オフのお仕事 ――11月――
――今日、何かあったっけ?
風呂上りの斉木は食卓を見つめて首を傾げた。
アイロンの効いた青いランチョンマットの上には白い皿、その上にはメカジキのソテーがそれぞれ二枚盛り付けられている。
テーブル中央にはたっぷりの蒸し鶏のサラダ、レタスやきゅうりの緑に櫛型に切ったトマトの彩りも美しい。
その隣には、キムチ豆腐が並んでいる。
手元には、さっぱりとした酢の物。
箸は箸置きと共にセッティングされ、ミネラルウォーターはわざわざワインの空き瓶に移し替えられている。
確か斉木が風呂に入った時には何もなかったはずの食卓が、どこぞのカフェかと言う風情に変貌していた。
無論、芹沢の仕業だと言うことは分かっている。
元々完璧主義のきらいがある上、困ったことにやって出来ないことはほとんどない芹沢は料理も上手いし、その盛り付けにもこだわりを持っている。
斉木も料理はするが、いわゆる男の手料理である。
量と栄養さえ確保出来ていれば、後は食えれば問題ないタイプだ。
そんな斉木は一度、水切りボールのままサラダを出そうとして芹沢にこっぴどく怒られたことがある。
斉木にしてみれば、洗い物が一つ減るぐらいの軽い気持ちだったのだが、芹沢の美意識を見事に逆撫でしたらしい。
「栄養さえ取れればいいならサプリメントでいいんですよ。そうじゃないんだから。食事は毎日のことだからこそ、楽しまないと続かないでしょ」
と、こんこんと説教され、以来、芹沢がいる時は調理した鍋やフライパンのまま出すことは自重している。
斉木一人の時は相変わらず水切りボールのままだが。
しかし、完璧主義者の芹沢とて、ここまで完璧に整えることはそうそうない。
箸置きとランチョンマットは普通だが、ワインの空き瓶まで持ち出してくるのは、何かある時だけだ。
どちらかの誕生日とか、何かの記念のお祝いとか。
今日はどちらの誕生日でもなく、斉木自身には祝い事の心当たりはない。
だから真面目に考える。
芹沢の祝い事なら、気がつかないでいると後でひどい目に合わされるからだ。
美しく整った食卓を前に、腕組みをし、首を傾げる眉間には知らず縦皺が刻まれる。
傍目ではある意味滑稽な図であるが、斉木は至極真面目に、本気で考え込む。
あまりにも深刻に考え込む斉木は、背後の気配にすら気がつかない。
「ああ、もう上がったんですか」
「わっ」
斉木にとっては突然の声に、とっさに半身を引く。
その視界の中で、芹沢は少し不思議そうな視線を斉木に向けているが、それだけだ。
「どうかしましたか?」
「急に声かけるなよ」
「さっきから声かけても返事しないから来たのに」
考えた内容もあいまって斉木は本気で腰が引けているが、だが、芹沢は深く追求はしないかった。
「座ってて下さい、今、ご飯とみそ汁持って来ますから」
と、芹沢はキッチンに引き返し、すぐにご飯とみそ汁を持って現れる。
これだけ整った食卓で、ご飯だけ丼飯なのはご愛嬌だ。
体育会系の男二人、体脂肪を付けられないサッカー選手とは言え、食べる量は大体一般人の倍ぐらいになる。
それだけの量を毎日毎食作るのはなかなか大変なことだ。
「いただきます」
食事を始めてしばらくは互いに無言だ。
斉木の場合、口の中に物を入れて喋るなと言う両親の教育の賜物だが、その辺の事情は芹沢もあまり変わらないらしく、食卓が無言になってしまうことでトラブルになったことはない。
とは言え、普通に口をつく。
「美味い」
呟きつつ、箸も口も止めない斉木へ、芹沢は微笑む。
「ありがとうございます。斉木さんは食べっぷりがいいから、俺も作り甲斐がありますよ」
嬉しそうににっこり笑って答える芹沢に、他意はなさそうに見える。
しかし、食事が終わった後に丁寧に皮を剥いたグレープフルーツのヨーグルトがけが出てくるに至って、斉木は白旗を上げた。
「あー、今日って何かあったっけ?」
「え?」
すると、芹沢は一瞬キョトンとして、すぐに声を立てて笑い出した。
「もしかして、心配してました?」
「さすがにお前も、何でもないのにここまでしないじゃん」
どうやら本当に何でもなかったらしいことに気がついた斉木は、無駄に悩んだ腹立ちと、その悩みから開放された安堵をグレープフルーツにぶつける。
一気に自分の分を食べ終えて、まだ手を付けていなかった芹沢の分まで手を伸ばす。
芹沢は、自分のグレープフルーツの皿を斉木の方に押しやりながら種明かしをした。
