――1月――
クリスマス休暇で帰国中の芹沢は、一人、定宿のホテルのビュッフェで朝食を取っていた。
栄養とカロリーを考えて皿に取り分けた食事の半分も食べない内に、その手が止まる。
芹沢の口元に苦笑いが浮かぶ。
緊張のあまり食が進まないとは何事だ。
これから向かう試合に、自分が出る訳でもないのに。
いや、自分が出る試合ではないからこそ緊張するのだ。
自分のことならばいくらでも何とでも出来るし、何とかする。
だが、どうやっても自分は手を出せないからこそ緊張するのだ。
本当ならばこんなホテルではなく、飛んで帰りたい場所がある。
しかし、ただ見守ることしか出来ない自分が邪魔してしまうことを恐れて、芹沢は今回の帰国はホテル住まいをすることに決めたのだった。
思っていた以上に自分は小心者だったのだなと思う。
食欲は既になく、止まった手は動き出そうとしない。
常にバランスのよい食事を心がけているが、一食ぐらいはいいだろう。
芹沢はナイフとフォークを置いて、残っていたコーヒーを飲み干し、席を立った。
出かける準備をしてロビーに現れた芹沢は、フロントに部屋の鍵を預け、言付けられていた封筒を受け取る。
封筒の中身は、関係者用のパスだけだった。
我知らず小さなため息を吐いていたことに気がついて、芹沢は自嘲する。
メモぐらい入ってやしないかと勝手に期待して、勝手に裏切られて傷ついている。
やはりホテルを取って正解だったのだ。
こんなみっともない姿は見せたいものではない。
試合前にせめて顔を合わせたいと思わないではなかった。
だが、顔を見れば触れたいと思うし、触れてしまえばそこで留まれる保証もない。
万が一も考えれば、最初から距離を取るしかないのだ。
クラブ史上初めての天皇杯決勝進出、そして斉木はチーム最年長でレギュラーで、キャプテンとしてチームをまとめなければならない。
芹沢は、斉木が試合前に会いたいと思わないならば、それを妨げようとは思わなかった。
むしろ芹沢が観戦に訪れるのは当たり前だとばかりに、手回しよく関係者のパスを用意していただけで充分だと思う。
ホテルのエントランスに横付けされたタクシーに乗り、行き先を告げる。
「国立競技場へ」
運転手は無言で発進させた。
いろいろと話しかけられないのはありがたい。
元日の都内は空いており、実にスムーズに目的地へ到着した。
国立競技場はすでに試合前1時間を切っており、一般の観客の入場列はもうほとんど捌けている。
芹沢は関係者のみ出入り出来る入り口にタクシーを乗りつけたのだが、目ざといサポーターの何人かは芹沢の存在に気づいた様子だ。
欧州のリーグで活躍する芹沢に生でお目にかかれる機会はそうそうないので気持ちは分からないでもないのだが、今日は芹沢の気持ちに余裕がない。
声をかけられる前にと、芹沢は足早に関係者受付に回った。
受付で受け取ったチケットに印字された席にたどり着くと、先客がいた。
「遅え、何グズグズしてやがったんだ」
相変わらず口の悪い相手の鼻先に、芹沢はチケットを突きつけて言う。
「その席、俺のなんですけど、内海さん」
芹沢も内海との付き合いは最早2桁に載っており、今更恐れ入ることもない。
また内海もなんだかんだそんな芹沢を気に入っている訳で、クツクツと笑いながら応じる。
「足がながーい芹沢君に通路側の席を譲ってやろうってんだから、まずは感謝すべきじゃねえ?」
「ありがとうございます、感謝してます」
と、全く心がこもっていない棒読みのセリフの後に、肩を竦めながら席につく。
古い設計の国立競技場の座席は狭く、確かに通路側の端に座れた方がありがたい。
とは言え、恐れることはないが、それなりに気を使うべき相手であるのも事実だ。
「嫌な予感はしていたんですけどね、やっぱり内海さんの隣ですか」
「ったり前だろ。あいつの晴れ姿、見届けてやんなくちゃなあ」
「ま、お元気そうで何よりです。内海さんは昔から痩せの頑丈でしたけどね」
