Chupa Chups
「ちゃいきさん、これあげゆ」
舌足らずな言葉と共に、紅葉のような手が差し出したのはカラフルなセロファンに包まれた棒つきキャンディー。
「くれるの? 俺に?」
斉木は床に膝をついて視線の高さを合わせながら尋ねる。
返って来た小さなうなずきに、斉木は笑顔で受け取った。
「ありがとう」
「こいつね、斉木さんのこと大好きなんですよ」
チームメイトは子供の頭を撫でながら言った。
「俺? 芹沢じゃなく?」
小さな子供がまず分かり易いところから入ってくるのは常道だ。
それ故に、FW陣の中で圧倒的な実力を持つ芹沢は、子供人気もチーム内でナンバー1を誇る。
一方で、このチームでは守備と攻撃のリンクマンとして地味な黒子に徹している斉木は、小さな子供の興味はあまり引かない。
斉木自身、自分が小さかった頃もそんなもんだったのよなと思うので気にしてはいない。
だからこそ、目の前の子供ぐらいの年頃で斉木のファンだと言われると少し驚く。
「今日練習に連れて行ってやるって言ったら、斉木さんにあげるんだって言って、昨日のおやつのそれに手をつけなかったぐらいで」
と、チームメイトは斉木が持っているキャンディーを指差した。
「迷惑かもしんないけど、貰ってやって下さい」
「そっか、ありがとうな」
斉木は子供の目を正面から見つめて、右手を差し出す。
「握手」
おずおずと差し出される紅葉のような手をしっかりと握って破顔一笑すると、子供は顔を赤らめて父親の脚の後ろに隠れてしまった。
「すいませんね、いっちょ前に照れてやんの」
苦笑する父親に、斉木は笑顔で応じる。
「いいよ。これ、ご馳走様」
斉木はもらったチュッパチャプスをひらひらさせて立ち上がった。
そうして振り向くと、中島を筆頭にしたチームの若手達がひそひそと話している姿が目に入る。
「もー、翔太君斉木さんラブだぜ」
「相変わらず斉木さん、人たらしなんだから」
「お前ら何言ってんの、人聞きの悪い」
本人達は隠れているつもりだったのだろうが、基本、体育会系は斉木ほどではないにしても声が大きいので全部筒抜けである。
当の本人である斉木は、先ほどまでとはうって変わって鼻の頭にしわを寄せている。
「いや、人聞きが悪いも何も本当のことでしょ」
そこで若手に助け舟を出したのは、珍しいことに芹沢である。
「斉木さんの人たらしレベルって洒落になってないっしょ」
「何それ、お前にだけは言われる筋合いはないな」
売り言葉に買い言葉であるが、さほど深刻なものではないことはお互いの表情が物語っている。
斉木に至っては、手にしていたチュッパチャプスの包装を剥いて口に入れる有様だ。
「迷わず口に入れましたね」
「いいだろ、これぐらい」
斉木は元々甘いものは好きな方だ。
日々多大なカロリーを消費するせいか、甘いもの好きな選手は実は多い。
飴だのチョコレートだの差し入れでもらえば争奪戦になることもしばしばだ。
「いや、別に食べるなって言ってる訳じゃないですよ」
「じゃ、何よ」
「……今日、取材日だってすっかり忘れてるでしょ」
ロッカールームのドアを開ける斉木の広い背中を見ながら芹沢が告げる。
「……あ」
指摘され、思わず声を出してしまった斉木は、口からチュッパチャプスを取り落としそうになって慌てて口元を押さえる。
もはや威厳も何もない、ただのおっちょこちょいである。
せめて芹沢以外には見られていないことを祈っていたが、そうは問屋が卸してくれなかった。
「あら、激写成功?」
すぐ近くから聞き覚えのある女性の声。
恐る恐る視線を上げれば、顔なじみの女性記者がデジタルカメラを覗き込んで笑っている。
「やだ、かわいい写真が撮れたわよ」
と、取材対応のために一緒にいたクラブ広報に撮れた写真を見せている。
「ちょ、ちょっと待って…」
「ああ、素な感じがいいっすね。斉木さん、これ公式のスタッフブログに使っていいですか?」
一応質問しているが、ここで嫌だと言っても使うのがこのクラブの広報である。