「何もないって言うか、ただの予行演習です」
「予行?」
芹沢の分のグレープフルーツを食べながら、斉木はいぶかしげな視線を芹沢に向ける。
「その反応ってことは、斉木さんのところは斉木さんじゃないんですね。それは良かった」
「何言ってるんだ」
「別に隠すつもりはなかったんですけど」
と、芹沢が話し始める。
「このオフにJリーグの宣伝の一環として、Jリーグ提供でミニ番組を作るんですって。ターゲットはJを見ていない人、特にF1F2層なんで、各クラブで生贄になった選手にサッカー以外の隠し芸を披露しろと」
「隠し芸」
「サッカーに興味がない人が、その選手に興味を持ちそうなプライベートの趣味って言われたんですけど、まあ、それって要するに隠し芸ですよね。それでうちは俺にお鉢が回って来てしまって、仕方ないから料理でもしようかなと」
「そりゃまあそうだろうな」
女性に好まれる選手と言ったら、リーグ全体を見渡しても、芹沢は外せないだろう。
と。
「あ」
斉木は思い当って声を上げた。
「何か?」
「今日、内海が超不機嫌だったのは、それか」
思い至って斉木はぽんと手を叩いた。
「事務所に呼ばれた後、寄るな触るな聞くなオーラが凄かったからそのまま放っておいたんだけど、それが理由か」
「それは…内海さんなら荒れるでしょうね。まあ、その気持ちは分かりますけど」
目の前で肩を竦める芹沢と、脳裏に浮かぶ不機嫌オーラ全開の内海に、斉木も同情の念を禁じえない。
「モテる男は大変だな、いろいろと」
苦笑を閃かせる斉木を前に芹沢は大仰にため息を吐いて見せる。
「何それ、嫌味くさい」
斉木の声はドスが聞いてなかなか迫力があったが、気がつくようにやっている芹沢が恐れ入るはずもない。
「そりゃあねえ、嫌味も言いたくなりますって。相変わらず自覚ないんですもん」
「何だよ自覚って。お前や内海よりモテない自覚はそりゃあるが」
「それが自覚ないって話。老若男女関わらずたらすくせに」
「人聞き悪いな、俺がいつ…」
と、いつものやりとりである。
芹沢は、目の前で吠える様をかわいいと思う一方で、斉木は自覚がなさすぎるといつものように思う。
何しろ、我ながらどうしようもないほど飽きっぽい性分だと自覚していた芹沢さえもたらしこんだと言うのに。
自分さえたらしこんだ斉木がその気になって、たらしこめない人間等この世にいるのだろうかと考える。
とは言え、斉木に自覚を持たれたらそれはそれで困るかも知れないとも思う。
サッカー選手としてはともかく、プライベートの斉木の魅力など、自分だけが知っていればいいことだ。
「まあ、Jに見る目がなくて何よりです」
それは芹沢の本音だ。斉木の顔に『何言ってんだこいつ』と書いてあるが構いはしない。
「俺とか内海さんとか、その辺の人選だと、後は姫野さんとかですかね」
「それだと凄く分かりやすいな」
美形で女性にモテることにかけては昔から芹沢と遜色ない男だ。
そこまで徹底するなら、どちらかと言えば保守的なリーグ運営事務局としてはある意味天晴れではあろう。
「内海さん、何やるんですかね」
誰かと被ったら、先に言ったもん勝ちだって言われたから、その場で料理って言っちゃったんですけど、と、芹沢は言う。
「さあ、何だろ。海釣りは好きだけど、そういう視聴者層に受ける趣味なのかな」
と、首を傾げる斉木の答えは実に心許ない。
芹沢がそこを突付くと、
「いい年した友達のテレビの取材に答えられるレベルの趣味なんて、俺でも分かんないよ」
と、斉木は苦笑する。
オフの度に自室にこもってジグソーパズル三昧と言う選手もいるが、この企画の趣旨からしたら大外れだろう。
だからこそ、芹沢も料理を上げたのだ。
料理が出来る男って、結構女受けいいんですよね、と、芹沢はさらっと言う。
「女性は見に行くと決めて一人でスタに来ることは少ないですからね。その程度の人柱にはなりますよ」
女性が行くとなったら、夫や彼氏や子供、もしくは友達グループで来ることの方が遥かに多いだろう。
いかにも広告会社が提案しそうなネタではある。
「で、撮影明日なんですけど、斉木さんも来ます?」
「え、何で俺が」
「でも、明日オフで特に用事ないでしょ」
「いやだからそれとこれと何の関係が」
「いいじゃないですか、俺、オフ潰してJのために働くんだからご褒美下さいよ」
芹沢は勝手に話を進める。
「都内の料理教室で撮影なんで、終わったら食事に行きましょう。たまには悪くないですよね」
