冬の轍

 今年、斉木は三十三歳になった。

 昨年、斉木は負傷により後半戦を棒に振ってしまった。
 プロ選手であれば、無傷な選手などいない。
 誰もがどこかしら痛めていて、それでもプレーを続けている。
 ましてベテランともなれば、負荷は長年に渡り蓄積されており、更に加齢が追い討ちをかける。
 そんなことは嫌と言うほど分かっているし、元々が痛みに対して我慢強かった斉木は、違和感を感じても我慢してしまった。
 それがいけなかったのかもしれない。
 夏の中断期の合宿中にチームから離脱することになってしまった。
 さすがの斉木でも耐えかねる痛みに対する診断結果は、グローインペイン症候群。
 全治は一先ず三ヶ月とされたが、実際にはどれぐらいになるかは分からない、と、ドクターは言った。
 サッカー選手の職業病だが、その経過は個体差が大きいのだ。
 現在は治療によって完全に回復する場合もあるが、痛みが取れないままの場合もある。
 その後、治療と指導を受けてストレッチや体幹トレーニングに励んだものの、練習に完全合流出来たのはリーグ戦も残り二試合というところだった。
 既にチームは、優勝戦線とも残留戦線とも関係がない順位に落ち着いてしまっていた。
 そうなると、ある程度出来上がってしまっているチームの中で怪我あがりの斉木を無理して投入する必要性もなく、結局、斉木はスタンドから試合を眺めるしか出来なかった。
 痛みが治まらない頃、早く戻りたいと願ったピッチ。
 痛みが治まった時、まさかこんなにも遠いものになるとは夢にも思っていなかった。
 そう遠くない未来に、スパイクを脱がねばならぬ時が来るのだと、斉木が始めて実感した年だった。

 そして年が明け、斉木はある決意をした。
 芹沢にすら知らせない、知らせることの出来ない、一人心に秘めた決意だった。

 シーズン前の第一次合宿は、休めた体を試合仕様に戻す大切な時期だ。
 斉木は昨年の反省として、少しでも体に違和感を感じたらトレーナーに相談するように心がけた。
 その結果、三十代に入ってからは一番のフィジカルの仕上がりとなった。
 シーズン終了後完全に休めたのが功を奏したのか、股関節の痛みも感じなかった。
 そして、戦術を深めるための第二次合宿に突入する。
 三日目に行われた紅白戦で、斉木は右太腿に鋭い痛みを感じ、自らピッチの外に出た。
 診断の結果は右大腿ニ頭筋の肉離れだった。
 全治二週間。
 この場合の全治は、日常生活に支障なく復帰出来るまでの期間であるため、試合に出場出来るようになるまでには更に一、二週間を要する。
 開幕戦に間に合うかどうか、ギリギリのところだ。
 しかし、斉木はドクターが驚くほどの回復を見せ、一週間後にはランニングを開始し、二週間目には完全復帰した。
 勿論、斉木本人の努力は言うまでもないが、同棲する芹沢の協力も大きかった。
 食事や、丹念なマッサージ等、一人であればとても出来なかっただろうサポートをしてくれた。
「悪いな、芹沢」
「気にするなら、とっとと復帰して下さいよ」
 斉木の弱気を小憎らしい表情で芹沢は一蹴する。
 それが、斉木の負担を心身共に減らしたい、芹沢の心尽くしであることは分かっている。
 その思いに応えるには、少しでも早く復帰することしかないことも。
 そして、斉木は見事に応えた。

 開幕戦の前日、発表されたスタメンの中に斉木の名前があった。
 斉木は知らず、大きく息を吐く。
 自身の地位がけして安泰なものではない自覚はある。
 少なくとも昨年の後半戦は、斉木抜きでチームとしてそれなりに機能したのだ。
 うかうかしていれば、突き上げてくる中堅や若手に席を奪われる。
 かつて、斉木もそうやってベテランから席を奪ったのだ。
 永遠に磐石な地位などありはしない。
 それがプロの世界だった。

