道楽






 オフの日の朝――

「おい、芹沢」
「んー…」
 揺り起こされた芹沢の視界に、斉木の姿が映る。
 基本的に、斉木は素晴らしく寝起きがよく、芹沢はどちらかと言えば寝起きはあまりよくない方――寝起きが最悪な加納や神谷に比べれば充分にまともな部類なのだが――だ。
 従って芹沢が斉木に起こされるのはそれほど珍しいことではない。
「ほら、いい天気だぞ」
 と、いつも通り情け容赦なくカーテンを開けられてしまう。
 強い日差しがベッドの上に降り注ぎ、芹沢は左腕で目元を覆う。
 その日差しから結構いい時間だと分かったので、芹沢は心地よい眠りからの離脱を決める。
 だが、行きがけの駄賃とばかりに右手で斉木の手首をつかんで言いかけた。
「じゃあ、目覚めのキスを……って!」
 デコピンを喰らった芹沢は額を押さえて――それでもつかんだ斉木の手首は離さずに――飛び起きる。
「いったいじゃないですかっ」
「お前がバカなこと言うからだ」
 一刀両断に切って捨てられるが、それでへこたれる芹沢ではない。
「前は照れてかわいかったのに……」
「いい加減慣れた」
 涙目で見上げながら減らず口を叩く芹沢の前で、斉木は苦虫を噛み潰したような表情になる。
 その表情から、口では何でもないことのように言っているが、それ自体が照れ隠しなのだと読み取った芹沢は、にんまりと笑ってつかんだままの腕を引いた。
「げ」
 不意に腕を引かれて斉木がよろめく。
「ごちそうさま」
 よろめいた斉木から、掠め取るように触れるだけのキスをせしめて、芹沢はベッドから飛び降りた。
 正解だった。
 さっきまで芹沢が横になっていたところを、顔を赤くした斉木が踏み抜いている。
「斉木さん、足技は勘弁して下さい、足は。さすがに俺でも当たったら死にます」
「自業自得だろうがっ」
 喚いて斉木は芹沢に背を向ける。
「もういい、一人で行って来る」
「え、どこに?」
「買い物。車使うからな」
 そう言う斉木をよく見れば、きっちり着替えていていつでも出かけられる様子だ。
 斉木が芹沢のいるチームに移籍して以来、車はワンボックスカーを共用しているので、置いていかれた方は足を失うのだ。
 いや、別に旅行に行くと言ってるのではないのだから、足を一時失うことなどたいした問題ではない。
 せっかくの休日を恋人と一緒に過ごせないことが大問題なのだ。
 今は同じチームに所属しているが、オンとオフはまた別の話だ。
「俺も行きます」
 芹沢は慌ててクローゼットに取り付いた。
「来なくていい」
「ふざけたことは謝りますから」
「ごめんで済んだら警察はいらんわ」
 へそを曲げた斉木を何とか宥めすかし、芹沢は助手席に納まった。



