わず斉木の鉄拳が飛んだ。
「アホか! 克彦は甥だぁ!」
拳骨のヒットする音と怒鳴り声がロビーに響き渡った。
「うぅ、少しは手加減してくださいよ」
「うるさい!」
そっぽを向いたが、
「まーちゃん、けんか?」
と甥に心配そうに聞かれ笑って見せねばならなかった。
「大丈夫だよ、喧嘩じゃないから」
「そうそう、お兄ちゃん達は仲良しさんだからね」
何時の間にか回復した芹沢が、素早く斉木の肩を抱いた。
「ほ〜ら、こんなに仲良しv」
調子に乗って抱き寄せようとした芹沢の足を、斉木は思いっきり踏んづけた。
 芹沢は痛みの余り声も出ない。
「サッカー選手の足になんてことを……」
しばらくうめいていた芹沢が恨めしそうに言うが、斉木は冷たい目で一瞥しただけだ。
その目が、お前が悪い、と言っている。
「だいじょうぶ? おにいちゃん」
肩を落とす芹沢に克彦が声を掛けた。
斉木は少しばかり不安を覚えた。
芹沢が子供相手ににこやかなところなど見たことがない。
仮にも日本代表のフォワードを務める身だ。  サッカー少年なら、誰もが憧れるであろうし事実人気もある。 しかし、憧れの視線を一身に集める当の芹沢はと言うと「寄るな触るなウザイ」オーラを発散しているものだから、子供たちはすっかり怯えてしまう。
 催しなどで子供と接するときもそうなので、見かねた斉木がフォローするのが常になっている。
面倒見が良くて優しい斉木選手はあっという間に子供たちの人気者だ。
そうなると今度は「人のもんにべたべたしやがって、許せん!」と来る。
子供相手に何言ってるんだ、斉木が呆れて言うと、芹沢は真剣な顔で言ったものだ。
「十年後にはライバルになってるかもしれないじゃないですか!」
――斉木は返事をする気を失った。
 そういう訳で、ついつい可愛い甥の心配をしてしまうのは、致し方ないところである。
しかし。
「うわ、心配してくれるんだ。 克彦君だっけ? 優しいんだね〜」
はい?
斉木は我が耳を疑った。
何何だ、この愛想の良さは。
「克彦君、幾つ?」
「みっつ」
紅葉のような手で、三、と示そうとするが子供の手では上手く出来ずに一生懸命の様子が可愛い。などとは、何時もの芹沢なら絶対思わないであろう。
なのにこのやにさがった顔はなんなのだ。
三割方は、二枚目度が下がっている。
「よし、お兄ちゃんが抱っこしてやる!」
マジか?!
 斉木が心の中で突っ込む間にも芹沢は克彦をその腕に抱っこしてやっている。
長い腕を伸ばして、軽々と頭上に差し上げると、克彦は声を上げて喜んだ。
二メートル近い芹沢の頭上に抱き上げられて喜ぶのだから、大物だ。
普通の子供なら、怖がるに違いない。
姉貴に似たんだなぁ。
しみじみと斉木は思った。
「お姉さん、克彦君嬉しそうなんで、そこらを一回りして来て良いですか」
嬉しそうなのは克彦ばかりではなく芹沢もだ。 
斉木はもう突っ込む気が失せていた。
芹沢は実は子供好きだった。 そう思うことにした。
絶対に有り得ないが。
「好青年じゃない」
芹沢と息子の後姿を見送りつつ、愛子が評した。
「俺も信じられない」
思わず漏れた斉木の呟きに、愛子が訝しげな視線を向ける。
「何、それ」
「なんでもない。 それより、今日はどうしてわざわざ会いに来たんだ?」
斉木は我に返って、自分が今何をすべきか思い出した。
見合いの事を質すなら、芹沢が居ない今しかない。
「お見合いのことなら、する気はないって断った筈だけど」
「誠、あなた私がそんな事のために動くと本気で思ってるの?」
下らない事を言うなと言いたげな愛子。 その傲然とした様が、よく似合う。
「それに私は不幸になる女性を増やすつもりはないわ」
「――それはどういう意味かなぁ」
斉木に結婚する気は全くない。
それでも自分の妻になる女性は、初めから不幸になると決め付けられるのは良い気持ちのする物ではないのである。
「私が知らないとでも思ってるの?」
豊かな胸を僅かに逸らせつつ愛子が言う。
彼女の態度はいつでも堂々としている。  一方の斉木は後ろ暗いところが幾つもあるものだから、なんとなく猫背になってしまっている。
「な、何を知ってるって?」
「あなたの恋愛対象がヘテロじゃないって事をよ」
「!!」
斉木は声も出ない。
目を見開いたまま固まってしまう。
「何驚いてるの」
「どうして……」
姉に悟られるようなへまをしでかした覚えはない。
十代の時は人並みにエロ本などを嗜んだし、彼女らしきものがいた事もあった。
むしろ芹沢とこんな事にならなければ、自分の性嗜好に疑問を抱く事はなかっただろう。
