living











 ピンポーン。











 バタバタと引っ越しの後片付けに追われる芹沢と斉木の新居に、のどかなチャイムの音が響いた。
「斉木さーん、悪いんスけど出て下さい!」
 奥の部屋から、芹沢が声をかけた。
「ああ、分かった」
 と、本棚に今まで溜め込んできたサッカーのビデオテープを並べていた斉木は答えて、何気なく玄関に向かう。
「はい、どちら様」
 まだ最新式のインタフォンに慣れていない斉木は、画面を確認する前に声をかけていた。
 しかし。
『よお』
 機械を通して聞こえた声も、勘違いのしようもなく。
 斉木は、思わず画面も確認せずにざざっと引いた。
 だが、
『早く開けろ』
 インタフォンを通した情け容赦ない言葉と共に、玄関のドアを蹴る音が玄関内に響く。
「わー、ちょっと待て!」
 芹沢と斉木がこれから住むことになる――斉木は同居だと言い張り、芹沢は同棲だと平然と言い放った――このマンションは、かなりこぎれいなマンションで、そんな公共の通路で大騒ぎされた日には、警察を呼ばれかねない。
 共同住宅はいろいろと大変なのだ。
 本当のところ、絶対に迎え入れたくなかったのだが、斉木は慌てて玄関のドアを開けた。
「遅え」
 開くなり毒のある言葉を鮮やかな笑顔で告げたのは、酒瓶を抱えた内海である。
 その背後には、大きな買い物ビニール袋を両手に二つずつ下げた加納が立っている。
「…何、その大荷物…?」
 斉木が口元を引きつらせて尋ねると、
「わざわざ引っ越し手伝ってやったんだから、引越し蕎麦ぐらい食わせろよ」
 と、内海は斉木の許しも得ないまま上がり込んだ。
 もちろん、許しがいるとも思ってなかろうが。
「蕎麦なんてある訳ないだろ」
 斉木がまともな抗議をしたところで、恐れ入る内海様ではない。
「だから、加納がそんな大荷物なんだろ」
 気がつけば、加納も無言のまま、しっかり上がり込んでいた。
「いろいろと使えそうな食材も買ってきてやったんだから、感謝しろよ」
「あ…」
 内海は問答無用でリビングまで侵入を果たす。
 止めようとした斉木の右手は空しく空をつかむばかりだ。
 まあ、いつものことである。
「…内海が金出した訳?」
 斉木は、半ば諦めながら、尋ねてみた。
「社会人がいるのに学生の俺が出す訳にいかないじゃん」
 と、リビングのローソファに陣取った内海は、さも当然と言わんばかりに言い放った。
「そうか…」
 斉木は肩を落とした。
「で、腹が減ってるんだ、早くしろ」
「はいはい」
 斉木は加納からビニール袋を受け取った。ビニール袋はずっしりと重い。
「あ、めんつゆのもとなんか使ったら承知しねえからな」
 ビニールを持ってキッチンに向かう斉木の背中に、容赦ない内海の声が投げつけられる。
 斉木の肩が更に落ち、ガサガサとビニールが音を立てる。





 キッチンのテーブルの上で、ビニールを空けると、生蕎麦が16人前、醤油に昆布に鰹節にみりんに砂糖、塩、等の調味料が詰まっている。
 それと、恐らく天ぷらの材料だと思われる、野菜と白身魚と天ぷら粉。
「………16人前、茹でろってんのか」
 確かに、斉木に芹沢に内海に加納なら、16人前の蕎麦ぐらいあっと言う間だと思うが、それを一般家庭のキッチンで茹でるのは至難の業だ。
 救いは、鰹節が削り節だったことか。鰹節から削れと言われたら、日が暮れてしまう。
 かと言って、抵抗したところで無駄なことは重々分かっていて。
 引越しの手伝いなど頼んだのは自分だ。
 うかうかと口実を内海に与えてしまったのだ。

