何をやってもうまくいかない。
 闘志を燃やしても、空回り。
 そんなエアポケットのような時期が、長いリーグ戦の間には、嫌がおうにも訪れる。





あやういひと






 だが、芹沢のチームは、シーズン開始直後から、そんな「無気力・無関心」に蝕まれていた。
 そのことに気がついていたのは、芹沢と、恐らく神谷だけ。
 元々、口数の少ない神谷は、今の事態に口を閉ざしている。だが、日増しに厳しくなるプレイに、芹沢は神谷の危機感をひしひしと感じている。
 だから神谷のプレイに応えようと、芹沢は自らを鼓舞し、昨年以上にフィールドを駆け回ってみせた。

 まさか、それが命取りになろうとは。

 神谷と芹沢の奮闘により、星の取りこぼしもなかったゆえに、チームメイトの無気力は、いや増すばかりだった。
 それは仕方のないことかもしれない。ただ漫然と試合をして、今まで負けなかったのだから。
 昨年、チャンピオンフラッグを手にしたことも大きく影響しているだろう。
 けれど、それはほとんど神谷の手柄であって、チーム自体の勝利ではないことを、芹沢は知っていた。
 そんな根本的なことに気がつかないほどチームの歯車は狂い始めていた。
 そして、チームに巣食う無気力は、とうとう芹沢さえも蝕み始めた。



 その日は、試合開始から今にも泣き出しそうな空模様で、ハーフを前にして本降りになった。
 そうでなくても低空飛行だったチームの士気は、今や風前の灯火と言えた。

 息が、苦しい。

 ハーフの間、束の間の休息を取りながら、芹沢は自分の気力の限界を感じ取っていた。
 まだ、体は動くのだ。
 だが、気力の低減に体が引きずられている。
 このままではマズイと分かっていた。ここで負けたら、きっとそのままズルズルと行ってしまうだろう。
 しかし、状況が悪すぎる。
 今日はアウェイで、その上にこの雨だ。
 チーム内の士気が上がる要素など一つもなくて、芹沢までもが引きずられている。
 ――あの人が見たら、何て言うだろうな…。
 こんな情けない姿を晒していたら、怒鳴りつけられるだろうか。
 その前に、自分は死んだってこんなみっともない様子を彼にだけは見せないか。
「時間だ!」
 コーチの声で、芹沢は重い体をフィールドへ引きずり出す。
 雨のせいで、スタンドにはすでに人影もまばらだ。
 芹沢は、お守りのようにその名を呟く。
「斉木さん…」
 その声は、後半の開始を告げるホイッスルに遮られた。



 芹沢と斉木が恋人として付き合うようになってから、もうすぐ一年が経とうとしている。
 だが、その間、斉木は芹沢の試合を見に来たことがない。
 もちろん、芹沢は何度となく見に来て欲しいとチケットを渡したのだ。

 芹沢も男である。好きな相手の前でいいかっこしたい。

 そうなれば、芹沢にはサッカーしかない。また、斉木も芹沢のプレイ以外に興味はなかろう。
 斉木は、並の女なんかとは訳が違うのだ。
 それは斉木が男と言うだけでなく、そういう内面をこそ評価する人間だからだ。
 ルックスや、ファッションなどの外面をいくら磨いたところで、斉木の前では何の意味も持たない。
 中身がなければ、外を飾れば飾るほど、空しいだけだ。



 だからこそ、芹沢は自分の試合を生で見て欲しくて、ことある毎、いや、ほとんど毎回、斉木を試合に誘った。
 しかし斉木は、いつも何とも言えない笑顔を浮かべて、練習だからと断った。
『ちゃんとビデオで試合は見てるぞ』
 が、斉木の口癖。
 だから気を抜いたプレイはするなと、斉木は言う。
 実際、後からアドバイスをされることすらある。確かにビデオでは見ているらしい。
 それに、芹沢のチーム以外の試合なら、斉木もそれなりに見に行っているのだ。
 だったら一度ぐらい、自分の試合を見てくれても…と、思うのは、芹沢のわがままではないだろう。

