「芹沢…」
聞き慣れた声に名を呼ばれる。
いや、こんな熱い吐息を含んだ声は、聞いたことがないはずだ。
軽い困惑を感じながら視線を上げると、目元を赤く染め、瞳を潤ませた斉木と目が合った。
誘うように薄く開かれた唇に、芹沢の中心がドクンと波打つ。
斉木は見透かしたように、勃ち上がった芹沢の分身に手を伸ばした。
無骨で暖かい手に包まれて、芹沢の分身は歓喜の涙を流す。
そうして、斉木は当たり前のように涙を流すそれを口に含もうとする。
その瞬間、芹沢の中に猛烈な違和感が湧き上がった。
――コンナコトハアリエナイ。
そこで、目が覚めた。
「また、か」
飛び起きた芹沢は、暗く呟く。
呼吸が乱れ、ひどい寝汗をかいていた。
息を整え、汗で貼りつく前髪をかきあげたところで、体の処理が追いついていないことにも気づいて、深い溜め息をつく。
最近度々あのような淫夢を見るようになった。
芹沢は奥歯を噛み締める。
必死で抑えつけている願望を、わざわざ見せつけてくれる自分自身の無意識に腹が立ってしょうがない。
「見せつけられなくったって、分かってるんだよ…」
芹沢は処理をするために分身に手を伸ばす。
早くいってしまいたくて、快感を導くと言うよりは痛みに近い強さで乱暴に扱き上げた。
閉じた目に映るのは、斉木の肢体だ。
もう随分前から芹沢のオカズは斉木だった。
「は…ぁっ、斉木さん…」
無駄なく鍛え上げた体を余すところなく自分の目の前に晒させる。
足を開いた斉木に、自身を埋め込む。
受け入れた斉木は快楽に悶え、芹沢に縋りついて腰に足を絡めた。
芹沢が作り上げた妄想の中の斉木は、何でも思う通りにしてくれる。
「誠…まこ、と…っ」
妄想の中で思うようにもてあそび、名を呼びながら果てた後に残るのは、空しさだけだ。
妄想は妄想でしかなく、それは本物の斉木ではない。
本物の斉木なら、けしてあんなことはしない。
芹沢はティッシュを2、3枚引っつかんで後始末をし、浴室へ向かう。
冷たいシャワーを浴びると頭が冷えてきて、今度は罪悪感が鎌首をもたげ始める。
自分は意識無意識にかかわらず、散々斉木を汚している。
そうやって欲望を発散しなければ、本人に何をするか分からないと危惧するほど、芹沢は斉木に飢えていた。
誘えば斉木はほとんど断らないでくれる。
だが、会うだけでは、いや、会えば会うほど会うだけでは収まらなくなっている。
もしかしたら、芹沢の気持ちを受け入れてくれるのではないかと――。
そんなことは有り得ないと頭では分かっていても、期待せずにはいられないのだ。
「馬鹿なこと考えてるんじゃねえよ…」
芹沢は苦い笑みを口元に刻む。
今日も約束を取りつけているのだ。
斉木に会う前に汚らしい欲望は流し尽くしてしまわなければ、とてもではないが顔向け出来ない。
「くそっ」
吐き捨てて、芹沢はタイルの壁に拳を打ちつけた。
分岐点
今まで一度も、別れ際に次の約束を取り付けたことはなかった。
当日ではないにせよ、まるで突然思い立ったように連絡を入れた。
それは、忙しい斉木を効率よく捕まえるためであり、同時に芹沢の執心を斉木に悟られないためでもあった。
しかし今、芹沢のバッグには2枚のチケットが入っている。
今回だけは、どうしても次の約束が欲しかった。
「斉木さん」
「ん?」
斉木を送る帰り道、ハンドルを握る芹沢はさりげなさを装って口を開いた。
「今度の7/27、空いてますか?」
疑問形ではあったが、断られることなど考えていなかった。
現在進行形の彼女がいないことは知っているし、そうであれば、今更二十歳も越えてお誕生会もあるまい。
だが、車窓に向けていた視線を戻して、斉木はあっさりと答えた。