と、斉木は言うが、聞いていたらデートも出来ないのは分かっているので、芹沢は馬耳東風に聞き流す。
「じゃ、明日は十時に出ますからよろしくお願いしますね」
「だから俺の意見を聞けよ…」
芹沢はにっこり笑顔で告げられて、斉木はたまにじゃなくて、いつものことだろうと言う突っ込みをする気力も失ってテーブルになついた。
芹沢の撮影に着いて行って、事実上オフが潰れたその翌日のこと。
練習の合間に設けられた休息中に、斉木が内海に話を振った。
「内海、あの何かJの企画の番組に出るの?」
言った途端、それまで普通の練習モードだった内海の気配が激変した。
「斉木、それ誰から聞いた?」
地の底から湧き出るような声に、斉木は反射的に首を横に振った。
「誰からも聞いてないよっ。ただ、芹沢も出るし、趣旨から言って内海とか姫野とか当確だろって話になって」
「あー、そういうことかよ」
内海は苦虫を噛み潰したような顔をして、ばりばりと頭をかく。
「あんま勘が良すぎんのも考えもんだな」
「いや、これ、勘とかそういう話じゃないから」
ケッと吐き出す内海に、斉木は顔の前で手を振る。
内海を見た目で王子様のように崇め奉る女性ファンが見たら百年の恋も冷めそうな光景ではあるが、内海と斉木にとっては実に日常的なやり取りである。
「俺は斉木を推薦したんだがな、どうしても俺じゃないと駄目なんだと」
「そりゃまそうだろう。テレビ映りじゃ内海にはとても敵わんよ」
「そんなことはねえと思うがな、ほれ、馬子にも衣装って言うじゃん?」
「内海……それ、褒めてないぞ」
無自覚にひどい言い様の内海に斉木はこめかみを押さえて話を元に戻した。
「で、内海は何やるの?芹沢は料理って言ってた」
「最初は海釣りって言ったんだけどな、野外ロケをする予算はないと却下された。その時点でもう一度断ったんだがなあ」
生まれも育ちも清水っ子の内海の釣りの腕前はかなりのもので、斉木をはじめとするチームメイト達は大分御相伴に与っている。
その時の会話を思い出してしまったのか、不機嫌オーラが増大する気配を感じ、斉木は話を進める。
「で、結局何にしたの」
「書道」
「ああ、内海は昔から字上手かったよな」
言われてみれば、確かに内海は子供の頃から書道展等で何回も賞を貰っている。
とは言え、あまり体育会から想像出来る趣味でもない。
「意外性って意味でもいいんじゃない?」
「まあ、俺の場合、どっちかって言うと字を書くより、墨を磨るのが好きなだけなんだけどな」
「へ?」
「あの独特の匂いが最高なんだよ。結構いい墨を用意してくれるって言うから最終的にOKしたんだ」
と、墨について熱く語る幼馴染を、斉木は初めて見る生物のような目で見る。
内海と書道の話など初めてしたのだから、実際初めて見る姿なのだが、墨の素材で匂いが違うとか言われても斉木は話について行けないで、挙動不審になる。
どうやって話を打ち切ったらいいのだろうかと斉木が真剣に悩み始めたその時に、コーチが練習再開を告げる。
「コーチが呼んでる。早く行かないと」
「あ、ああ。いいところで切れたな。後でじっくり語ってやる」
と、本気の目をして言う内海に、斉木はどうやって逃げようかと考える。
薮蛇、と言う言葉が脳裏にちらつく。
あるいは、後悔先に立たず。
そんな一日であった。
相変わらずイベントで配布していた本の再録です。
2010年夏コミ用だったのでまだ記憶も生々しく、言い訳させて下さい。
2010年2月にJリーグが作成した『蹴者(けんじゃ)のHeart』と言うミニ番組が地上波で放映されていたのですが、そもそも全国ネットでもなかったし、気がついてない方も結構いらっしゃるかと思います。
個人的には、番組タイトルで震え上がっていたのですが。
とにかくその番組の第一弾が当時川崎フロンターレ所属の川島選手で、これは使えるとネタにメモっていました。
その収録が前年の11月だったそうで、表に出てくるまでには時間がかかるという話。
しかし結構忘れられているから通じないかも、とか、思っていたら、南アW杯の大ブレークで、朝っぱらからニュース映像に使い回されて、お茶吹いたのも今やいい思い出。
ちなみに、メニューは改変しております。
四十分で七品作ってました、川島選手は。
今回は、当初考えていたところでオチずに、改変したら、どんどん芹沢×斉木と言うか、芹沢+斉木になりつつある現実。
自分でも反省しております。
夕日(2010.12.30再録)