本人も気付かなかった事をどうして、と聞きたくもなる。
「それはね」
愛子は言った。
「女の勘よ」
この非科学的な言葉を前にすると、大抵の男は言葉を失う。
呆れてものが言えないか、図星を当てられたかのどちらかであろうが、この場合は正に後者だった。
それ以前にどうして知ってるのかと訊いた時点で「そうです。俺は同性愛者です」と認めているようなものだ。
 斉木は頭を抱えた。
「俺って間抜け……」
「今頃気付いたの?」
止めの一撃。
容赦と言うものがない。  時々本当に血の繋がった姉なのか、疑ってしまう斉木であった。
「その事は父さんと母さんには――」
「それは自分自身で言うことでしょ」
と言うことはまだ言っていないと言うことか。
ホッと安堵の溜息をつく弟を見やって愛子は声を改めた。
「あなたが常識を守りたいとか、両親に心配を掛けたくない気持ちは判るわ。
でも、それが相手を不幸にするかもしれないと考えたことはある?」
いつもは高圧的なのに、こんなときには本当に優しく諭すように語り掛けてくるのだ。
上手いと言おうか、狡いと言おうか。
だが、今の言葉は斉木の胸に響いた。
考えない訳ではなかったのだ。  しかし、考えれば考えるほど、最悪の方向にしか思考が行かなくなる。  芹沢との事を公表すれば、それなりに知名度のある二人のことだから唯では済まない。
サッカーと芹沢、両方を奪われてしまう事だって、有り得る。
そうなったら……どうやって生きていけるのだろう。
「まだ、決心がつかないんだ。 もう少し、考えたい」
「結論が出た頃は、もうお爺さんになってるんじゃないの?」
「あ〜ね〜き〜」
それはあんまりだろう、と言い掛けた所へ、克彦を肩車した芹沢が血相を変えて走ってきた。
「斉木さん、克彦君が!!」
「どうした!?」
斉木の声に緊張が走る。
強張った顔で芹沢は言った。
「うんちだそうです!」
「あほかぁ!」
すかさず斉木は怒鳴った。
ボケと突っ込み、中々の名コンビである。
「便所に連れて行ってやればいいだろうが」
「俺がですか??」
芹沢は心底情けなさそうな表情になった。
「誠、芹沢君が気の毒よ。 子供に慣れてないんでしょ」
愛子が助け舟を出す。
「そりゃ、そうだけど」
「だから、誠がトイレに連れて行ってあげて」
「何で俺が」
ここはやはり母親の役目だと、斉木は主張したい。
何より自分が克彦をトイレに連れて行けばその間、芹沢と愛子が二人きりになってしまうではないか。 それは是非にも避けたい事態である。
「私はこの建物に不慣れなのよ。 トイレの場所、探してるうちに手遅れになるかもよ」
愛子はいつでも正しい。
斉木は渋々ながらも克彦の手を引いてトイレに急いだ。
その光景は、本人がなんと言おうと微笑ましいものだった。
 二人の背中を見送って、はた、と芹沢は困った。
望んでいた情況とはいえ、いざこうなると言葉に詰まる。
自分が斉木と夫婦も同然の仲だと宣言したい訳だが、お姉さまに好感を与え、尚且つ斉木に後で殴られないで済むような気の利いた言い回しはないものだろうか。(※ない。)
斉木以外の人間に気に入られようという、普段使わない方面に頭を使って頭痛のしそうな芹沢であった。
挙句に、
「子育て、大変ですね」
などと言ってしまう。
違うだろ! 心の中で自分に突っ込むが、愛子はにこやかに応じてきた。
「そうね。 でも、可愛いから。 それに誠の面倒も見てやってたし、慣れてるの」
「小さい頃の斉木さん、可愛かったでしょうね」
あばたもえくぼ状態の芹沢が締りの無い表情で言っても、愛子は何の疑問も感じない様子で頷いた。
「そうよ、可愛かったわよ。  
今でもね、あの頃と変わらないの、私にとっては。  ちょっと頼りない弟。
だから、やっぱり心配しちゃうのよ」
「俺がついてます!」
反射的に叫んでいた。 叫んでから後悔したがそれは半瞬も続かず、開き直って更に言った。
「一生側に居て守ります! だから、俺に任せて下さい」
必要以上に力を込めて、握り拳などを作って宣言してしまった。
もはや冗談ではすまない情況だ。
返ってくるのは、嫌悪か驚愕か非難か……そのどれでもなかった。
何と愛子は、優しく微笑んだのである。
「そう、じゃあよろしくお願いね」
何もかも了解したと言いたげな笑顔。
理由を問うべきだったろうか? だが芹沢は愛子の態度を不審に思うどころではなかった。
とうとう斉木の身内に、しかも姉という近しい者に二人の仲を認めてもらったのだ。
お願いすると言われてしまったし、これはもう、婚約者?
