夜明け前






 芹沢の手の中で融けた氷がグラスの底に落ちて澄んだ音を立てた。
 その音に意識を引き戻され、バーテンダーを視線で招く。
「ジンを…いいや、ロックで」
 芹沢は投げやりに言った。
 最初は水割りだったのだが、相手を待つ間に杯を重ね、面倒になった。
 ボトルで出させておこうかと、かなり真面目に考えている間に目の前に新しいグラスが置かれる。
 しかし、グラスに手を伸ばしたその時、斜め後ろから伸びて来た手に横から掻っ攫われる。
「遅れて来て何するんですか」
「遅れて来たも何も、お前がいきなり呼びつけたんじゃないか」
 駅から走って来たのか、斉木は脱いでしまったジャケットを腕にかけ、息を切らしている。
「それにまたこんな強い酒飲んで」
 斉木はグラスに顔を近づけ、眉をしかめた。
「俺、一応成人してますけど」
「そういう問題じゃなくて」
 返せ、と、言わんばかりに右手を差し出した芹沢から遠いところにグラスを置いて、斉木は芹沢の隣の背の高いストールに腰掛けながら注文する。
「俺はビール。あ、こいつにも」
「勝手に決めないで下さいよ」
「だってお前、明日試合だろうが――」
 保護者のような顔つきになった時は、ほぼ間違いなく説教の前触れだ。
 芹沢は皮肉な笑みを口の端に浮かべて、斉木の台詞を遮った。
 何しろ説教が始まってしまうと長い。
「欠場なんですよ」
「は?」
「この間の試合でした怪我の精密検査の結果が今日出たんです。ちょっと靭帯いっちまいましてね、全治2ヶ月だそうで」
 切れちゃいないんで、おとなしく治療すればヤバイことにはならないそうですけれども、と、芹沢は出されたビールに口をつける。
「だからまあ、愚痴に付き合って下さいよ」
 司令塔が神谷だと言うおかげもあり、芹沢はデビュー2年目の今年、シーズン開始直後から大活躍で、なみいる外国人選手の向こうを張って得点王争いを繰り広げていた。
 大過なくシーズンを過ごせれば日本人リーグ得点王の誕生も夢ではなかったのだ。
 しかし全治2ヶ月で欠場とあっては、もう今年は他のライバル達に追いつくことは叶わないだろう。
 しかも怪我の原因は、シュート体勢に入って身動きが取れなくなったところでライバルが所属するチームのDFに軸足を引っかけられたと言う始末だ。
 相手も一発退場であったが、芹沢は得点王レースからあえなく脱落だ。
 酒でも飲まなければやってられない、と言う気分になっても仕方ないだろう。
 愚痴も一つや二つ吐き出さなければ。
 しかし、急な呼び出しに応じ、その上そんな愚痴を一から十まで聞いてくれるような男の知り合いは、斉木ぐらいしかいない。
 と言うことで、芹沢は斉木のアパートから一番近いシティホテルのバーラウンジに呼びつけたのだ。
 そうしてやはり、今日も斉木は駆けつけて来た。
 今までもっと下らない理由で呼び出したりもしたが、斉木にはほとんど断られたことがない。
 彼女もいないんですか、と、からかったこともあるが、実際のところ、このやたら先輩風を吹かせたがる人物に対して後輩面して擦り寄れば、彼女――いたとして――との約束よりも優先してしまうだろうことは賭けにもならない鉄板である。
 それは斉木に知り合い認定された者にはすべからく適用される予想ではあるが。
 しかして。
「お前、怪我してるのにアルコールなんか飲むなよ。お茶にしろ、お茶に」
「あ」
 と、芹沢の手から飲みかけのビールのグラスまで取り上げて、斉木は一気に飲み干してしまう。
「あ、こっちも片付けちゃって下さい」
 斉木は空になったグラスを返しながら、一口も口をつけていなかったジンロックのグラスもバーテンダーに返してしまう。
 そんな斉木の振る舞いを見ている内に、芹沢の中に何とも言い難い思いが湧き始める。
 その、何と言う名前をつけていいのか芹沢自身にも判断がつかない感情は、それ故に処理も出来ずに芹沢の腹の底に黒々とわだかまる。
 いつものことだ。
 斉木は、純粋な意味で後輩とは言えない芹沢にさえ、「先輩」と呼ばれれば、相当理不尽な呼び出しにもほいほい応じてしまうほどの生粋の体育会系気質だ。
 それは先天的に体育会系気質が不足している芹沢にとっては元々不可思議な態度であり、それを逆手にとって利用しつつも違和感が拭いきれないのだ。
 ――そう思うことにした。
 芹沢がそんなことを考えているとは露知らぬ斉木は、
「で、お前は烏龍茶? それともオレンジジュースか?」
 などと真顔で聞いてくるのだ。
 聞かれて芹沢は薄い唇を笑いに歪めた。
 女であればそれだけで心を奪われそうな酷薄な笑みだったが、残念ながら目の前にいるのは極めつきの朴念仁である。
「そんな子供の飲み物、ごめんですよ」
「何言ってるんだ。図体ばっかりデカくなった子供のくせに」
 途端、芹沢の中の違和感が膨れ上がる。
 たいして年も違わないくせに、すぐに人のことを子供扱いするのだ、このやたら先輩風を吹かせたがる男は。
 人のことを子供扱いしておきながら、拗ねた表情をするあんたの方がよほど子供でしょう、と、言おうとして、止めた。
 その代わり、伝票を掴んでストールから降りる。
「飯も付き合って下さいよ。奢りますから」
「って、おい、まだ俺ビール飲んでない…」
「俺の分飲んだんだから充分でしょ」
 焦る斉木の気配を背中に感じながら、シニカルな口調で言い捨てて芹沢はバーラウンジを出る。
 斉木が自分を追ってくることを確かめるために。















 昔の原稿を読み直していて、そう言えば芹斉って、ほとんどできてからの話しか書いていないことに気がついたので、できる前の話を書いてみました。
 できる前と言うか、芹沢もまだ気がついていない頃のことをざっくりとですが。
 斉木さんは典型的な誰からも好かれたい、嫌われたくない八方美人だったろうと思うので、呼ばれて予定が空いていれば断ることはなかったんじゃないかと思います。
 何度も男に呼び出されて二人っきりで食事とかしてても何の違和感もなかったんじゃないかなあ、と思うと、芹沢も自分の気持ちを相当認めたくなかったんじゃないかと思います。大変だもんな、こういう相手に惚れると。
 その内芹沢が自分の気持ちを認めるとこも書いてみたいと思います。



夕日(2005.02.12)

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