「だから言ったのに」
斉木の背後で芹沢がため息と共に呟く。
「遅いよ!」
斉木は涙目で訴えるが、全ては後の祭りだ。
「あれ、斉木さん」
「ん?」
練習後、着替えを終えて帰ろうとすると、斉木がバッグからそれを取り出す。
それを目ざとく見つけた中島が言う。
「またチュッパチャプスですか?」
「だって、みんながくれるんだもん」
と、斉木は当たり前のようにセロファン包みに手をかける。
あの日、食べ物を無駄に出来ない性分の斉木は、その後の囲み取材の時も了承を取り付けた上でチュッパチャプスを口にしたままだった。
非常に行儀が悪いことは自覚しており斉木は恐縮の呈だったのだが、意外や意外、クラブに出入りする女性ライターや記者に何故かかわいいと評判になり、みんな斉木に会う度チュッパチャプスを差し入れに持ってくるようになったのだ。
いろいろもらっている内に、斉木が子供の頃には見たこともないような味の種類が出ていることを知り、何となくはまり気味で現在に至っている。
「マイブームって奴?」
「斉木さん、それそろそろ死語じゃないっすかね」
中島に遠回しに古いとつっこまれ、斉木はチュッパチャプスを銜えたまま口を尖らせる。
「うるせー、いいだろ、別に」
「悪いなんて言ってないじゃないっすか」
口の達者な者同士、いつも通り掛け合い漫才に突入する。
斉木のデカ声は勿論のこと、生粋の体育会系である中島も声がでかいので実に騒がしい。
ギャンギャンと周囲に筒抜けの下らないやり取りに、何事かとロッカールームや筋トレ室から若手達がそっと覗く。
その多くは、いつもの二人がいつものことかとすぐに引っ込むが、芹沢と、そして何故か若手の安東が残った。
そうして、芹沢の隣で安東が呟いた。
「何て言うか、斉木さんてちょっとかわいいですよねえ」
その言葉に、思わず芹沢はとがった視線を投げつける。
だが、アイドルのようにかわいい顔には似合わず怖いもの知らずと言われている安東は、全く芹沢の視線も気にしない素振りで微笑んでいる。
「入団するまで斉木さんて、すごくリーダーシップのある落ち着いた人ってイメージだったんで、まさかこんな子供っぽくってかわいい人だと思ってませんでした」
やたら先輩風を吹かせたがる性分のおかげで、斉木は人を取りまとめる立場に立つことが多く、自分自身もそれを役割と持って任じている部分が多大にあるが、実際のところ素は結構やんちゃな性格だ。
昔馴染みはみんな知っているその性格も、プロ入りして以降の斉木を、メディアを通してしか知らない人間にはあまり知られていない。
さすがに、毎日接するチームメイトやスタッフにはほどなくバレるのだが、大体はそこで何かを言うことはなかった。
チームメイトで、こんなしみじみと斉木のことをかわいいなどと言うのを芹沢が聞いたのは、これが初めてだったのだ。
心拍数が上がっているのを芹沢は自覚し、胸を押さえた。
呼吸を整えて、そして、安東を見直す。
わずかな気配も見逃さないように。
そんな芹沢の隣で、安東は語を継ぐ。
「今度、僕もチュッパチャプス持って来ようかな」
あははと笑う安東から顔を背けて、芹沢は、口元を歪ませる。
安東が斉木に向ける視線は、自分と同じものではないと思う。
今は、まだ。
だが、自分とて最初はそうでなかったか。
いきなり恋愛の対象として斉木を見ていた訳ではない。
どこで一線を乗り越えたかはもはや思い出せないが、しかし、いつの日からか「おせっかいで口うるさい年長者」から「かけがえのない人」に変わったのは確かだ。
それを考えれば、安東の気持ちがいつ恋愛方向へ転がるのかは分からない。
安東には、地元に残してきた彼女がいるのは知っているが、そんなのは関係ないと芹沢自身が一番良く知っている。
それこそ名うての女好きで漁色家で知られていた自分がこの有様なのだ。
芹沢以外に、同じように感情の一線を越えてしまう男がいたところで全く不思議ではない。