「もう予定が入ってるけど…?」
何かあるのか、と、視線が問うている。
やっぱりこの人は性質が悪い、と、芹沢は思った。
芹沢がどうしても時間を取って欲しいと言ったところで、先約を反故にすることなど有り得ないくせに。
芹沢はせいぜい皮肉な口調を装って探りを入れる。
「へえ。彼女とでも約束してるんですか」
すると斉木は意表を突かれた表情で言う。
「何でそこでいきなり彼女なんだよ」
「いつ声かけても暇を持て余してる人が誕生日だけはしっかり予定が入っていたら、そりゃ彼女でも出来たかと思いますよ」
内心の焦りを隠して告げると、
「悪かったな、独り身の暇人で」
斉木は苦笑した。
「俺だってお前ほどじゃないけどそれなりにもてるんだぞ。今はたまたまいないだけで」
「知ってますよ、そんなことは」
それなり、とは随分控えめな表現だと言うべきだろう。
斉木がもてないはずがないのだ。
サッカーでは、ユニバーシアード代表であり、U−20にも召集された。
見た目も引き締まった長身で、美形とは言えないかもしれないが、人好きのする笑顔は老若男女を問わず惹きつける。
それでマメとくれば、女の方が放ってはおかない。
「それにしてもよくそんなこと覚えてたな。俺も忘れてたのに」
確かに彼女もなくサッカーだけに明け暮れていたら自分の誕生日など忘れても不思議はない。
芹沢とて、誕生日の前後に山になるファンからのプレゼントとJの開幕が重ならなければ、自分の誕生日など忘れているだろう。
覚えていたのは、斉木の誕生日だからだ。
そんなことは、言えないが。
「で、何でいきなり?」
「その日、――の親善試合があるじゃないですか。チケットが2枚回って来たんでどうかと思ったんですけどね」
なるべくさりげなく聞こえるように、芹沢は細心の注意を払う。
回って来たと言うのは勿論嘘だ。
斉木ならばどんなレストランに連れ出すよりも、プレミア試合をスタジアムで観戦しながらビールを飲む方が喜ぶに決まっている。
そう思い、手を回して関係者用の招待席を譲ってもらったのだ。
おかげでパーティーでエスコートをしなければならなくなったが、それでも斉木の誕生日に本人を独占できるなら安いものだった。
しかし、その目論見は見事に御破算だ。
当の斉木によって。
「あー、それそれ。やっぱせっかく日本に来てくれるんだから見たいよな」
斉木が無邪気にうなずいた。
「内海とそれ見に行くんだよ。内海が大学の知り合いにチケット取るのが上手い奴がいるって言うから、チケット取ってもら……って、どうした?」
芹沢は突然ハンドルを切った。
そして目に留まったコインパーキングに車を停める。
斉木のアパートまで目と鼻の先の地点である。
斉木が不審がるのも無理はない。
だが、芹沢は無言のままエンジンを切り、深く息を吐いた。
あのまま走り続けていたら、どんな運転ミスをするか知れたものではない。
その瞬間、
「どっか調子でも悪いのか?」
気安く肩を叩かれ、芹沢は思わず払った。
気を悪くするだろうが、掴んでしまったらきっと抱き寄せてしまう。
おとなしく抱き寄せられるとも思えないが。
いっそホテルにでも連れ込んでやろうかと思ったが、既に住宅街に入っていてその手の施設が近くになかったのは斉木にとって幸いだった。
無論、斉木は芹沢がそんなことを考えているなど夢にも思っていないだろうから、その幸運に気づくこともない。
「芹沢?」
ただ気遣わしげに芹沢を見ている。
思わず言葉がこぼれ出る。
「何で、内海さんなんかに言って、俺に言わないんですか」
「え?」
「そんな、よりにもよってサッカーのチケットなんて、俺に言ってくれれば確実に手に入るのに」
「あ、ああ…」