 後半開始直後、自軍のゴールネットが揺れた。
 先制を許し、追いかける展開の中、選手交代を告げるボードに光るのは斉木の背番号だった。
 準備をしているのは、若手のOMFで売り出し中の安東だ。
 点が欲しい時に替えられる攻撃の選手。
 その意味。
 もはや自分がこのチームにとって絶対の存在ではないことは、頭では分かっていたつもりだった。
 しかし現実として突きつけられると、一瞬、頭の中が白くなった。
 レフェリーに促されて我に返り、斉木は小走りした。
 安東の前に立ち、タッチをした後に軽く肩を叩く。
「頼むぞ」
「はい!」
 勢いよくピッチに走りこんで行く安東の背中を見送って、斉木はピッチに一礼をする。
 ベンチに向かうと、監督が握手を求めて手を差し出した。
「お疲れ様でした」
「はい。まだやれましたけどね」
 斉木は握手に応じ、軽口を叩く。
 精一杯、落ち着いた表情を保って、ベンチに座ってタオルを被る。
 その表情を、誰にも見られないように。
 その後、第三節に右大腿ニ頭筋の肉離れが再発する。
 それから斉木は、ただひたすらに怪我との戦いになる。
 ようやく癒えて、別メニューから完全合流し、紅白戦や練習試合に出る。
 そうすると、右が癒えたと思ったら左、またその逆に右、と、立て続けに五回、肉離れを連発した。
 無理はしていない。いや、出来ない。
 ドクターやトレーナーにアドバイスを求め、食事や生活習慣にも気をつかった。
 その上での、この事態。
 治療が終わり、一人医務室のベッドに横たわる斉木は、唇を噛んだ。
 泣きたい気持ちだったが、涙も出なかった。
「斉木さん、大丈夫ですか」
 医務室に現れた芹沢に、斉木は問い返す。
「終わったのか、練習」
「あ、はい…」
「そうか」
 斉木が芹沢に目を合わせると、芹沢の目が泳いだ。
 何しろ五連続の肉離れだ。
 芹沢も何を言っていいのか分からないのだろう。
「明日は朝からドクターのところだ」
 斉木は体を起して、ベッドを下りる。
「また右ハムストリングスの肉離れだな。今度は全治四週間てとこか」
 淡々と告げる斉木に、芹沢が泣きそうな表情をする。
「まだ、診断は…」
「分かるさ、もう。怪我のプロみたいなもんだ」
 斉木の自嘲に、芹沢は立ち尽くす。
 まるで何事でもないかのように立振る舞っているつもりなのであろう斉木の瞳に、芹沢は深い絶望の色を見る。
「そんな訳だ、肩貸せ」
 と、斉木に肩を掴まれて芹沢は我に返る。
 松葉杖代わりになれと言っているのだ。
「何ならお姫様抱っこでもしましょうか?」
 内心の動揺を悟られぬように軽口を叩くと、斉木がげんなりする。
「その美しくない図に入るのはまっぴらごめんだな」
「えー、そうですか? 俺は全然かまいませんけどねえ」
「俺がかまうんだ、俺が」
 いつものように言葉遊びをしながらゆっくりと駐車場へと歩く。
 お互いに、心に浮かぶ言葉を必死で振り払いながら。

 着いて来ると駄々を捏ねる芹沢を何とか練習に送り出し、斉木は一人タクシーでチームドクターが務める大学病院に向かった。
 診断結果は予想通り、右ハムストリングスの肉離れ、全治四週間だった。
「お大事に」
 覚悟はしていたが、それでも顔が強張るのが分かった。
 背中に重くのしかかる現実。
 会計に向かう途中、思わず呟きが漏れる。
「……潮時かな、これは」
 自分の呟きを耳にして、斉木は実感する。
 とうとうその時が来てしまったのだと。
 そう思った瞬間に、肩から力が抜けた。
「さあ、誰から話そうか」