 「で、どこへ行くんですか?」
 とにかく一緒に出かけることが先決だったので、行き先も聞かずに乗り込んでしまった芹沢が尋ねる。
「ホームセンター」
「ホームセンター? どっか壊れてましたっけ」
 斉木は割と日曜大工が好きで、ちょっとした修理などは自分でしてしまうのだ。
 芹沢はプロに任せた方が間違いがないし、見栄えもいいと思っているのだが、その辺の判断は斉木に任せている。
 惚れた弱みだよなあ、と、芹沢は内心で思っている。
 芹沢が自分の美意識を曲げるのは、斉木相手の時だけだ。
「壊したんじゃないよ。ちょっと工作をしようと思って」
 ちょっと前まですねていたとは思えないほど、もう斉木の機嫌は回復している。
 鼻歌でも歌いだしかねない雰囲気だ。
 さもありなん、今朝の芹沢の悪ふざけは、斉木の機嫌がいいことを見越しての行動だった。
 実は昨日、注文していた新しいスパイクが届いたばかりで、斉木は大変にご機嫌がよろしかったのだ。
 一流の選手は道具を大切に扱うものだ。
 芹沢も勿論そうだ。
 道具は自らの体を預ける大切な相棒なのだから、感謝の念を込めて扱うのは当然のことだ。
 だが斉木の場合、大切を通り越して、道具の手入れがもはや趣味の領域に達しているのではないかと、芹沢が時々疑ってしまうほどなのだ。
 代表合宿のホテルでは、芹沢などそっちのけでスパイクを磨いていたりする。
 しかし、今のチームはホペイロ(道具係)がいるので、道具の管理は一任しなくてはならない。
 任せなければ、それはそのホペイロの仕事を信じていないと表明するようなものだ。
 しかし、現在のホペイロは実にいい仕事をしてくれる人物で、自分の分身とも言える道具達を預けるのに何の不安もないのだから、任せない訳には行かない。
 365日休みなく道具の手入れを続けるのはなかなか大変なことだ。
 それはさておき、そんな事情なので、新しい道具を手に入れてホペイロに任せるまでの間しか、選手は自分で手入れは出来ないのだ。
 それが斉木には物足りないらしい。
 そのため斉木は昨夜、それは幸せそうに届いたばかりのスパイクを磨いていたので、多分今朝も機嫌がよかろうからいつもなら許してくれないことも許してもらえるのではと思っていて、その通りだった訳だ。
 そう言う芹沢の妙に計算高い部分は斉木の嫌うところなので、バレたら特大の雷が落ちるに違いない。
 もっとも、芹沢は悪ふざけなどではなく、本気で毎日おはようのキスとおやすみのキスは必須だと考えているのだが。
 その点に関しては、芹沢に自覚はないが自業自得の面が否めない。
 特におやすみのキスはそのままおやすみできないことが多々あるので、斉木が抵抗するのもまた仕方のないことであろう。
 芹沢がそのようなことをつらつら考えている内に、自宅から一番近いホームセンターにたどり着く。
 適当に空いている駐車場に車を止め、並んで歩きながら芹沢が尋ねる。
「で、何買うんです?」
「グラインダーをな」
「グラインダー?」
 思わず鸚鵡返しに問い返してしまう。
 てっきり棚でも作るのかと思っていた芹沢は困惑する。
「何に使うんですか、そんなもん」
「まあまあ」
 芹沢の問いは右から左に流して、斉木は目的の物を手に入れる。
 買ったのは一番小型のグラインダーだ。
「ほら、帰るぞ」
 ただ首を捻るばかりの芹沢をせかして、斉木は来た道を戻る。