まして斉木の人たらしのレベルは、老若男女お構い無しの最強レベルだ。
今まで勘違いをする男がいなかったのは僥倖でしかない。
芹沢は、軽く目を伏せ、呼吸を整える。
そして玄関へと向かいながら、未だに漫才を続けている斉木の名前を呼んだ。
「斉木さん」
あれだけギャンギャン喚いていたくせに、斉木はその声を確実に拾う。
迷わず芹沢に視線を向けて小さくうなずくと、中島に言った。
「あ、呼んでるから帰るわ」
「ういっす、お疲れっした」
中島もあっさりと打ち切って軽く会釈する。
「じゃあな」
と、手を上げてから芹沢を追って来た斉木はようやく気がついた。
押し黙って歩く芹沢の隣に並んで、恐る恐る言う。
「……もしかして機嫌悪い?」
「別に」
「いや、悪いだろ、明らかに」
斉木が、チュッパチャプスを銜えたまま、胡乱な視線を向けてくる。
芹沢と斉木の身長差の関係で、上目遣いになっている自覚は多分ない。
その自覚のないところが、芹沢を不安に陥れているのだと言う自覚も、恐らくない。
むしろ八方美人気質の斉木は、一度懐に入れた相手なら誰彼構わず素を見せる傾向がある。
芹沢は斉木のそう言うところにつけ込んだ自覚がある。
今また、別の男が同じようにつけ込んだとしたら、斉木はどうするのだろう。
無言のまま運転席に乗り込み、乱暴にドアを閉める。
自己嫌悪は、ドアに八つ当たりをしたぐらいでは収まらなかった。
誰かが斉木に粉をかけるのを想像するのも嫌だったが、そこで斉木を疑う自分が一番嫌だった。
可能性を元に斉木の気持ちを疑ったところで、何も得られるものなどない。
失うものならばあるかも知れないが。
分かってはいるのだ。
自分ではない誰かの気持ちを変えることなど出来ない。
出来るのはただ、斉木に見捨てられないように努力することだけだ。
それでも。
この腹の底にとぐろを巻く、どす黒い感情をどのように処理したらいいのか分からない。
ハンドルをつかんで額を当てる。
助手席のドアが閉まる音を聞くが、余計に顔を上げられない。
斉木が助手席に乗り込んでも、芹沢は顔を上げる気配がなかった。
何がきっかけなのかは分からないが、芹沢がこうなった原因は自分にあると斉木は経験上知っている。
ただ、胸に手を当てて考えて見ても、やはり原因が分からないのだが。
練習中もその後の風呂でも、芹沢が特に変わった様子はなかった。
その後は、中島といつも通りの掛け合い漫才をしていただけで、何をしていた訳でもない。
騒がしかっただろうとは思うがいつものことだし、それにうるさいだけならうるさいと怒られて終わりだ。
斉木は眉をしかめ、銜えていたチュッパチャプスを取り出した。
半透明のキャンディーが、ガラス越しの日差しを浴びてキラキラと輝く。
それを眺めていて、斉木は一つの結論にたどり着く。
幸い、バッグの中にはまだチュッパチャプスが入っている。
中身も見ずにバッグの中に手を突っ込み、手に当たったキャンディーを取り出して未だ突っ伏したままの芹沢を呼ぶ。
「芹沢」
しかし芹沢は凍ってしまったように動かない。
「芹沢」
もう一度呼んでみても同じだ。
返事すらしない。
斉木は小さくため息をついて、持っていたチュッパチャプスで芹沢の頭を叩いた。
「痛っ」
あくまで軽く叩いたつもりだったのだが、思いの他いい所にヒットしてしまったらしく、芹沢の悲鳴が車内に響く。
「な、何するんですかーっ」
頭を抑えて涙目で抗議する芹沢の口に、斉木は包装を剥いたチュッパチャプスを放り込んだ。
「よく分からんが、落ち込んだ時は甘いものに限る」
うん、そうだそうだと一人納得する斉木に、芹沢は言葉が出ずにただ見つめる。
すると、その視線に込められた思いに気がついたのか、斉木が言った。
「俺はいろんな人にもらったけど、俺があげるのはお前だけだからな」
目を白黒させる芹沢の前で、斉木は顔を赤らめた。
(初出 2009年08月15日)
夕日(2012.09.03)