確かに芹沢の言う通り、現役Jリーガーの芹沢に頼めば、大体の試合のチケットは確実に手に入るだろう。
一般には出回らない席も手に入る可能性も高い。
実際、斉木に頼まれたら、芹沢は可能な限りいい席を手に入れようと躍起になっていたはずだ。
「まあでも、内海の知り合いってのがまず間違いなく取れるって聞いてたし」
斉木も視線をそらして言う。
「それに、これ以上お前に迷惑をかけるのもどうかと思ったし…」
後半は口の中のもごもごとした呟きで、芹沢には聞こえなかった。
斉木にも男としての沽券がある。
いくら斉木が学生で、相手は破格の収入を持つ社会人とは言え、年下にたかっているようで気になっていたのだ。
そうはっきり告げることさえ躊躇われるほど。
しかし、半ば切れかかっている芹沢には逆効果だった。
芹沢は聞こえた単語だけを拾って短絡に結びつけた。
「内海さんが好きなんですか」
「はあ?」
斉木の声が裏返る。
「何言ってんだ、お前」
心底分からない、と、顔に書いて問う斉木に、芹沢は目の奥で火花が散った気がした。
「俺より内海さんの方が好きなんですかって言ってるんですっ」
「何でそんな話になるんだよ」
斉木は首を傾げる。
「そんな、友達と後輩で比べられるもんじゃないだろ」
斉木にとって内海は子供の頃からつるんでいる親友であり、悪友である。
芹沢もあくまでかわいい後輩だ。
そもそも男を恋愛対象として見ていない斉木にとって、芹沢の言葉は日本語でありながら意味が通じない外国語に等しかった。
そんなことは、芹沢には最初から分かっていた。
だが今ばかりは、全く芹沢の言葉を解さない斉木の態度は、暴走しかけた芹沢の感情に拍車をかけるだけだ。
「俺は嫌ですよ、内海さんにだって負けたくないですよ」
「だから勝ち負けとかじゃ…」
斉木は最後まで言えなかった。
芹沢が斉木の腕をつかんで叫んだのだ。
「だって俺はあんたが好きなんだから!」
「………は?」
目を丸くした斉木が間抜けな声を出したのを最後に、音が途絶えた。
狭い車内に気まずい雰囲気が満ちる。
その雰囲気で、芹沢は我に返った。
しまった、と、思う。
芹沢は深い悔恨に顔を歪ませた。
一度口にしてしまった言葉は取り戻せない。
いや、今ならまだ取り戻せる。
斉木は鳩が豆鉄砲食らったような顔をして固まっていた。
多分、斉木は否定されたがっている。
冗談だと言えばきっとそれで終わる。
だが、芹沢は取り戻そうとは思わなかった。
恐らく限界だったのだ。
そうでもなければあんな短絡に言葉を発したりはしなかっただろう。
固まったままの斉木はつかまれた手を振り払う様子もない。
その無防備な唇に芹沢は視線を引き寄せられる。
――もういっそ。
芹沢がつかんだ腕を引き寄せた衝撃で、斉木は我に返ったらしい。
口付けようとしていた芹沢の意図をどこまで理解しているのかは知らないが、斉木は空いている手を突っ張って芹沢の動きを止めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、芹沢」
止めたはいいが、斉木は意味不明な言葉を羅列するだけだった。
「あ、あの、な、芹沢…さっきのはその…」
「斉木さん、好きです。俺と付き合って下さい」
直球だ。
それまでの逡巡からするとまるで別人のような潔さだ。
賽は投げられてしまったのだから、後は進むしかないことを芹沢は知っていた。
しかし一方の斉木は、往生際が悪かった。
「付き合うって…と、友達として?」
この期に及んで何の寝言を言っているのか、と言う感じの発言だったが、斉木にとっては、それだけ芹沢の告白が理解も受容も出来なかったと言うことなのだろう。
たが、居直った芹沢には引く気は更々なかった。