有頂天になった芹沢は、愛子の手を取ってぶんぶん振り回した。
30cm以上身長差のある芹沢に振り回される事になった愛子は迷惑この上なかったが、怒る気にはなれなかった。
芹沢の喜びようが余りにも開けっぴろげで、却って微笑ましいくらいだ。
――以前、弟から転居の知らせがあった。
葉書に新住所と電話番号が印刷されている愛想の無いものだったが、末尾に直筆のメッセージが付けられていた。
『来なくて良いから』
引っ越したからと言って様子を見に行くような姉ではないと知っていて、わざわざ一筆書いて寄越すのだから、余程知られたくない事があるのだなとすぐに判ってしまう。
そんな所は子供の頃と全く変わらない。  
でももう大人なのだし放っておこう、そう思った。
数日後、愛子が弟の新居の付近に居たのは、単なる所用の為近くまで来ただけであって、弟が気になった訳では断じてない。
ついで(・・・)だから顔でも見て行こうかしら。
愛子が思ったとき、当の弟の姿が視界に入った。
声を掛けようとしたが、隣に妙に美形の青年が居る事に気がついて、掛けようとした声を飲み込んだ。
 近所のコンビニにでも向かっているのか、ラフな格好をしている。 にも拘らず人目を惹く長身に華のある容姿。
そんな男が自分の弟を実に愛しそうに見詰めている。
弟はといえば笑ったりむくれたりしながらもその視線をしっかり受け止め……とても、幸せそうであった。
『そう言うこと』
二人の様子を見ただけで、愛子は悟ってしまった。
彼女に、驚きは全く無かった。
弟のこと母は以上に構っているし、知っているという自負がある。
弟の表情を見ていて、自分が口を出す必要は無いと思ったのだ。
 幸せなら良いと言うものではないということを知らぬ弟ではない。
そして、幸せでなければ意味が無いということも、知っているだろう。
『まぁ、大丈夫でしょう』
なんだかんだ言って、弟には甘い。
 今日来たのは、一度ぐらいは弟の恋人と話をしてみようと思ったからだが、どうやら本気のようだし見守ってやるとしよう――
「さて、じゃあ用も済んだことだし」
愛子はそう言うと、微苦笑を浮かべた。
芹沢がその視線を辿ると、斉木が甥を抱いて走り出すぎりぎりの速度で傍らにやって来た。
怒った顔をしている。
芹沢は慌てて愛子の手を離した。 が、時既に遅し。
「何、姉貴の手なんか握ってるんだー!! お前、姉貴になんか変なこと言ったんじゃないだろうな!」
辺りに響き渡るような大声で叫んだ。
次に来るべき拳骨に備えて、芹沢は頭を抱えてガードする。
そこへ愛子が割って入った。
「安心しなさい。 反対しないから」
「そう言うことじゃなくて、だな」
「そう言うことで良いのよ!」
斉木、しばし絶句。
愛子は何食わぬ顔で斉木の腕から、息子を受け取った。
「克彦、ちゃんとトイレ出来た?」
「うん! おてても洗ってきた!」
いきなりのアットホーム。
その光景を見詰める芹沢は妙に上機嫌であるし、斉木はそれ以上問い詰めるタイミングを失ってしまう。
「じゃあお暇するわね。 克彦、まーちゃんにバイバイしなさい」
「もう帰るの? まだ遊びたい」
「お家に来てもらえばいいでしょ?  ね、芹沢君。 誠と二人で」
「勿論、伺わせて頂きます」
芹沢は即答したが、斉木は「二人で」と言う部分に嫌な予感を覚えずにはいられない。
愛子はそんな弟を笑みを含んだ瞳で一瞥し、じゃあ又ね、という挨拶を残し退場した。
「――素敵なお姉様ですねぇ」
名残惜しげに手を振る克彦に応えて振っていた手を下ろして、芹沢が感じ入ったように呟いた。
「理解のあるお方だし」