 斉木はリビングのソファに座って携帯電話を操る。
 芹沢は代表戦で不在だ。
 相手はすぐに出た。
『もしもし』
「あ、加納? 斉木だけど」
『ああ、久しぶりだな』
 たわいない世間話を少ししてから、斉木は切り出した。
「俺、今季限りで引退することにしたんだ」
『は?』
 斉木の言葉を咀嚼するかのように、一瞬の間が空いた。
 さっきまで話していた内海と全く同じ反応だった。
 そして、問う言葉も同じだった。
『何で』
 人間、そんなに違う反応はしないんだな、と、斉木は思いながら、内海に説明したことと同じことを告げる。
「体がな、もう限界みたいだ」
『ちゃんと治せば……』
「治したよ。治しても、庇っていたのか逆足をやる。さすがの俺でも五連続で肉離れやるとさすがに凹むし、分かるよ。もう無理なんだって」
 また少しの間が空く。
 言葉を探しているのだろう、斉木は加納の言葉を待つ。
『カテゴリを落とす気はないのか?』
 J1では無理でも、J2ならあるいは。
 それは斉木も考えたことだ。
「まあ、下に行きゃそれなりに出来るだろうな。でも、俺みたいなのが走れなくなったら終わりだと思うんだよ」
 斉木は飛び抜けた身体能力やテクニックでプロの世界を凌いで来た選手ではない。
 いや、仮にも代表に名を連ねたこともあるのだ、J2であれば、テクニックは充分通用するだろうし、何よりも経験は替え難い能力だ。
 だが。
「全力でサッカー出来なくなったら、辞めるって決めてたから」
 斉木はきっぱりと言った。
 浅いため息が聞こえる。
 そして、
『そうか、それはもうしょうがないな』
 と、加納はやはり内海と異口同音に言った。
『まさか、俺達の中で斉木が一番先に引退することになるとはな』
 体が資本のアスリートだ。
 体が持たないと言うなら、もうどうしようもないことは、自らもアスリートであり、同い年の加納や内海にはよく分かっている。
 しかし、そこから先は内海と違っていた。
 加納が尋ねる。
『芹沢には言ったのか?』
 思わぬところを突かれて、斉木は一瞬言葉に詰まる。
「…いや、まだ」
『どうして。大切な家族だろう』
 加納の声が微かに非難の気配を纏う。
「痛いとこ突くなあ」
 斉木の表情が、泣き笑いに歪む。
「芹沢は、俺の大切なチームメイトで、大切な家族だから、余計に何て言っていいのか分からなくてさ」
 家族だから真っ先に伝えたい思いと、チームメイトだから言いにくい気持ちと、二つの感情に挟まれて芹沢には伝えられないまま、同時期にサッカー選手として歩んで来た親友達に告げた。
『難しいな』
 斉木の思いを汲んでくれたのか、加納が呟く。
 それが、斉木の背中を押す。
「でも、言わなきゃな。逃げないで、ちゃんと」
『そうだな』
「ありがとう、加納」
『俺は何もしていない』
「ううん、ありがとう、話を聞いてくれて」
 斉木が笑う。
 全治四週間の診断を受けて以来、初めての曇りのない笑顔で。
「おかげでいろいろ吹っ切れたよ」
 引退すると決め、こうして伝えてみたものの、まだ迷いはあった。
 だが、ようやく本当に踏ん切りがついた。
「俺は弱い人間だから、自分で決めるって言っても、フラフラしてばっかりだ」
『迷いのない人間などいないぞ』
「そうだな。迷って迷って、それで決めたから、後悔はしないよ」
『そうか』
「うん、それじゃあ、また。今度、飯でも行こう」
『ああ』
 と、通話を終える。
 沈黙した携帯電話を見つめて、斉木は一人ごちる。
「さて、何て切り出そうか」