 ――絶対、アレだよな。

 斉木には、心当たりがバリバリあったのだ。
 内海が、引越し蕎麦などにかこつけて、わざわざ斉木と芹沢の新居に乱入してきた、その理由。
 いつかは白状しなければならないにせよ、内海なんかに暴露されるのは最悪の事態だ。
 芹沢の、怒り狂う姿が瞼の裏に浮かぶ。
 思わず、斉木はくらあっとしたが、何とか踏み止まった。

 ――これは、有無を言わさず叩き出すしかないっ。

 斉木は、深い縦じわを刻んだ眉間に手を当てて、決心する。
 そんなことをすれば後で3倍返しだと分かっているが、今ここで暴露されるよりは100倍マシだ。





 そう、心に決めて。





 斉木は、この家で2番目に大きな鍋を火にかけた――。
















 窓拭きをしていた芹沢は、チャイムの後、片付けの物音が止まり、テレビの音が聞こえるに至って、リビングを覗いた。
「斉木さん?」
「何だ、いたのか」
 顔を出した芹沢に、勝手にグラスを取り出して酒盛りを始めていた内海がひどいことを言う。
「何だじゃないですよ、何しに来たんですか!」
「引越し蕎麦を食いに」
 怒髪天をつく芹沢にも、内海が動じるはずもなく。
 酒のつまみらしい岩塩を舐めて、また酒を飲む。
 加納は、引っ越しの際に覚えていたのか、勝手に急須を引っ張り出してお茶を飲んでいた。
「何なんですか、それは!」
 芹沢が叫ぶ。
 するとキッチンから、
「芹沢、こっち手伝え!」
 斉木の大声が響いた。
「あー、まあ、あいつでも大変だろうなあ」
「何、させてんです…」
 何気ない内海の呟きに、芹沢の目に危険な色が浮かぶ。
「見りゃ分かる」
「芹沢ーっっ」
「今、行きます」
 キッチンからのSOSと、口を割る気はなさそうな内海の様子に、芹沢は慌ててキッチンに駆け込む。



 芹沢が消えてから、茶を啜っていた加納が呟く。
「…煽り立てて楽しいか?」
「そりゃあ」
 最後にハートマークがついていそうなほどの内海の返答に、加納は何も答えず、茶を啜った。










 「俺はこれから蕎麦を茹でる。お前は天ぷら揚げてくれ」
 芹沢がキッチンに足を踏み入れるなり、斉木が一番大きな鍋をガスにかけながら言った。
 すでに天ぷらの下ごしらえは済んでいた。斉木は続けて自作のそばつゆの味見をして、こんなもんだろ、などとうなずいている。
「何、やってんです」
 芹沢が大きな溜め息を吐きながら呟く。
「あいつがここまでしたら、蕎麦食わせるまで動きゃしないからな」
「何もおとなしく言うこと聞くこたないでしょう?」
 芹沢が半ば呆れて言うと。
 斉木が肩越しに振り向いた。
「蕎麦食わせたら、即叩き出してやるんだ」
 斉木の低い声は、うなり声に近かった。
 よくよく見れば、斉木の目には非常に剣呑な光が浮かんでいる。
「………もしかして、かなり怒ってます?」
 芹沢の問いには、斉木は答えなかった。
「一刻も早く叩き出すんだ。早くしろ」
 この上なく不機嫌な声で、言い捨てて。
 斉木は、16人前の生蕎麦を抱えて、鍋に向かう。
 やっぱりアイツに引っ越しの手伝いなんか頼むんじゃなかった、とか何とか、口の中で呟いている。