その芹沢の台詞に斉木は、今すべきことを思い出した。
「ちょっと来い!」
芹沢の腕を掴んで歩き出す。
引き摺らんばかりにして歩く斉木の周辺に漂う低気圧が目に見えるようで、芹沢は大人しくその後に従った。
 斉木が足を止めたのは照明も薄暗い、EXITの表示の点滅する行き止まりだった。
「なんですか、こんな人気の無い所。いちゃつくにはいいですけどね」
「人気のないところに来たのはなぁ」
芹沢の軽口に、斉木は地の底から響くような声で応じた。
「お前を殴る為だ!」
手を振り上げる斉木。
「わぁ、待って下さいよ! 何で殴られなきゃならないんですか!」
「知れたこと、姉貴にばらしたろうが!」
「ばらすって、俺は何も言ってませんよ」
頭を抱えてガードしながら芹沢がわめく。
「ただ一生守るって言っただけで」
「言ってるじゃないか!」
「だって本当のことでしょう!!」
本当も何も、それではプロポーズの台詞ではないか。
聞いた姉もさぞかし驚いただろう。
「姉貴は何て言ったんだ?」
「それじゃお願いするわ、って」
「何だ、そりゃ……」
斉木は一気に脱力した。
「殴りません……?」
恐る恐る問う芹沢。
「もう疲れた」
斉木は壁に背を持たせかける。
芹沢はいそいそとその隣に並び、肩に手を回そうとしたがすげなく振り払われてしまった。
怒っている訳ではなさそうだが、何か屈託している様子であるのを見て取って、芹沢は表情を引き締めた。
「お前さぁ、何でそんなに俺の家族に俺達のことばらしたがるんだ?」
斉木が視線を俯かせたままで問うてくる。
「こんなこと言うと縁起が悪いって言われそうですけど」
そう前置きして芹沢は正直に告白した。
「俺たちって結構離れてる時間って多いですよね。
遠征があったりして海外行くこともあるし……そんな時に、もし斉木さんの命に関わるような事があっても俺は知りようがないってことです。
俺達はチームメイトでもないし、先輩後輩って訳でもない。
一緒に住んでることも一部の人しか知らないし、内海先輩辺りが連絡くれたとしても治療方針に口出すことも出来ない。  それどころか側に近寄ることも出来ないかもしれない。
そんなの、想像するだけで――」
芹沢は絶句してしまった。
言葉に出来なかったその気持ちが、斉木にはよく判った。
重要なのは形ではないと口では言っていても、周囲に認められることはやはり大切なことだ。 人間は一人で生きている訳ではないのだ。
 二人の問題なら互いの気持ちさえしっかりしていればいい。
だがそこに肉親が絡むとき、今の情況では互いの存在は隠しておくしかない。
もし芹沢の言うような事態に直面した時は、完全に蚊帳の外になるだろう。
その疎外感、孤独、不安は如何ばかりであろうか。
人生を共にする相手なら尚更だ。
『相手を不幸にすると考えたことはない?』
姉の問い掛けが脳裡に蘇った。
「ごめん、芹沢」
「やだな、誤って欲しいんじゃないですよ」
神妙な面持ちの斉木に芹沢は慌ててしまった。
このままだと斉木の性格では、自分を責める方向にまっしぐらになりそうだ。
それは芹沢の本意ではない。
「それに、ほら。 お姉様って言う理解者が出来たことだし」
「う……まぁ、そうだな」
話を明るい方に持って行こうと愛子の名前を出した芹沢だったが、姉の公認を得たことは斉木にとっては単純に喜んでばかりはいられない。
姉は確かに度量が広いが、性質の悪い面白がり屋でもあるのだから。
「克彦君、可愛かったですね。 本当に今度遊びに行きましょう!」
「何時から子供好きになったんだ……」
浮かぬ顔の呟きは、芹沢の耳にはしっかり届いていた。