通路側の席に腰を下ろしながら、芹沢は正直な感慨を漏らす。
「俺にそこまで言いたい放題言う後輩もお前だけだ。向こうに行ってもその鼻っ柱折れてないようで嬉しいぞ」
内海はニヤニヤと笑いながら語を継ぐ。
「で、お前、いつあっち戻んの」
「明日の朝一番の飛行機で経ちます。それでギリですね。向こうは新年はただの休みですからね、しょうがない」
「忙しいな。でもそれなら何とか顔ぐらい出せるか。祝勝会になるか残念会になるか知らんが」
「今回は遠慮しときますよ」
芹沢は多くは語らなかったが、内海は芹沢が飲み込んだ言葉を正確に理解しているのだろう。
内海がさらりと問う。
「下、寄って来たのか」
「いえ。来いとは言われなかったんで。邪魔はしたくないですから」
「ふん、お前にしちゃ上出来だ」
父親のような面持ちでポン、と、頭を一つ叩かれた。
付き合いが長いせいか、そんな時の内海の表情は斉木とよく似ている。
だが、それが癪に障って何か言い返そうとした瞬間、両ゴール裏から歓声が上がった。
試合前のウォーミングアップに、両チームの選手達が姿を現したのだ。
皆、揃いのウォームアップジャージに身を包んでいる。
だが、斉木だけはどれだけ離れていても、後ろ姿だけでもすぐに見分けられる。
率先してダッシュを繰り返すその姿に、この試合にかける思いが見えた。
シーズン最後の試合。
あちこちに故障を抱えている体で、苦しくないはずがない。
自分は、ただここから見ているしか出来ない。
ただ、祈るだけだ。
勝利を、彼の手に。
サッカー選手ならば誰でもやるウォーミングアップに真剣な眼差しを向ける芹沢を横目で見て、内海は小さく肩を竦めた。
試合は寒さのためか、大舞台の緊張のためか、膠着した状況が続いた。
両チームに訪れたいくつかの決定機は、自ら大きく外すか、ポストに嫌われた。
このままPK戦にもつれ込むかと思われたアディショナルタイムにチャンスが訪れる。
ゴール前の混戦の中でFWが放ったシュートは、かろうじてGKが弾いた。
ボールが中途半端な位置に浮く。
FWの本能が刺激される。
思わず芹沢は立ち上がり、叫んだ。
「行け!」
その声が遠くピッチまで届くはずもない。
だが、まるで聞こえたかのようなタイミングで、斉木がゴール前に飛び込んだ。
ボールを胸でトラップして、自分ごとゴールに押し込む。
長いホイッスルが鳴る。
ネットに絡まり、味方に助け出されるようなそんな泥臭いゴールだった。
助け出された斉木は、駆け寄ろうとする味方の選手達へセンターサークルを指し示した。
まだ終わっていない。
そう言っているように、芹沢には見えた。
そんな芹沢のコートが引かれる。
引っ張られた先を見ると、内海と目が合った。
「お前の図体で立ってたら、邪魔」
「あ、ああ、すみません…」
その通りである。
慌てて腰を下ろした芹沢に、腕時計で時間を確認した内海が言った。
「おめでとう。これで終わりだ」
キックオフの笛の音が鳴る。
そしてキックオフをした次の瞬間、試合終了を告げる長い笛が吹かれた。
そうして初めて、ピッチ上の斉木が相好を崩した。
両の拳を天に突き上げる。
そんな斉木のすぐ隣にいた選手が飛びついた。
バランスを崩して倒れた二人の上に、次々と選手達が飛び乗っていく。
その様子を眺める芹沢の視界が歪んだ。
サングラスをしていてよかったと思う。
揃いの優勝記念Tシャツに着替えた選手達がメインスタンドに姿を現して、表彰式が始まった。
キャプテンである斉木が天皇杯を受け取り、天に掲げる。
冬の日に、カップが鈍く輝く。
万雷の拍手が鳴り響き、紙テープが舞う。
その中心にいるのは斉木だ。
芹沢は、斉木の晴れやかな笑顔をまぶたに焼き付けた。
また半年別れることになるが、きっと自分も戦える。
そう思えることを幸せだと思った。
拍手お礼を改稿しました。
夕日(2012.02.01)