 ――あの人は、何も分かっちゃいない。

 芹沢は、そう思う。
 斉木は全く理解していないのだ。
 いかに自分が、魅力溢れる人間であるかと言うことを。
 そうでなければ、キャプテンなどに選ばれるはずもなかろうし、いつも人に囲まれているなんてありえない。
 言ってみれば単なる大学リーグの選手に過ぎない斉木は、マスコミが虚像を煽ってくれる芹沢などと訳が違うのだ。
 斉木の周囲に人が集まるのは、それは斉木自身の魅力によるもだ。
 なのに、当の本人はそんな簡単なことにも気がつかず、無防備に魅力を発揮しまくって。
 芹沢が不安と嫉妬に駆られていることすら、気がつかない。



 斉木と付き合い始めて、芹沢は遊び相手の女達を全てキレイにした。
 それまで芹沢は、女に別れを切り出したことなどなかった。
 近づいてくるのは向こうから。
 別れる時も、一人で勝手に悲劇のヒロインを気取る女を、冷ややかに眺めているだけだった。
 特に、プロになってからはそんな付き合い方しかしたことがない。
 芹沢にして見れば、もてあます感情と欲望のはけ口でさえあればよかったから、後腐れのない女なら、何でもよかった。
 そんな女達を切ったところで良心の痛みさえもなかったが、わざわざ切る労力を払うことすら面倒くさくて、どんな女でも、勝手に離れて行くまでいつも待っていた。

 だが、事態が変わった。
 『たった一つ』を見つけ、手に入れたなら、有象無象の女達は、あらぬ誤解の元でしかなくて。

 そうして芹沢は、生まれて始めて自分から別れ話を切り出してまで、身辺整理を急いだ。

 ところが、散々粘られた最後の女にひっぱたかれた跡をつけて帰った時、斉木は、ポカンとしてのたまってくれた。
『はあ、お前がひっぱたかれてまで別れるとは思わなかったな』
 そこまで言われて、さすがに芹沢はキレた。一体、誰のために芹沢が身ぎれいにしたのか、自覚がなさすぎて泣けそうだった。
 まあ、その言葉に相応のおしおきは、もちろんしたのだが。

「何も、分かっちゃいない」

 斉木が、どれだけ魅力ある人間か。
 芹沢が、どれほど斉木を求めているのか。
 斉木が、芹沢をどれだけ不安にさせているのか。

 芹沢は、たまに本気で疑ってしまう。
 本当のところ、斉木にとっては今の関係は単なる気まぐれで、いつか芹沢が捨てられてしまうのではないかと。
 もっと言えば、今だって本当は芹沢でなくてもいいんじゃないかと。
 そんなことを思う自体が生まれて初めての経験で、芹沢はどうしようもなく落ち着かなくなる。
 それまでの人生を、180度転換させてしまうほどの「たった一つ」に出会えた自分は、幸運なのだとも知っている。
 けれど、芹沢の中にはすでに、彼のスペースしかないのだ。

「何も…」

 我知らず呟いた瞬間、鋭いホイッスルが芹沢を現実に引き戻した。
 振り返ると、自軍ゴールが割られていた。
 1−0。
 均衡が、崩れた。
 芹沢の中で張り詰めていたものが、壊れた。
 どうにでもなれと、思った。
 目の前にルーズボールがこぼれても、とっさに体が動かなかった。
 六歩、いや、芹沢なら五歩で届くだろう。
 そこまで分かっていて尚、ぬかるみに捕われた足が持ち上がらない。