 普段は人の10倍ぐらい気遣い屋な分、斉木は一度へそを曲げると手がつけられなくなる。



 芹沢は肩を竦めて、ついさっき片づけたばかりの揚げ物鍋やバットを流しの下から取り出し、天ぷらを揚げる準備に取り掛かった。










 「なかなか良く出来てんじゃないの」
 テーブルに並んだ山盛りの蕎麦と天ぷらを見て、内海がのたまった。
「そりゃあね、苦労しましたから」
 芹沢がそばつゆを注ぎながら、言った。
 狭いキッチンで――一般的にはかなり広いのだが、何しろ規格外にゴツい住人が二人も並べばどんなに広いキッチンも狭くなる――額に汗して二人がかりで作り上げたのだ。実際、10人前を越える蕎麦と、天ぷらを作るのは、並大抵ではなかった。
 大量の調理を前提としている合宿所ではないのだ、ここは。
 あくまでゆったり目の個人所有のマンションなのである。
 これで文句を言うようなら、さすがに内海と言えども、斉木は料理に口をつける前に部屋から叩き出したかも知れない。
 それぐらい、斉木の機嫌は悪い。
 何しろ、あの斉木がリビングに落ち着いてから一言も口を利かないのだ。
 よほどの事態である。
「さっさと食え」
 ボソリ、と、斉木が言った。
 ようやく口を利いたと思えば、この調子。
 本当に斉木のご機嫌は不貞寝しているようだ。

 ――さっさと食って、さっさと帰れ。

 そんな言葉が聞こえてきそうだ。
 だが、それで恐れ入るような内海ではない。
 むしろ、ここで更に逆なでするのが内海である。
「どうしたんだ、斉木。機嫌悪いな。そういう時は飲むに限るぞ」
 と、内海は持参した酒瓶を差し出した。
「奮発して越の寒梅だ。飲め飲め。遠慮はいらんぞ」
 と、内海は上機嫌な様子で勝手にグラスを取り出して、冷やの日本酒をたっぷり注ぎ、斉木の前に置いた。
 更に、自分のグラスにも注いでからカーペットの上に置いた瓶の中身は、すでに中身は半分になっている。
 一人で半分を消費したはずの内海の顔には、全く酔いの気配は感じられない。
「珍しいですね、内海さん」
 芹沢は、斉木以外には振る舞う気のなさそうな内海の脇の酒瓶を見る。
「あ?」
「いつも、絶対人になんか勧めないのに」
 斉木一人に進めるだけでも珍しいのだ。
 うわばみの内海は、他人にはいい酒ほど勧めない。
 それなのに。
「ああ、まあ、いいじゃん、たまには。もうすぐチームメイトになるんだし」
 などと、内海とは思えないようなかわいらしいことを言う。
 ただし、そう言う口元に浮かんだ笑みは、あまり品のいいものではなかったが。
 そして、
「内海。腹減ってたんだろう。さっさと食べろよ」
 と、斉木が蕎麦に手をつける。
 ここまで喧嘩腰の斉木も、実に珍しい。
「おお、コワ」
 内海は肩を竦めたが、表情が言葉を全く裏切っていた。
 芹沢は、隣に座っている斉木を見る。
 視線を合わせようともしない斉木には、何も聞けない雰囲気が漂っている。
 加納も、口の中でモゴモゴ言って、やはり蕎麦から手をつけた。
 だが、加納のその態度はいつものことであり、話を振ってみたところで、いつも通りに答えは返ってこないだろう。
 けれど。
 芹沢は、加納も分かっているような気が、何となくではあったが、していた。
 多分、自分だけなのだ。
 何も分かっていないのは。
 斉木と内海の間には何かある。
 ここまであからさまで何にもないはずがない。
 しかしその理由が、芹沢には皆目見当がつかないのだ。
 これから始まるはずのラブラブな同棲生活にいきなり水を差されたようで、実に気分が悪い。
 我知らず芹沢の整った眉が釣り上がる。



 ふと、視線を感じる。



 芹沢が視線の元に目をやると、内海がにやりと笑った。

 ――何かある。絶対、何かある!