 食後のティータイムに、芹沢は自分のカップを持って、斉木の隣に移動して来た。
 代表合宿などでしばらく離れ離れになっていると、芹沢がいつにも増してスキンシップを取りたがるのはいつものことだが、今日ばかりはなし崩しに持ち込まれてはいけない理由が斉木にはある。
 肩に腕を回そうとする芹沢の機先を制して、斉木は芹沢に視線を合わす。
「芹沢、話があるんだ」
「はい?」
 リラックスタイムだと言うのにいつになく硬い表情を向けられて、芹沢も少し構える。
 だが、続く言葉はそんな芹沢の構えなど粉々にする破壊力を持っていた。
 斉木は一息に告げた。
「俺、今季限りで引退する」
 一瞬でも逡巡すれば、またしばらく伝えられなくなるだろう。
 それは斉木にとって二重の意味できつすぎる。
 覚悟を決めて伝えた斉木の前で、芹沢はその言葉を消化出来ないでいた。
 ちゃんと聞こえてはいたが、その言葉を理解することを、理性も感情も拒否している。
「は?」
 ようやく出てきたのは間抜けな声だ。
「斉木さん、今、何を……」
「引退するって言った」
 芹沢はその言葉をゆっくりと反芻するが、やはりどうしても理解出来ない。
 斉木は、芹沢をまっすぐに見つめる。
 これ以上は、芹沢からのリアクションがなければどうしようもない。
「……って、何、言ってるんですか!?」
 ようやく、理解が至った芹沢は思わず立ち上がって叫んだ。
「芹沢、カップひっくり返すなよ?」
 対する斉木は冷静に、芹沢の左手にあるカップを指差して注意する。
 カップの中身はまだたっぷり残っていた。
 芹沢は乱暴にローテーブルにカップを置いて、それから斉木に向き直る。
「斉木さん、引退って、何言って……」
 そこで一瞬言葉に詰まる。
 芹沢にも、斉木の苦しい胸の内は想像出来る。
 これだけ怪我を繰り返してコンディションが安定しなければ、不安になって当然だ。
 まして芹沢は痛みに苦しむ斉木の姿を一番近くで見ている。
 しかし斉木が引退するなど、今の今まで考えたこともなかった。
 いや、考えないようにしていたと言うべきか。
 芹沢にとっても斉木は公私に渡ってかけがえのないパートナーだ。
 腹の底から湧き上がって来るドロリとした感情のはけ口を、芹沢は今この場にいない人間に求めた。
「まさか、監督かフロントがそんなことを……っ」
 しかし、斉木は静かに首を横に振る。
「違う、俺が一人で決めた」
 その言葉に、芹沢の表情が一変する。
「俺に一言もなく、何勝手なこと言ってんだ、あんたは!」
 斉木の胸倉を掴み、叫ぶ。
「何だよ、突然! どうして俺に言ってくれなかったんですか!」
 長い付き合いだ。
 斉木の決心は、既に翻意させられるものではないと、芹沢も悟っていた。
 だからこそ湧き上がる激情を、芹沢自身にもコントロール出来ない。
「ごめん」
 そんな剥き出しの感情を叩きつけられても、斉木は真っ直ぐに芹沢を見返す。
「でも、自分の引き際だけは自分だけで決めるつもりだった」
 斉木自身、散々迷い悩んで決めたことであるし、芹沢の反応もある程度は想像していた。
 斉木が芹沢の立場なら、似たような態度を取っただろう。
 それでも。
 引退だけは、自分で決めるものだと思っている。
 そうでなければ、後悔すると思うのだ。
 限界かそうでないか、それは自分にしか分からないことだと斉木は考えていた。
 そして決めたからには伝えなければならない。
「俺はお前や加納みたいに才能に恵まれてた訳じゃない。走って、頑張って、ナンボの選手だ。そういう奴が、思い切り走れなくなったら、終わりだよ」
 言って、思わずため息を吐く。
「自分じゃもう少し頑丈だと思ってたんだけどなあ、もうボロボロだ」
 斉木の胸倉をつかんでいた芹沢の腕の力が抜ける。
 斉木を開放して、芹沢は糸が切れた人形のようにその場にへたり込んだ。
 斉木が、どれだけ痛む体に鞭打って来たのか、誰よりも芹沢がよく知っている。
 どれだけ我慢強いかも。
 その斉木が終わりだと言うのだ。
 限界なのだ。
 本当の痛みの強さなど、本人にしか分からないと、芹沢も思う。
 だが。
 まだやれるだろうと思いと、置いていかれる不安と。
 言葉を失い、ただ、斉木を見つめる芹沢の頬を涙が滑り落ちた。
「何泣いてるんだよ」
「自分でも分かんないですよ……」
 芹沢はこぼれる涙を拭うことも忘れたように、声も立てずに泣く。
 かけがえのないパートナーを失う喪失感と同時に、もう斉木は痛みに苦しまなくてもいいのだと言う安堵感と、いつかは自分も斉木にそんな心配をかけてしまうのだと言う不安と、全てがない交ぜになった感情が、涙になって止まらない。
「俺が泣くところじゃないのかよ、そこは」
 斉木が苦笑しながら芹沢にタオルを差し出す。
「でも、考えてみれば俺、一度も泣かなかったな。悩んでいた時も、決めた時も。納得出来てるのかな、やっぱり」
 自分のことなのに、よく分からないな、と、呟く斉木の表情に曇りはなく、その表情を見て、芹沢も悟る。
 斉木は自らの決断に後悔はないのだ。
 ならば芹沢は、その決断を尊重しなければならない。
 何よりも家族として。
 芹沢は斉木に渡されたタオルを顔に当て、涙を拭った。
 タオルで顔を覆ったままの芹沢に、斉木が告げる。
「その代わり、これからシーズン終了までは無理でも何でもするから」
「って、斉木さん!?」
 さらりと告げられる爆弾発言に、芹沢は顔を跳ね上げる。
「そのために自分で最後を決めたんだからな、限界までやるよ」
 と、斉木は明るい笑顔で言う。
「悔いなんか残したくない。協力してくれるよな?」
 そう差し出された右手を、芹沢はそっと包むように握った。
 まるで祈りを捧げるように。
「斉木さん、お願いだから俺を頼って下さい。どうか最後まで」
「当たり前だろ、お前より頼りになる奴なんていないよ」
 斉木は破顔一笑して、空いている左手で芹沢の髪をくしゃりとする。
「頼むよ、相棒」