 その、瞬間。
「芹沢ぁーっ! とっとと上がれぇっ!」
 その声に、思わず芹沢は棒立ちになる。すると、更に追い討ちがかかる。
「何ボケっとしてやがる! 走れっっ」
 監督より、コーチよりよく聞こえたその声は、聞き間違いようがない。
 芹沢は打って変わってボールをキープして、ちらりとスタンドに視線を投げる。
 すると、雨に濡れるのも構わず、フェンスにかじりついて檄を飛ばすその姿が目に入る。
「行け! がら空きだ!」
 言葉通り、芹沢とゴールの間にDFの姿はない。
 芹沢は反射的に走り出していた。
 それは、理屈ではない本能の部分。
 ぬかるみも水溜まりも、すでに問題ではない。
 たった一つ、たった一人。
 求め続けるその人が、芹沢に力を与えてくれる。



 「芹沢!」
「クッ」
 ゴール目前に迫った時、死角から重いチャージを食らう。
 相手と見れば、トレードマークの前髪が崩れて、年相応の顔に見える加納だった。
 加納のチームは浮上の機会を狙っている。ここで上位陣の一角を崩して、勢いに乗りたいところだ。
 虎の子の一点を、守り通したいに違いない。
 だが。
「今日は、負けられない!」
 芹沢は、加納のプレッシャーを受けながら、徐々にだが、確実にボールをゴール前に運ぶ。
 その視界の隅に、自分と同じユニフォームが映る。
 芹沢は、迷わずパスを出していた。
「神谷さん!」
「しまった…」
 加納が呟いた瞬間、ゴールを知らせるホイッスルが、激しい雨を切り裂いた。



 結局試合は、1−1の同点で終わった。
 勝ち点を拾ったのか、失ったのかは、シーズンがもっと過ぎなければ分からない。
 だが、今の芹沢はそんなことよりも、はるかに気がかりなことがあった。
 お決まりのインタビューはおざなりに切り上げて、芹沢はロッカールームに駆け込み、濡れた衣服だけを着替えると、ベンチコートを引っかけて、制止の声を振り払って外へ飛び出した。
 インタビューの時、神谷はまるで急ぐ様子を見せなかった。
 神谷が呼べばあの人はどこへだって飛んでくるだろうが、呼び出したなら、神谷はもう少し急ぐそぶりを見せただろう。
 芹沢ではない。悔しいがそれだけは確かで。
 だとすると、今日の試合に関わっている、彼に縁が深いのは一人だけ。
 芹沢は、ホームチーム側の通用口へ、ある意味で試合以上の熱意を持って駆けつけた。



 しかして。
 芹沢の想像通り、彼はそこにいた。
 選手の出待ちをするファンの塊とも、マスコミの列とも離れたところに、傘をさしてひっそりと立っていた。
 服が濡れているのは、さっきフェンスにしがみついて芹沢を怒鳴っていたせいだ。
 その、姿を見た刹那。
 芹沢は、斉木を抱き締めていた。
「バ、バカッ」
 しかし、斉木に思い切りよく振り払われる。
「てめ、冷てえだろっ」
 確かに、雨の中、傘もささずに駆けてきた芹沢はまたずぶ濡れで、斉木の被害は甚大なものだった。
 けれど、そう言いながら斉木は、マスコミやファンの列に視線を走らせている。
 斉木は、そんなとこばかり正直だ。
「人目なんか、気にしないで下さいよ」
 芹沢が呟くと、
「そうはいかねえよ」
 と、斉木は男らしい眉を寄せて言った。
 実際、もう結構な視線を集めている。
 サッカーに関わる者しかいないこの場で、芹沢を知らない人間はいないし、斉木とて、かなりの人数が知っているだろう。
 しかも幸か不幸か、加納のチームの選手は、まだ一人も現れていない。
 予想外の登場人物に、色めきたったマスコミの列が、動くと見た瞬間。
「場所、変えるぞ」
 と、斉木は有無を言わせず芹沢のベンチコートの袖を掴んで走り出した。