 内海の笑みに、芹沢は確信した。
 だが、その理由は今もって分からず、不安が増しただけだった。












 張り詰めた雰囲気のまま、しばらく蕎麦を啜る音だけがリビングに響いていた。
 しかし、食べ始めてしまうと蕎麦の消費は早かった。
 何しろ、全員が現役の体育会系だ。16人前の蕎麦など、ものの30分も持たなかった。
 天ぷらも、さすがに白身魚のキスはキスだけで天ぷらにしたが、野菜はあまりの量にキレた芹沢が途中から掻き揚げ風にしてしまったため、こちらも片付くのは早かった。
「食った、食った、ごちそうさん」
 ああ見えて、実はこの面子の中でも一番の大食いではないかと思われる内海が、満足そうに言った。
「そうか、それは良かった、じゃあ、帰れ」
 と、身も蓋もない口調で斉木が応じる。
「どうしたの、マコちゃん、冷たい」
 対する内海は、白々しいほどショックを受けた表情を作る。
 絶対に作りだと気配で分かるが。
 実際、続く言葉はとてもショックを受けているとは思えないものだった。
「いいじゃん、食後の茶ぐらい出せよ」
 内海はパタパタとテーブルを叩きながら言った。
 今更ではあるが、アンタ何様? な態度である。
「そんなもん、出してる暇があるかっ。こっちは片づけの途中だったんだ!」
 だが、今日は斉木も負けてはいなかった。
 斉木は、ビシッと玄関を指差して、
「用が済んだら、さっさと帰れ!」
 そうでなくても地声が大きいと言うのに、更に声を荒げて、内海に詰め寄る。
 普通の人間だったら震え上がるところだが、残念ながら相手は普通の神経は持ち合わせていない。
「何だよ、これで飯には困んねえと思ったのによ」
 内海の言葉に、ピクリ、と、芹沢が反応した。
「飯って、アンタ、まさかこれからうちに入り浸るつもり…」
「何で俺がこんなとこまで…」
 芹沢の言葉に、内海が心外とばかりに応じたが、斉木がドンッと、テーブルに拳を叩き付け。
「内海! 黙れ!!」
 その声、本日のMAXレコードである。
 思わず、隣にいた芹沢が耳を塞いでしまった。
 内海は、顔を背けて眉をしかめた。
 何しろ、斉木はあの国立競技場のスタンド席からフィールドまで声が届いたと言う、伝説のバカ声である。
 そんな人間に、何の遠慮もなく近くで声を張り上げられたら、体の芯まで響いてくるし、鼓膜が心配になってしまう。
 グランドピアノも大丈夫と、完全防音を歌っている高級マンションであるが、さすがに近隣に響き渡ってしまったのではないかと、芹沢は声が止んだ後に周りを見回してしまった。
 内海も、眉をしかめたまま、抗議する。
「お前ね、こんな狭いところで怒鳴るんじゃねえよ。バカ声なんだから」
「だったら帰ればいいだろっ」
 とうとう、斉木が立ち上がった。
「斉木さん、どうしたんですか」
 芹沢にとっては訳も分からずいきり立つ斉木をなだめようと、芹沢はその腕をつかんだが、
「離せ、俺はコイツを叩き出す…」
 斉木は、フィールドぐらいでしか見せない鬼の形相で芹沢に視線を投げた。