 翌日、斉木はクラブに今季限りの引退を申し入れた。
 クラブも監督も慰留したが、斉木の意思は固く、最後は了承された。
 その三日後、斉木の今季限りの引退が広報からリリースされた。

 引退発表後の斉木の活躍は、これが本当に自ら限界を悟り、引退を決めた選手なのかと、皆が疑うほどのパフォーマンスを見せた。
 チーム事情でポジションを変更されることもあったが、多くの試合でスタメンを張り、チームの綻びを埋め、締める。
 対戦チームの選手に握手を求められ、
「まだ出来るでしょ」
 と声をかけられることも多かったが、斉木は笑って答えなかった。
 もしも来年も現役を続けるつもりならば、考えられないような痛み止めを打っていることなど、誰にも言う必要はない。
 スタメンで試合に出ても、交代させられない試合も数えられるほどしかない。
 それは今まで多くの先人が歩んで来た道でもあるだろう。
 そこに斉木は斉木の轍を残せればいいと願う。

 そして、最終戦当日。
「これが最後だから」
 医務室で、チームドクターに痛み止めを打ってもらう。
 左膝と、左の足首。
 今は直接患部に痛み止めを打たなければ、とても試合には出られない。
 そこまでしても、完全に痛みは消えない。
 引退を覚悟したからこそ出来ることではあった。
「ドクター、お世話になりました」
 治療器具を片付けるドクターの背に、斉木が頭を下げる。
「何言ってんの。本当の治療はこの後から始まるんだから、まだまだ付き合いは終わらないよ」
 手を止めず言い放つドクターに、斉木は微笑する。
「そうですね、これからもお手柔らかに」
 そして、斉木はベッドを降りて、ロッカールームへ向かう。
 その途中、監督と行き会う。
「斉木君、今日のスタメンは君の思い出作りではありませんからね」
 すれ違いざまに、監督が言った。
「君は立派な戦力ですから。今からでも引退撤回させたいぐらいですが、まあ、その膝では仕方ありません」
 がっちりとテーピングされた斉木の左膝と足首に視線を落とす。
「出来れば今日は最後までもって欲しいんですが」
「可能な限り努力します」
「そうして下さい」
 こうして監督と狭い廊下で立ち話をするのも今日が最後だ。
 試合開始一時間前に、選手達はウォームアップのためにピッチに出て来る。
 ピッチに出て来た斉木は、ウォームアップを始める前に、メインの関係者席を見上げ、笑顔で手を振った。
 その視線の先には、芹沢も見知った斉木の両親と、姉の家族が座っている。
 彼らも斉木へ手を振り返してくる。
 彼らは今日の試合後に行われるセレモニーで、家族として斉木に花束贈呈を行うことになっている。
 チクリ、と、芹沢の胸が痛む。
 しかし、そんな内心の思いを気取られぬよう、芹沢は努めて平静な声を出した。
「斉木さん、ストレッチ」
「おう」
 斉木は何も気づかぬそぶりで応じた。