 「…何とか、巻いた、か…」
 息を切らせて斉木が呟く。
 二人はさんざん走り回ったあげく、関係者専用用の駐車場にいた。
 ここまでくれば芹沢の車まですぐそこだ。
「行きましょう」
 と、斉木を連れて行こうとすると、
「そうはいかねえんだよ」
 と、芹沢の手は、再び振り払われた。
「まだ用事が終わってないんだよ」
「何なんです、一体」
 半ば分かっていながら芹沢が空とぼけると、斉木は苦虫を噛み潰したような顔をして、誰のせいだと口の中で呟いた。
「ああ、もしかして…」
 芹沢は、かまをかける。
 すると斉木は、見事にその手に乗った。
「ああ、そうだ、加納の車だ」
 と、斉木は傍らの紺色の車に視線を落として言った。
 それが、芹沢の気に障る。
 やはり斉木は、自分の試合だけを見に来ないのだと、思い知らされて。
「何の用だか知りませんけど、加納さんなら電話でも何でもすりゃいいでしょう!? 何でわざわざ俺の試合の時に来るんです!?」
「知るかよ、こっちも呼び出されたんだ」
 斉木は、吐き捨てるように言った。
「お前こそ、一人で帰れるだろ。そんなデカイ図体して、保護者同伴もねえよ」
「帰りません。あんた目の前にして、一人で帰れる訳ないでしょ!?」
「甘えるな」
「これが甘えだって言うなら、いくらでも甘えますっ」
 頑として譲らない芹沢の態度に、とうとう斉木がキレた。
 もっとも、芹沢は当の昔にキレているのだが。
「冗談じゃねえよ、あんな無様なプレイ見せやがって。ウチへ帰って反省文でも書いてろ!」
「こっちこそ冗談じゃないですよ! あんたが来るって知ってたら、あんなプレイ、足が折れたってしなかった!」
「てめ、俺のせいにすんじゃねえよ。それでもプロか!?」
「プロですよ! 大体、それとこれと話が違うっ」
「違わねえよ。いや、プロじゃなくても常にベストのプレイを心がけるのが、俺達のサッカーだろ!」
 ガン、と、斉木は拳を車に叩き付ける。その音に、芹沢はビクリと震えた。
 不覚にも、涙が零れそうになる。
「分かってますよ…そんなこと。分かってても、俺にとって斉木さんはそれ以上の存在なんだって…どうして分かってくれないんですか…」
 涙をこらえ、震える声でそう告げた、その時。
「斉木、頼むから俺の車を壊すなよ」
 やたらに渋く落ち着いた声に割り込まれた。
 芹沢は必死で涙を引っ込める。
 斉木の前なら、泣いても構わないと思う。
 だが、他の人間がいるとなれば、話は全く別だ。
「加納、遅い」
「悪かった」
 不機嫌な斉木の言葉に動ずる様子もなく、加納は答える。試合中は崩れていた髪も、しっかり整えられている。
 その佇まいは、無敵の「帝王」そのものだ。
「加納、悪いんだけど、お前んちでシャワー貸してくれよ。体が冷えてきた」
「芹沢もか」
「もちろん行きますよ」
 もう声も震えていない。いつもの倣岸不遜な芹沢直茂の顔で、加納に向かう。
「今日は車か」
「ええ」
「じゃあ、車を回してこい」
 言葉少なに加納に言われ、芹沢は斉木に声をかける。
「行きましょう」
「俺は…」
「そのままじゃ、加納さんの車、ドロドロになりますよ」
 こっちは、どうせ自分で汚しますからねと、言うと、斉木は渋々と、だが、おとなしくついてきた。
 けれど、斉木は車の中では、一言もしゃべらなかった。
 芹沢にさえ口を開かせない雰囲気を漂わせて、車の中に気まずい沈黙が満ちる。