 まるで修羅場である。



 しかし。
 この修羅場の喧燥を、全く気にかけるつもりもなさそうな人間が、一人。



 「茶が、入ったぞ」
 わーわー喚きたてる3人を全く無視して、我が物顔でお茶を入れていた加納が、湯気の立つ4人分の湯呑みを全員の前に配った。
「いただきます」
 と、加納は自分で煎れたお茶に挨拶をし、くいっと飲んだ。
「…いいお茶を使ってるな」
 などと、感想を述べるその表情は、まるで何事もなかったかのようである。
 さすがに。
 残る3人も萎えた。
 さすがの内海が苦笑する。
 斉木など、背後のローソファに倒れ込んでしまった。
「あの…加納さん?」
 芹沢は、何を言っていいやら分からず、口ごもる。まあ、斉木が落ち着いた様子なのは、ありがたかったけれど。
「加納、お前、ノリ悪すぎ」
 内海は苦笑したまま、加納が煎れてくれたお茶に手を伸ばす。
「せっかく盛り上がってるところに、水差しやがって」
 あれは、盛り上がっていたのだろうか、と言う芹沢の疑問は、言葉にならなかった。
 ローソファになついていた斉木が、起き上がって来たせいだ。
「あー、もう、人ん家で勝手にくつろぐなよ、加納」
 この騒ぎでぼさぼさになってしまったくせ毛を更にかき回し、斉木は苦笑いする。
 その気配が、いつもの斉木に戻っていて、芹沢はほっとした。
「もー、しょーがねーなー」
 と、言いながら、斉木も煎れてくれたお茶を飲む。
「ん、うまい」
 穏やかに笑う斉木を横目で見ながら、芹沢も一息つこうと湯呑みに手を伸ばした。
 斉木の実家に送ってもらった一番茶の香りが、ふわりと広がる。
 生まれも育ちも静岡県民、お茶だけは譲れない。










 先程の騒ぎなど全員が忘れてしまったかのような、食後の団欒の気配が辺りに満ちる。










 だが。










 しかし。










 問題の根っこが取り除かれた訳ではなかった。
 そして、もう一度その問題を掘り返したのは、他ならぬ、加納だった。





 加納は言ったのだ。
 のんびりと茶を啜りながら。









 「で、いつ引っ越すんだ、斉木」










 ピキリ、と、空気が凍った。
 それまでのほのぼのとした雰囲気など木っ端微塵である。
「…はははははっ」
 一瞬の静寂の後、内海が笑い出した。
「な、何を言ってんですか、加納さん」
 芹沢が問う。
 だって、引越しが終わったから、ここで引越し蕎麦など食べているはずでは。
「か、加納っっ」
 斉木が、ようやくと言った感じで声を絞り出した。
 無論、お願いの響きが滲んでいた。よほどの鈍感でなければ、分るぐらいには。
 が、加納は、斉木のお願いを分っているのかいないのか、小憎らしいほど静かな表情で、さらりと言った。



「もうすぐ入寮しなければならんだろうが、斉木は」



 加納の言葉は、芹沢にとって、全く考えてもいない事態だった。





 だってだって、自分達はこれからこの部屋で一緒に暮らしていくはずだ。
 共にJリーガーとは言え、チームが違う。
 それでも、生活の時は一緒に重ねて。
 そのための、同棲だったはずなのに。





 それなのに――。





 ブンッと、芹沢は斉木を見た。
 あまりの勢いに、長い髪が宙を舞う。
 元々切れ長のまなじりが、更に釣り上がっている。
 なまじ整っているだけに、そういう表情をすると、とても怖い。