「どうしたんですか、斉木さん。 俺、なんかしましたか」
「別に」
「別に、じゃないでしょう?  あんたが俺と目を合わせないときは、絶対なんかあるんです」
芹沢は怖い目をして斉木に詰め寄った。
「一人で考え込んでその挙句自滅しそうになるんだから、今の内に正直に言いなさい」
「正直に、って……」
斉木は口篭る。
身に覚えが無い事もない。様な気がする。
先刻芹沢に対して悪いと思った気分が持続している斉木は、常より素直に告白する気になった。
「俺はただ、お前がそんなに子供好きなら、女性と結婚して子供作ればいいのにって思っただけだ」
斉木は一息に言った。
芹沢が抱えていた不安に比べると余りにも軽い、甘えに属する思いである自覚がある分、恥ずかしくて仕方ない。
芹沢と目を合わせられず顔を逸らしていたものだから、芹沢がいきなり抱きついてくるのをかわせなかった。
「芹沢っ! 離さないか、こんなところで!!」
必死でわめくが、芹沢の手は離れるどころか緩みもしない。
「何でそんなに可愛いんですか!」
感極まったように声を上げる芹沢。
「ああ? なんでそうなるんだ?」
「だってそれって、妬いてるんでしょ? 居もしない女と、それと克彦君に!」
「ばっかじゃないか? お前の思考にはついて行けん!」
悪態をつきながら――斉木は少々顔を赤くしていた。
嫉妬、というのとは勿論違うが、己の身が子を成せないのは事実で、そう言う意味では芹沢の将来の選択肢を一つ狭めていると言えよう。
芹沢の子供嫌いは、一面で斉木を救っている訳だ。
そう言う自身の自分勝手な部分に羞恥を感じてしまうのが、斉木と言う人間なのだ。
「安心して下さい、俺は子供なんか嫌いです。 汚いし煩いし、自分勝手だし」
一割方は斉木を安心させる為に言っているのだろうが、それにしても克彦に対する芹沢のやにさがった態度は解せないものがある。
それを読んだかのように芹沢が言った。
「克彦君は特別ですよ。 だって斉木さんにそっくりじゃないですか!」
「又、お前はそう言うことを……」
芹沢の両腕を引き剥がしつつ、斉木は唸った。
嫌な予感がする。
「斉木さんも小さい頃はこんな風だったのかな、と思うと可愛くない訳無いでしょう。
ちょっと、もう少し抱っこさせて下さいよ」
「煩い」
「ケチ。 もしかして、照れてるんですか?」
「だからなんでそうなるんだ」
「ああ、もう本当に可愛いですよねぇ。 あんなに小さい斉木さんに会ったら、誘拐しちゃいそうですよ」
芹沢は危ないことを言い出した。
瞳が、イッてしまっている。
「おい、芹沢」
声を掛けるが、芹沢の耳には届いていないようだ。
「誘拐してそれで、俺が育てるんです。
誰にも見せないで、二人きりの部屋で。 悪い虫がつかないように大事に大事に育てますよ〜。  それで俺だけに優しくて、俺だけに笑いかける、俺だけの斉木さんにするんです。 これぞ男の夢、若紫計画ですよ!」
芹沢はうっとりと妄想に浸っていた。
どんな妄想か薄々想像できるだけに、斉木は顔を紅くした。
が、それは羞恥の為ではない。
芹沢はまだ妄想を楽しんでいた。
故に斉木が固く拳を握り締めたのに気がつかなかった。
「お前は克彦を見てそんなことを考えてたのか。 この不届き者め!」
斉木の地に響くような声に芹沢は我に返った。
今度はとりなす者も、身を隠す場所も無い。
そして、斉木は心に決めていた。
絶対に芹沢を殴ると。
「天誅――!!」

その後の芹沢の運命は、推して知るべし。
どっとはらい。











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