 かなり不毛な道行きは、10分ほどで終了した。



 マンションの駐車場に車を停めて、加納の部屋へ向かう。
 加納の部屋は、実にらしいと言うか何と言うか、実に殺風景な部屋だった。
 生活に必要な物以外は何一つない感じで、下手に広いだけに、部屋の主が主でなければ、とてもさびしくていられないに違いない。
 シャワーも浴びずに来やがって、と、斉木に先に浴室に放り込まれ、出てくると新品のジャージが待っていた。
 何にもない部屋だと思っていたから、そういう物が出てきたのが芹沢には意外だった。
 その上に、洗濯してやるから濡れた物を出せと言われた日には、さすがの芹沢も一言言わずにいられなかった。
「加納さんが洗濯するんですか」
「俺だって洗濯ぐらいはするぞ」
「そういう生活感が感じられない部屋ですよね」
「俺は斉木みたいに、マメではないからな」
 わざとか無意識か。
 どちらにせよ、詰られているようで、芹沢はかちんとくる。
「何…」
「ああ、茶でも飲むか。こっちで買ったヤツしかないが」
 言いかける芹沢を遮って、加納が席を立つ。
「今泊まっていくなら、酒も出してやれるんだがな」
 冗談じゃないと思う。
 たった週に二回のチャンスなのだ。一度たりとも潰したくない。
 斉木を目の前にしておあずけなんて、我慢できる自信がない。
「お茶でいいです」
「機嫌が悪いな」
「当たり前です」
「斉木、か」
 加納の声が、笑いを含んでいる。
 まるで子供扱いされているようで、気分がよろしくない。
 加納がお茶を持ってくるのと、斉木がシャワーを浴び終えて出て来るのがほぼ同時。
「あ、俺もくれ」
 そう言った斉木が着ていたのは、嫌と言うほど見覚えのある藤色のジャージだった。
「あんたには似合わないですよ、そのジャージ」
「しょうがねえだろ、家主が貸してくれたのがこれなんだから」
 斉木が不機嫌そうに言うと、当の家主は茶を煎れながら応じた。
「すまんな、ちょうど新しいのが芹沢に貸したヤツしかなくて」
 要するに、加納にとって斉木は、着古した藤田東のジャージを貸せるほど、気がねのない相手だと言うことで。
 分かりきったことではあるが、やはり芹沢は平静ではいられない。
 しかし、斉木はそんな芹沢の内心に構うことなく、のんきに茶を啜って「うまい」などと呟いている。
 自分だけが仲間はずれにされたような気になって、芹沢はまた泣きたくなってくる。
 いや、本当は、斉木が自分の気持ちを分かってくれないのが、悲しいだけだ。