 そして。
 斉木は、頭を抱えていた。
 恐らくは、内海ばかり気にしていて、加納がまさか口を滑らせるとは思っていなかったのだろう。
 実際、加納は口を滑らせた訳ではなかろう。
 それは、加納自身の困惑の表情――あくまでこの面子だから分かる変化である――が物語っている。
「斉木ぃ、やっぱ言ってなかったな」
 内海が、さも楽しそうに手を叩く。
「…まずかったか?」
 少し困った様子で、加納が尋ねる。
 そのどちらにも、斉木は答えようとはしなかった。
 コソコソと逃げ出そうとしていたが、そんなことを芹沢が許すはずもない。
「斉木さん?」
 ガッシと、斉木の二の腕をつかんで、自分の傍に引き寄せる。
「どういうことなんですか?」
 アップで迫ってくるニッコリ営業スマイルが、とてつもなく怖い。
 笑顔のくせに、こめかみの辺りがピクピクしているのだ。
 無論、芹沢としては怖がってくれなければ意味がないし、怖いのは斉木だけで、端から見ているだけの身分にしてみれば、こんな面白い見物はなかなかない。
「あ、あのな、芹沢」
 斉木が必死で言葉を捜す。
 その目は、正面に迫っている芹沢を避けて、宙をさ迷っている。
 その時、加納が、フォローのつもりか口を挟んだ。
「芹沢だって、最初は寮に入れられただろう」
「ま、ウチは金がないから借り上げのマンションだけどな」
 内海の補足に、芹沢がキレた。
「だからっ、何で今まで黙ってたのかって言ってんですよ、俺は!」
 先刻の斉木に負けず劣らずの迫力で芹沢が怒鳴り、怒鳴りつけられた斉木は首を竦めた。
 逃げようにも芹沢の大きな手が斉木の腕を完全にロックしている。
 そもそも、自分の新居から逃げて、一体どこへ行くと言うのだ。
「いや、な、俺も忘れてたんだよ」
 斉木はしどもど答える。
 最悪の事態である。
 今まで言っていなかったと言うだけで芹沢は確実に怒るのに、斉木以外の人間の口から知らされたのだ。
 芹沢は、そのような事態を最も嫌う。
 分っているから、斉木は必死で言葉を紡ぐ。
 そうしなければ、アップで迫る芹沢の怖い顔に、喉が凍り付きそうだった。
「すっかり忘れてて、思い出した時にはこっちの引越しが決まってて、言いにくくなっちゃって、それで、今まで言えなかったんだ…」
「そんな大事なこと、思い出した時点で言いなさいよーっっ」
 芹沢は絶叫した。
 芹沢にしてみれば、これから始まる同棲生活に浮かれていただけに、ショックが大きい。
 泣きたい気分とはこのことだ。

 サヨナラ、思い描いた甘い生活。

「忘れるのも、どうかと思うが」
「言わない方が、悪いけどな」
「てっきり言ってあるものだと思った」
「フツーは言うわな」
 目の前で展開する犬も食わない奴を、内海は冷ややかな目で、加納は申し訳なさそうな目で見ながら、会話していたが。
「じゃ、お茶もいただいたことだし、帰るかね」
 内海が、散々食い散らかしたテーブルに空の湯呑みを戻して、言った。
「しかしな…」
 加納はさすがに気が引ける様子であったが、
「まあ、入寮は止められないんだから、自分達でケリつけるしかない話だしな」
 内海は立ち上がり、テーブルに背を向けて脱ぎ捨てていた上着を着込んだ。
 そして、肩越しに振り向いて、ニヤリと笑った。
「大体、このままヤロウ同士の痴話喧嘩見てたって、楽しくないし?」
 きれいな顔で平然と、とんでもないことを内海は言う。
 だが。
 加納は一度、斉木と芹沢を見て、それから内海の方を向いて、はっきりきっぱり、うなずいた。
「…そうだな」
 加納も席を立ち、上着を取る。
「じゃあなー、飯、美味かったぜ」
 ひらひらと手を振って、内海は何事でもないように玄関に向かう。
 加納もその後に続いた。
 もっとも、加納が納得しなかったとしても、内海は今日の運転手である加納を引きずってでも帰っただろうが。
 内海の今日の目的は達している。
 後が野になろうが山になろうが、内海の知ったことではない。
「あっ、こら待て、内海! 加納!」
 ようやく内海と加納が撤収しようとしていることに気がついた斉木が叫ぶ。
「お前ら、どうしてくれるんだ!」
 責任取れよ、と言う心の声が聞こえてくるようだったが、芹沢にとっては、逆にありがたい話で。
「ああ、内海さん、加納さん、お疲れ様でした」
 さっさと帰れ――芹沢の冷たい視線が何よりも雄弁に物語っていた。
「おう。頑張れや」
「ええ、そうさせてもらいます」
 内海が無責任な言葉を投げると、芹沢は深く深くうなずいた。
 その目が、マジである。
「待てーっ」
「アンタが悪いんでしょうが!」
 斉木と芹沢の言い争いを背に、内海と加納はマンションの内廊下に出た。
 しっかりした黒いドアを閉めると、騒がしい声は全く聞こえなくなった。
「さすが、防音がしっかりしてるなぁ」
 迷いもなくエレベータホールに向かう内海の背に、加納がもう一度問うた。
「…本当に放っておいていいのか?」
「いいも悪いも、俺らにゃどうしようもないってね」
 だが、内海は言下に答える。
 確かに、事実ではある。
「……そうだな」
 加納も軽く息をついて。
 内海の後を追った。