 前半はこう着状態のまま、0‐0で終了する。
 後半もお互いの攻撃を潰し合う展開でどちらにも点が入る気配がないまま、十五分、斉木が自ら交代を求めた。
 やはり、膝がもたなかったのだ。
 準備していた安東が呼ばれ、斉木と交代でピッチに入る。
 その交代が、流れを変えてしまった。
 攻守において地味に効いていた斉木がいなくなったことで、相手チームが攻勢をかける。
 最後の水際で跳ね返すが、バランスの崩れからセカンドボールが取れない。
 そして最後はゴール前の混戦から押し込まれてしまった。
 後半三十五分のことである。
 呆然と立ち尽くすチームメイトに、芹沢が檄を飛ばす。
「呆けてるな! まだ十分もある。逆転するぞ!」
 それで目が覚めたかのように、一転して試合を支配し攻め込むが、守りを固めたブロックを崩せないままアディショナルタイムに突入する。
 ドリブルで攻め込む芹沢に、相手のCBが二人がかりで抑えに来る。
 それでも強引に突破しようとした芹沢の足に相手の足がかかり、倒された。
 ピッと鋭いホイッスルの音が響いて、レフェリーはPA外からの直接FKを指示する。
 芹沢であれば、直接狙えないこともない距離ではある。
 だが、芹沢は蹴らずに、ゴール前に陣取った。
 芹沢の長身とバネであれば、ゴール前の高さではキーパーとの一対一に持ち込める。
 芹沢の指示通り、高いボールが放り込まれる。
 芹沢が飛ぶ。
 ボールはゴールに吸い込まれた。
 背中から落ちた芹沢は跳ね起きて、ボールの行方を確認する。
 ゴールの中に転がるボールを確認した瞬間、芹沢はベンチ前に飛び出していた斉木へ駆け寄り、飛びついた。
 何かを考える余裕もなく、体が自然に反応していた。
 斉木に突き放されて、ようやく我に返る。
 思わず傷ついた表情をしていたのだろう、斉木が苦笑いして怒鳴る。
「馬鹿! こんなことしてる暇があったらもう一点取って来い!」
 言われて思い出す。
 この試合は負けてはいけないことを。
「はい!」
 芹沢がピッチに戻って相手ボールのキックオフで試合が再開する。
 しかし、すぐに長いホイッスルが鳴った。
 試合終了である。
 それは、斉木の現役生活の終了を告げるホイッスルでもあった。
 一度ロッカーに戻り、急いでシャワーを浴びる。
 スタッフが総出で着替えの準備や後片付けに奔走する。
「バスタオルはそこに放っておけばいいから!」
「ごめん、後よろしく!」
 いつも試合後のロッカールームは騒がしいが、最終戦の今日はさながら戦場のようだ。
 汗と泥に塗れたユニフォームや、使い終わったタオルの類が散乱する中、選手はベンチコートを引っ掛けてピッチへと戻って行く。
 寒い中、サポーターが待っている。
 とは言え、選手も試合の汗を始末しなければ風邪を引いてしまう。
 特に今日は、斉木の引退セレモニーがあるため、例年よりも時間がかかるはずだった。
 フロント幹部と監督スタッフ、そして選手が全員揃うと、いつものスタジアムDJのアナウンスが入る。
『サポーターの皆様、大変お待たせ致しました。これより、ホーム最終戦のセレモニーを行います』
 社長によるシーズン総括と挨拶があり、監督と主将である芹沢が続く。
 そして。
 斉木がゆっくりと壇上に上がる。
 痛み止めが切れて激痛が走る足をなだめすかし、引きずらないように歩く。
 斉木がスタンドマイクの前に立つと、聞き慣れたサポーターのコールが降り注いだ。
 選手として聞く、最後のコールだ。
 コールが終了すると、再びDJのアナウンスが入る。
『これより、斉木誠選手の引退セレモニーを行います。サポーターの皆様、オーロラビジョンをご覧下さい』
 選手も、残ったサポーターも、オーロラビジョンに視線を向ける。
 オーロラビジョンには、斉木のサッカー人生を振り返る映像が流れた。
 斉木はマイクを抑えて音が入らないようにして呟いた。
「ったく、スピーチの前に泣かせようとするなよな、映像班」
 憎まれ口は、誰の耳に届くこともなく夕闇の中に溶けて消えて行く。
 もっとサッカー選手でいたかったし、もっと出来たのではないかとは思う。
 だが同時に、W杯にも出、J1で終われたサッカー人生は上々だったとも思う。
 未練はあるが、それでも悔いはなかったと言える。
 この複雑な思いを、芹沢なら分かち合ってくれるだろうか。
 オーロラビジョンから視線を外し、芹沢の姿を探す。
 芹沢は映像に見入るように顔を上げていた。
 芹沢が壇上の斉木へ視線を向けたが、すぐに俯いた。
 その目が赤くなっているように見えるのは斉木の気のせいだろうか。
 俯いた芹沢の隣では、既に安東が号泣している。
 その安東をなだめるように頭を撫でている中島も、涙をこらえるように口を引き結んでいた。
「中島、珍しいな、お前が泣くなんて」
「何言ってんすか、自分だって鼻赤くして、イケメン台無し」
 芹沢がイジると、中島はいつものように軽口を叩いて、それから大きく鼻をすすった。
「無理すんな」
 芹沢はポケットからハンドタオルを取り出して中島の顔に押し付ける。
「返さないっすよ」
 と言いながら、中島は思い切り鼻をかむ。
「お前が鼻かんだのなんかいらないよ」
 芹沢が苦笑したその時、映像が止まり、DJのアナウンスが入る。
『まずは斉木選手へ花束贈呈です。花束贈呈は、斉木選手のご両親です』
 壇上を見上げると、斉木が笑顔で両親から花束を受け取ったところだった。
 引退セレモニーの花束贈呈は、大体において家族から贈られる。
 既婚者ならば妻子から、独身者なら両親が多いだろう。
 斉木は公には独身だから、両親が贈呈者になるのは自然なことだ。
 実質的には家族であっても、芹沢が壇上に立つことはない。
 遠い未来、芹沢が引退することになっても、斉木が立つことはないだろう。
 それは、二人だけの秘密だ。
 砂を噛むような思いがこみ上げて来て、また芹沢は俯いた。
 自分が引き込んだ関係だ。
 どれだけ斉木に負担をかけてきて、これからもかけ続けるのだろうか。
 そうは思っても斉木の手を離せるはずもなく。
 壇上の斉木と両親を見ているのが辛かった。
『それでは斉木選手より、皆様にご挨拶を申し上げます』
 両親が壇上から降りた後、また一人立つ斉木はゆっくりと口を開いた。
「幸せでした」
 たくさんのスピーチを考えてきたはずだった。
 だが、口を開いた途端、ただ、その一言を残して全て消えた。
 斉木は繰り返す。
「本当に、このチームでサッカーが出来て幸せでした。
この暖かいサポーターの前でサッカーが出来て幸せでした。
本当は、もっとちゃんとスピーチ考えて来たんですけど、何かもう全部忘れちゃって。
ここまで支えてくれた家族、スタッフ、チームメイト、そしてサポーターの皆さんに、ただ、ただ、感謝です。
本当にありがとうございました」
 深く深く一礼する斉木に、万雷の拍手が起きる。
 再び、斉木のコールが始まる。
 そのコールの中、体を起こした斉木はもう一度軽く会釈をして、そして壇上から降りた。