 ところが。
「ごちそうさん」
 と、斉木は湯呑をテーブルに戻すと、途端に雰囲気が変わった。
 それまでののんびりした気配はどこへやら、どちらかと言えば、フィールドに立っている時の気配に近い。
 斉木は加納をにらんでいるのだが、隣の芹沢にまで刺々しい雰囲気が突き刺さる。
「さて、用件を聞かせてもらおうか、旦那」
 表情にふさわしい低気圧を含んだ声で、斉木が問う。
「まあ、俺の用件はもう終わってるんだが」
 対する加納は、しれっと言い放った。
 芹沢は、プツン、と、何かがキレた音を聞いた気がした。
「てめえ、ふざけんなよ!? 手紙もつけずにいきなりチケット一枚だけ送って来やがって、電話かけても出やしねえし、おかげでこっちはぬれねずみだ! どうしてくれる!」
「すまん」
「ごめんで済むなら警察いらねえんだよっ」
ドン、と、斉木は拳をテーブルに叩きつけてから、うめくように言った。
「…内海だな?」
「そうだ」
「あんの、悪魔が…」
 あっさりと、加納はうなずいた。
「で、俺ら試してどうする気よ」
 斉木はこめかみを押さえて、努めて冷静な声を出そうとしているように、芹沢には聞こえた。
「別に試す気なんかなかった。一番直近の試合が、芹沢んとこだったってだけでな」
 加納は、さりげなく斉木の湯呑にお茶を注ぐ。
「それで、あのチケット一枚かっ」
「何と書いていいか分からなかった」
「電話すりゃ終わりだろ?」
「苦手なの知ってるだろう。電話」
 ああ言えばこう言う加納に、斉木はがっくりとうなだれ、口も挟めず所在なげに座っていた芹沢にもたれかかって来る。
 思いも寄らなかった斉木の行動に、芹沢はドキリとしながら、とっさにその肩に腕を回していた。
「…まあ、ご覧の通りだ」
 斉木は芹沢の腕を払うこともなく、言った。
 加納は、いつもの鉄面皮とは違う、何とも表現しがたい表情をして、小さくうなずく。
「それで、御感想は」
 斉木の投げやりにも聞こえる声に、加納は言葉を選ぶ様子で答えた。
「いや…、別に本人達がいいなら、いいんじゃないか…?」
 それは、策を弄してわざわざ斉木を呼びつけたにしては、あまりにもあっさりしすぎた言葉で。
「だったらほっときゃいいじゃねえか。何でこんな回りくどい…」
「内海一流のタチの悪い冗談かもしれんと思ったんだ。そうだったら、勘違いしたままだと問題あるだろう」
 思わず、芹沢もめまいを覚えたが、斉木が肩に顔を埋めてきたので、持ちこたえた。
「も、どうにかしてくれ、コイツラ…」
 芹沢にしても、手の施しようのない話だが、斉木が頼る姿勢を見せてくれるのは、無条件でうれしい。
 肩に置かれた斉木の手に自分の手を重ねて、斉木を見つめる。
 そんな目の前の二人からすっと視線をそらし、加納は言葉を続けた。
「悩んだんだぞ、これでも」
 と、加納は一見、全く動じた様子もみせずに、言った。
「一週間ぐらい前か…内海がいきなり来たのは。さすがに驚いた。いろいろ考えたが、結局本人に聞くのが一番よかろうと思ったんだ。俺は難しいことを考えるのは苦手だからな…。が、まあ、聞くまでもなく上手くやってるようだから、俺が口を挟むまでもなさそうだな、と」
「何を…」
 加納にしては珍しい長口舌だったが、斉木は顔を赤くする。
 芹沢はそんな斉木をかわいいと思うが、加納にも見られてしまったことが悔やまれる。
「斉木さん…」
 何か言おうとした芹沢の甘い声をさえぎって、加納が言葉を継いだ。
「内海は、お前達の話をするのは俺が最初だと言っていたが…俺の反応を見て、喜んでいたようだからな、これから皆にふれ回るんだろうな」
 その、言葉に。
 斉木、撃沈。
「………分かってたけどよ」
 斉木は、とうとうテーブルになついて呟いた。
「俺は構わないですよ」
 横槍を入れられた芹沢が、ぶっきらぼうに言うと、
「お前が問題なんだろうが!」
 がばと跳ね起きて、斉木が怒鳴る。
 斉木は、まっすぐ芹沢を見つめている。
 それだけで、芹沢はうれしい。
 けれど、もっと見ていて欲しい。
 いつだって、見ていて欲しいのだ。
 それは、隠すことの出来ない真実。
「構わないです、それで斉木さんが俺のこと、もっと見てくれるようになるなら、全然、構わない」
「バ…、お前、自分の立場考えろ。誰もが加納みたいに考える訳じゃないんだぞ」
「わかってますよ、そんなこと。それでも、俺には斉木さんの方が大事なんです。斉木さんが俺をいつでも見ていてくれるなら、後はどうだっていいんです」
「芹沢…」
「俺、渡しませんから。誰にも。斉木さんはもっと俺を見て下さい。俺だけを、見て下さい。絶対、俺は斉木さんにふさわしい男になりますから」
 それは、真摯な宣言。
 てらいもなく言い切った芹沢の言葉に、斉木は視線を加納へとさまよわせる。
 そして。
「…俺は、消えた方がいいか?」
 加納の呟きに、
「余計な気を回すなーっっ」
 斉木が、怒鳴りつけた。