 さて。
 一方の斉木と芹沢は。
 あのまま小競り合いを続けていた。
「ホントにっ、アンタはどうしてそう大事なことを黙ってるかなっ!」
「わざとじゃないんだ、わざとじゃ!」
「わざとだったら、ただじゃ済ませませんよっ」
「信じてないな、お前は!」
 芹沢は斉木を押さえつけようとし、斉木は逃げ道をふさがれないように抵抗する。
 だが、力技となれば、体格に勝る芹沢がどうしても有利であり、この場合、心理的にも斉木に弱みがあるので、最初から勝負は見えていると言えた。
 斉木が芹沢の手を振りきって、玄関方向に逃げ出そうとしたが、
「させるかっ」
 芹沢が腕を伸ばしてシャツの裾をつかみ、力一杯引き戻す。
「わわっ」
 引き戻された斉木はバランスを崩し、背中から芹沢の腕の中に倒れ込んだ。
 即座に芹沢の腕が肩と腰をがっちりと拘束する。
「げ…」
 日本人離れして長い芹沢の腕は、世間一般では十二分に大男で通用する斉木の肩や腰を回っても尚、余るほどだ。
 この体勢に持ち込まれたら、もう斉木は逃げられない。
「で、いつまでに寮に入んなきゃなんないんです?」
「えっと、来週中…」
「何でそこまで切羽詰るまで言わないかなー」
「済まなかった…」
 実際、自分が悪いので、斉木としては謝るしかない。
 まさか、思い出してからも上機嫌で物件を探し回ったり、家具を選ぶ芹沢を見ていて言えなくなった、なんて、口が裂けても言えないし。
「それでいつまで寮に入ってなきゃいけないんです」
「最低でも、半年」
「最低ってことは、長くなることもある訳?」
「1年までは、いられるそうだ」
 実際、斉木はそう言われたのだ。
 チームとしてみれば、金がないはずのルーキーに宿舎を提供している訳だから、その表現は嘘ではない。無論、選手の管理の方がよりウェイトが高いのは事実だろうが。
「いる気、ないよな?」
「なくても、2軍暮らしの場合は、出られないかもしれない」
「速攻、トップに上がって下さい! サテライトなんかで呑気にしてたら、毎試合ケツ叩きに行きますからね!?」
「や、止めてくれ…」
 芹沢のこれ以上はない脅し文句に、頼むから、と、うめく斉木の声は、哀願と化した。
 今ですら、視線が痛いのだ。斉木までプロになったら、それなりに注目はされるはずで。
 今はまだ、割と身近な連中にしか怪しまれてはいないが、不特定多数の一般人にまで疑いの眼差しを向けられるのは、心の底から避けたい事態である。
「だったら、すぐに寮なんか出て下さいよ」
「…努力する」
 斉木としても、不本意な事態ではあるのだ。
 しばらく本気で忘れてしまったぐらいには。
 サテライト暮らしでは、芹沢と生活のリズムが合わなくなる。
 その上寮住まいともなれば、やはり自由気ままには暮らせない。
 むしろ今までよりも会える時間は短くなる可能性が高い。
 思わず、うつむき、目を伏せてしまった斉木を、芹沢が抱き締め直す。
「芹沢?」
「もう、アンタが言い出したんだぞ、一緒に暮らそうって」
 芹沢は、背後から斉木に頬を寄せて呟いた。
「どうしてくれるんだよ、俺はめちゃくちゃその気だったのに」
「何が何でも一軍ゲットして、半年で戻って来られるように、頑張るから」
 斉木は、自分を抱き締める腕に、手を重ねた。
「俺も、お前と一緒にいたいと、思うから」
 それは、斉木の本音だった。
 が、言った途端に斉木は耳まで赤くなる。
「斉木さん…」
 芹沢が呟く。芹沢の腕も熱い。
 だが、
「もういいだろ、離せよっ」
 と、不自由な手で、斉木は芹沢の腕を引き剥がしにかかった。
 もちろん、照れているがための行動だ。
 そして、それに気がつかぬ芹沢ではない。
 にやり、と、猫科の肉食獣の笑顔を浮かべて、
「嫌だね」
 楽しげな声で告げて、抱きかかえていた斉木の体を、そのままローソファの上に組み敷いた。
「げっ」
 芹沢と上下が逆転した斉木は、うつ伏せに組み伏せられた格好になる。
 この体勢に持ち込まれたら逃げ道はない。
 腕立て伏せの要領で体を持ち上げようと足掻いたが、あえなく潰される。
 190センチを越えている芹沢は、斉木にとってもかなり重い。
「ムリムリ。諦めなさいよ、分ってるでしょ」
「芹沢! や、やめっ」
 ペラリ、と、シャツを捲り上げられて、背骨の上を指で辿られ、体が跳ねた。
 斉木は、悲鳴を飲み込み、ソファに顔を伏せる。
 そうして無防備になったうなじをさか撫でると、斉木の肩がビクビクと震える。
 その様子を見つめて、芹沢の笑みが深くなる。
「それじゃあ来週までに、半年分の穴埋めしてもらいましょうか」
 顔を伏せたままの斉木の耳元に、とんでもないささやきを落とし込んだ。
 その瞬間、斉木は顔を上げて叫ぶ。
「じょ、冗談! 身が持た…んっ」
 が。
 芹沢は問答無用で斉木のあごを引き寄せ、喚く口を唇で塞ぐ。
「ん…ふぅっ」
 上半身を捻って出来たソファとの隙間に、芹沢は手を滑り込ませる。
 最初こそ斉木は抵抗したが、次第に抵抗する力は奪われ、体を支えるだけで一杯一杯になってしまう。
 斉木の悲鳴は、声になる前に全て吸い取られ、消えた。