 最後は選手全員は勿論、監督スタッフやフロントまで総出のウィニングランだ。
 一人気まずい思いを抱えて、中島達と一緒に行こうとした芹沢の肩を後ろから掴まれる。
「芹沢、俺を置いて行く気か?」
 肩越しに振り向くと、花束を抱えた斉木が顔をしかめている。
「足が痛いんだよ、杖になれ」
 傍で聞くと結構失礼なことを当たり前のように言う斉木に、芹沢は袖で目元をこすってから、軽口を叩く。
「じゃあ、おぶって行きましょうか? あ、何ならお姫様だっこでもしましょうか」
「ったく、お前は本当に変わんないよな」
 おんぶもお姫様だっこもいらないよ、と、斉木は肩を竦める。
「肩だけかしてくれりゃ充分だ」
 と、二人並んで歩き始める。
 片手で芹沢の肩を掴んでいるため、サポーターの歓声に花束を振って応えていた斉木だが、途中、興が乗ったのか、ポン、と、花束を観客席に投げ込んでしまった。
 観客席に投げ込まれた花束は取り合いになり、あっと言う間に見えなくなる。
「って、ちょっと斉木さん!?」
 芹沢が焦る。
「あれ、ご両親からいただいた……」
「いいよ、別に。どうせスタッフが用意したもんだろうし」
 斉木はあっさりと言う。
「両手に花はちょっと重い。片手に残ってれば充分だよ、俺は」
 そう言って、斉木は芹沢の肩を掴む手に力をこめた。
 思わず、芹沢が斉木の肩に腕を回しそうになるが、肩を掴まれているために未遂に終わる。
「それは後な」
 斉木がいたずらっ子の笑顔を浮かべる。
 その笑顔に、芹沢は泣き笑いの表情になった。
 この人は、悔いを残さなかったのだと確信し、安堵する。

これからも、歩いて行こう、二人で――















(初出 2010年12月29日)



夕日(2012.11.10)

よろしかったら押してやって下さい。



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