身を引く時は、完璧なカタストロフィが訪れた時だ。
深手を負う前に諦められるぐらいなら、とっくの昔に諦めている。
「俺の恋人になって下さい」
再びきっぱりと言った。
「と、友達からじゃ駄目か?」
斉木の必死の逃げを、一蹴する。
「それじゃ今と変わらないじゃないですか」
ぐっと詰まった斉木はわずかにうつむき、上目遣いでおずおずと問うてくる。
「…付き合えないって言ったら?」
自覚がないだけに本当に性質が悪い。
好きだと言っている相手に上目遣いなどすれば気持ちを煽るだけだと言うのに。
だから芹沢はことさら冷たく言い放った。
「もう二度と会いません。電話もしないし、今日、別れた瞬間から見ず知らずの他人です」
「う…」
斉木が絶句する。
芹沢の答えは斉木の想像を越えていたのだろう。
視線が宙をさまよい、逡巡する様子が見て取れる。
芹沢には分かっていた。
時間を与えず究極の選択を迫れば、八方美人の斉木がどう答えるかなど。
『二度と会わない』とまで言えば、即座に承諾されない程度には嫌われていない自信はあった。
そうして。
「…分かったよ、付き合うよ、お前と」
斉木は額に手を当てながら言った。
だが、芹沢は斉木が行き過ぎた八方美人を発揮しただけだと知っている。
生理的な嫌悪感を示さなかったのは意外ではあったが、斉木は芹沢を恋愛感情の対象として好きだから受け入れた訳ではない。
更に言えば、これからも受け入れてくれる可能性は微妙だと言わざるをえない。
そんな斉木を恋愛感情に直面させるのは、ある意味「嫌い」から始まる関係より難しいかもしれない。
しかしそこで諦めたら終わりだった。
最初は形だけだとしても、付き合っていることになればつけ込む余地も出てくるだろう。
言葉では伝わらないことも、体でなら伝わるかもしれない。
いや、必ず伝えて見せると、芹沢は決意を固める。
取りあえず今は。
「ありがとうございます」
微笑んで、芹沢は肩を抱き寄せキスをしようとする。
が。
「だ、駄目だっ」
「って!」
力一杯腕を突っ張られ、芹沢は低い天井に頭を激突させた。
「な、何するんですか…」
涙目でがんがんと痛む頭を抱える芹沢に、耳まで赤くした斉木が怒鳴る。
「キスは駄目だ!」
「な、何でですかっ。俺達付き合うんでしょ! キスぐらい当然でしょうが!」
「駄目だったら駄目だ! キスするなら付き合わない!」
喚く芹沢の声を上回る斉木の大音声に、悲鳴を上げる。
「そんな無茶苦茶な!」
とは言え、弱みを握られているのは芹沢の方である。
「分かりましたよ…」
芹沢は溜め息をついて車のエンジンをかけた。
ここで強引にことを進めて斉木にへそを曲げられては元も子もない。
ここが引き際と見定める。
「でも、俺達もう付き合ってるんだってこと、忘れないで下さいよね」
コインパーキングの支払いを済ませて車を発進させる。
「7/27の試合の後、時間取って下さいね」
試合中は内海さんに譲りますからと言う芹沢に、
「分かったよ」
深い溜め息付きだったが、ここは斉木が素直に折れた。
その返事を聞いて、芹沢は心の中で胸を撫で下ろした。
完全に拒絶されないのなら、いつか本当に自分の願いが叶う可能性はある。
「負けませんからね」
「何か言ったか?」
「いえ、こちらの話です」
いつか必ず自分の思いを分からせると決意して、芹沢は車を走らせた。
伝わってません。全く。
長編の斉木よりもこっちの斉木の方がかなり子供っぽいです。
全体的に展開が急ですみませんが、できれば早めに決着つけたいのでよろしくお願いします。
あ、親善試合のチームは適当にお好きなチームを当てはめて下さい。
夕日(2005.07.10)