 芹沢の完勝である――。


























多分、そのはず。
と言うのは、入寮の話ですね。
話としては、「HAPPY BIRTHDAY」の続きですが、ええ、この後もしばらく別居状態のはず。
溜めて爆発するのと、毎日小出しと、どっちがマシなんでしょうねえ(下品)。
一週間で半年分ですか。斉木はどんな目にあわされるんでしょうねえ。
まあ、立てないだろうなあ。この話の時点で、ようやく芹沢二十歳になったばかりだし。ええ。
私には恐ろしくて書けません(笑)。

と言うことで、自爆リクエスト権プレゼント、アヤ様の「加納が出てくる話」でした。
出番もセリフも少ないですが、確実に一番引っ掻き回しました、加納。
加納はどうしても必要最低限のことしか言わないため、いきなりとどめを刺してしまいますね。
この話の加納に、悪気はこれっぽっちもありません。
……かわいそうに、斉木…ほろり。
自業自得だけど(笑)。

この話を書いていて、そろそろ本編を進めないとなー、と言う気にはなりました。
しかし、本編を進めるためには、Jリーガーとしての生活をでっち上げなくてはいけないので、どうしよう。
いきなり要点だけ書くと、3、4年時間が飛んでしまうので、それもどうかと思うと、ついつい筆が鈍ってしまうのです。
現実とのつじつま合わせが、一番大変な作業ですね、こういう話は(苦笑)。

それでは、今回はこの辺で。

夕日







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