 乾燥機もかけ終わって、加納宅を後にするその時、加納は芹沢だけにこっそりと耳打ちした。
「俺達は、しょせん野に咲く花だ。温室の中では枯れてしまうぞ」
「忠告ですか」
「何となく、思っただけさ」
 芹沢がにらみつけると、加納は、軽く肩を竦めた。
 加納の言わんとしていることは、芹沢にも分かっている。
 出来るものなら、芹沢は斉木をどこかに閉じ込めて、誰の目にも触れさせたくはないのだ。
 けれど、サッカーまで取り上げたら、斉木は斉木でなくなってしまう。
 だから、我慢している。
 その分、斉木に自分を見て欲しいのだ。
 必ず、目を離せなくなる人間になるから。

 「ところで」
「あ?」
 帰り道、高速を運転しながら、流れる景色を見ている風の斉木に、芹沢が尋ねる。
「どうして、俺の試合は見に来てくれなかったんです? そりゃまあ、今回は、無様なとこ見せましたけど、あれが本来じゃないってことぐらい、分かるでしょう?」
「分かってるよ、んなことは」
 俺にどやされてからの動きが、最初から出来ていれば、今日だって勝ててただろうよ、と、斉木は面白くもなさそうに呟いた。
「いつもは、あの後半よりもよっぽどいい仕事をしてるしな。まあ、今日の引き分けでチームに喝が入れば、今年もいいとこ行くだろうよ…お前が、いるんだからな」
 背を向けた斉木の表情は見えないが、それがお世辞でも何でもないことは、声の響きで分かる。
 だが。
「だったら、どうして…俺は、斉木さんが分かってくれるまで何度だって言いますけど、俺は、斉木さんに見ていて欲しいんです。俺には、サッカーしかないから…俺は斉木さんの前でいいかっこしたいんです」
「正直だな、お前は」
「斉木さんだけです」
「芹沢…」
「斉木さんには、俺のこと全部、知っていて欲しいから…」
 かっこつけた自分も、かっこつけたい自分も、斉木には知っていて欲しいのだ。
 そう、心の底から告げると。
「…負けだな」
「斉木さん?」
 大きく息を吐いて、斉木は正面に向き直った。
「俺も、いいかっこしたい訳だ。お前の一挙一動に、手に汗握ってジタバタしてるトコなんて、見せたくないんだよ」
 芹沢がチラリと視線を投げると、口元に苦笑を浮かべた斉木と目があった。
「ホント、毎回ドキドキしっぱなしなんだぞ。まるで自分の息子の試合見てるみたいに…思わず息詰めてたり。まあ、子供がいる訳じゃないから、分からないけどな」
 穏やかな斉木の語り口に、芹沢は力強く言い切った。
「もっとドキドキさせてあげますよ。俺はもっと上目指してますから。まだまだ止まる気なんか、ないですからね」
「楽しみにしてるさ。俺の目、釘付けにして見せろよ」 
「しますよ、そう遠くない内にね」
 芹沢が斉木を見ようとすると、ぴしりと言い放たれる。
「運転中は、前」
「…はい」
「俺は、お前と心中する気はないんだ」
 その言葉は、ぐさりと刺さったが。
「せっかく今日の頑張りに、ご褒美をやろうと思ってんだからな」
 笑いを含んだ斉木の声が、芹沢の胸を叩く。
「斉木さん、それって…」
「ま、後でのお楽しみってヤツだな」
「そう言うことなら飛ばしますよ」
 と、言うが早いかアクセルを踏み込む芹沢に。
「現金なヤツだよな」
 斉木の笑い声が車内に響いた。







今回のお題。「吐くほどあまあま」





………………………ごめんなさいぃぃぃっ、ムチャなチャレンジをしてしまいましたぁぁぁ(号泣)
私、基本的に「血沸き肉躍るアクションコメディ」ってヤツが本分なので、やっぱりムリでした(T_T)。
今まで書いたものの中では一番甘いと思うんですけど…。でもな…吐けます?(苦笑)
ちなみに! 私は五回ぐらい砂吐いて、マシンの前でのたうってました…あんな程度でも、ええ。
でも、まあ、さちさんのお許しを得たし、まあ、更に出しづらくなる前に…と言う事であげちゃいます。
お叱りは、メールでこっそり頂けると幸いです(T_T)

コワレ夕日