 自宅マンションに着くと、斉木はベランダに通じる窓を開け、早速グラインダーを取り出した。
 取扱説明書に目を通し、ひとまず納得したらしい。
 口を挟む隙もなく、一体何をするつもりなのかと見守る以外の選択肢を持たぬ芹沢の前で、斉木はテーブルの上に鎮座している箱を取り上げた。
 その中には、昨日届いたばかりのスパイクが入っているはずだ。
「え……?」
 首を傾げて固まった芹沢の前で、斉木は箱からスパイクを取り出し、裏返した。
 斉木の意図を読み取った芹沢は、慌てて駆け寄ってその腕をつかんで止める。
「何するんですか! それ昨日届いたばっかなのに!」
「だからだよ」
 斉木は何をするんだと言わんばかりの表情で芹沢を見返している。
 芹沢は特大の溜め息をついて、空いている左手を額に当てた。
「あんたって時々とんでもないこと思いつきますよね」
「お前にだけは言われたくないぞ、そんなこと」
 さすがに斉木もむっとしたようだったが、今はそんなことを気にかけている場合ではない。
 芹沢は斉木が手にしているスパイクを見る。
 固定式のスタッドの長さはノーマルだ。
 彼らが使うスパイクは、市販品とは違う。
 担当の職人が仕上げてくれる特注品だ。
 芹沢は自他共に認める傲岸不遜であるが、プロの仕事をする人々への尊敬と感謝の念を忘れることはない。
 職人が丹精して作り上げられたスパイクのスタッドを、素人である斉木が削ろうなど、とんでもないことだ。
「どうしてそんなこと…」
「本当に微妙なとこなんだよ。自分でやった方が調整利くんじゃないかと思ってさ」
「やめましょうよ、それこそプロに任せましょう」
 ね、と、芹沢は猫なで声を出しながら、決意を固める。
 天然としか言いようがない斉木の受け答えを聞く限り力ずくでスパイクを取り上げるしかないと見極めたのだ。
 いざと言う時どちらが頑固かと言えば、それは間違いなく斉木の方だ。
 ひとまず取り上げて、斉木が手を出せないところにしまって、それからメーカーに連絡しよう、と、頭の中で算段をつける。
 しかし、それが裏目に出た。
 算段に夢中になって、斉木を押さえる力が緩んでいたらしい。
 突然耳を叩いた高い金属音に、芹沢は思わず耳を押さえた。
「あ、ああぁ……」
 目の前の光景に、芹沢は力なく呻いた。
 芹沢の拘束を振り切った斉木が、嬉々としてスタッドを削っている。
 芹沢は頭を抱える。
「もう知りませんよ、俺は」
 リビングのソファに戻る芹沢の足元がよろよろしている。
 実際、ソファにたどり着いた芹沢は、どさりと身を投げ出すのが限界だった。
「ホントに天然なんだから……」
 そんな天然の部分にも惚れているのだからどうしようもないのだが。
 それから程なく、斉木はグラインダーを止め、スパイクを様様な角度から眺める。
 納得がいったのか、斉木は持っていたスパイクを傍らに置いて、もう一方のスパイクを取り上げ、同じようにスタッドを削り始めた。
 もはやただ眺めているしかない芹沢は、ソファでぐったりしたまま斉木の様子を見ている。
 もう一方も削り終えたのか、斉木はグラインダーを離し、今度は両足を揃えて横から眺める。
 その途端、
「あ」
 一声発して、斉木が固まった。
 凍りついた気配に、芹沢が歩み寄る。
「斉木さん、どうしました?」
 声をかけられ我に返ったのか、斉木は芹沢を振り仰いで、切なそうに言った。
「片方削り過ぎた」
「ほら、言わんこっちゃない」
 芹沢は前髪をかき上げながら天を仰ぐ。
 その様子にかちんときた斉木が叫んだ。
「うるさいな、お前のせいだぞ!」
 無論、濡れ衣を着せられた芹沢も負けてはいない。
「何で俺のせいですか!」
 しかし、斉木は横紙を破りまくる。
「お前がごちゃごちゃ言うから気が散ったんだ!」
「止めたのに言うこと聞かなかったのはあんたでしょうが!」
 喧々諤々とやりあうのも、気心の知れている証拠である。

 ある晴れたオフの日の出来事である――





 後に、斉木がメーカーの担当者に心底呆れられたことは言うまでもない。
















しばらく新作を書いていなかったのでリハビリにバカップル物を。
でも、サッカー選手らしさ(誰でもやることじゃありませんが)も書きたかったので、スタッドの話は今季限りで引退する相馬さんのエピソードをいただきました。
あー、スタッドはスパイクの鋲のことです。
サッカーのスパイクのスタッドには大きく分けて固定式と移動式の2種類があるそうです。
で、固定式の場合は、スタッドの長さ別にノーマルとショート、移動式の場合はスタッドが6本か8本か。
移動式の方が滑りにくいですが、固定式の方が体への負担は少ない、と、相馬さんはおっしゃっていました。
ホペイロの仕事は選手のスパイクやユニフォーム(ソックスまで)の管理から、ボールや練習に使うビブスまで全部面倒を見ることもあるようです。大変です。
あ、ホペイロはJリーグのどのチームにもいる訳でもありません。それはそれぞれ。
常設チームではない代表にはいないと思います。
以上、豆知識。間違っていたら指摘して下さい。修正します。

それと、もしかして誤解を招いてしまったかも知れないのですが、芹沢が「プロの仕事に素人が云々」と言っているのは、ウチの芹斉の芹沢の考え方であって、別に私自身がそう思っていると言う訳ではありませんので。
ウチの芹沢は完璧主義者の上に神経質なので、こういう事はプロに任せるか、自分でやるなら玄人はだしになるまで極めるかの二つに一つです。
スパイク磨きは普通にしても、スタッドの削りまでは手を出す範疇にないと言うだけの話です。
更に、ネタ元にした相馬さんの名誉のために付け加えますが、相馬さんはちゃんと成功したそうです。
成功したので調子に乗って削りすぎたらしいです。

微妙に文章が気に入らないので、後でマイナーチェンジするかもですが、楽しんでいただければ幸いです。



夕日(2005.11.19)

よろしかったら押してやって下さい。



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