暁に捧ぐ






 サッカー選手としてのキャリアを、海外で終えると言う選択肢はあった。
 だが、36歳になるシーズン、芹沢は日本に帰って来た。
 金だろう、と、聞こえよがしに陰口を叩く連中もいたが、そんな雑音如きに左右されないのは今も昔も変わらない。
 そして、そんな下司の勘繰りはすぐに消えた。
 芹沢が、大枚を積んだビッグクラブではなく、かつて日本を離れる直前まで所属していたチームへの復帰を選択したからだ。



 芹沢が世界を渡り歩いている間に、長い年月が経過していた。



 かつての所属とは言え、それは芹沢が共に歩んだチームとは全く違うチームだった。
 首脳陣は一変し、現役選手の中に当時を知る者はもうほとんどいない。
 当時の選手達の一部はスタッフやフロントへ転身した者もあるが、ほとんどがチームを離れ、サッカー界からさえ離れた者も少なくない。
 それは、チーム内だけに限ったことではない。
 『黄金世代』と呼ばれた芹沢と同年代の選手達の多くが、既に現役を終えて第二の人生を踏み出している。
 今はどのクラブも、ほとんどが世代交代を果たしていた。
 その上、J1に定着はしたものの、中堅レベルから抜け出せていないこのチームは、相変わらず潤沢な資金に恵まれているとは言えず、結果として所属選手の平均年齢はかなり若い。
 そんな状況の中、大ベテランの域に入ってきた芹沢の居場所はないかと思われた。
 一体、誰が最初に芹沢を魔術師と呼んだのだろう。
 今となっては知るよしもないが、先見の明を誇ってもいいだろう。
 若さを失って尚、いや、若さを失ったからこそかもしれない。
 魔術師と言う二つ名が、大げさでもなんでもないのだと皆、思い知らされた。
 確かにかつてのスピードはない。
 だが、磨き上げたテクニックと、高さは健在だった。
 針の穴を通すようなボールコントロールと、群を抜く長身と天性のバネ。
 そして若さとスピードを失った代わりに、今はキャリアがあった。
 それらを駆使し戦う芹沢は、あっと言う間に若いチームの中心になり、低迷していた順位を引き上げた。
 しかし翌シーズンから、芹沢はサブに回る。
 強いバネで高く跳ぶ芹沢の長身を支える膝は、長年蓄積してきた衝撃でもはやボロボロだったのだ。
 普通であれば走ることも難しいのだと、医者には言われた。
 それでも、空中戦ではけして負けなかった。
 敵ばかりではなく、チームの若手も、芹沢に天狗になりかけた鼻を挫かれた。
 まるで衰えなど知らぬような高角度からの豪快なヘッドを抑えられる者はいなかったのだ。
 そうして、芹沢は試合に出れば必ず得点する。
 いつしか芹沢が出た試合は負けないと言うジンクスを生むほどに。
 常に辛口で知られる解説者が、TVの解説中に苦笑しながら言ったものだ。
「そりゃあ、この高さがあったら監督も使いたいよね」
 芹沢は、自分の役割を常に理解し、完璧にこなして見せた。





 だが、いつか限界はやってくる――





 翌シーズンも、芹沢はサブとして迎えた。
「お前は余力があるうちにかっこつけて引退するもんだと思ってたんだがな」
 芹沢がチームメイト達とは別メニューの筋トレを行っていると、訪れた内海が言った。
 内海は今、サッカー解説者として活動している。
 歯切れのいい解説に加えて、どこかに年を置き忘れてきたような顔立ちは女性ファンの支持が高く、TVでレギュラー番組さえも持っている売れっ子だ。
「なけなしの根性振り絞りやがって」
「内海さんこそ。その口の悪さがバレないほどの猫ってのは、どれぐらいでかいんですか」
 お互い気心は知れた仲だ。
 芹沢は筋トレは止めないまま、挨拶代わりの軽口を叩き、続けた。
「まあ、俺も好きな人にいいかっこして見せたいですからね」
「けっ、その根性に免じて今の話はオフレコにしてやらあ」
 内海らしい言い回しに、芹沢は笑った。
「今更俺のことなんか記事にしたって通んないでしょ」
 途端、内海は顔をしかめた。
「日本は移り気過ぎるんだよ」
 早熟な天才を奉りたがる日本人の気質は、今もあまり変わりない。
 いや、むしろその傾向は強まっている。
 かつては世間を席巻した芹沢も、今はマスコミの話題に上ることはほとんどない。
 実際、内海は雑誌の発注に従って、このチームからU−20に選出された選手の取材に訪れたのだ。
 確かに新しい才能が出てこなければ、日本サッカー界は衰退していくばかりだ。
 だが、若き天才ばかりでは成り立たないことを誰よりも知っている内海にしてみれば、苦々しい事態だった。
「大体、才能だけで言ったらお前より才能のある日本人の選手なんて見たことねえよ」
 神谷がやっといい勝負か、と、内海は言った。
 剛柔の才能を最高レベルで兼ね備えた選手など、世界レベルでもそうはいないのは事実である。
 口調の荒さに隠して後輩を気遣う内海に、芹沢は筋トレを止めて頭を下げた。
「ありがとうございます。内海さんにそう言ってもらえると嬉しいですよ――それでも俺は年を取り過ぎました」
 その言い回しに、内海の眉が跳ね上がった。
 芹沢は構わず語を継ぐ。
「この間クラブに申し入れました。俺は、今期限りで引退します」
「芹沢…」
 まるで単なる世間話のような口ぶりで告げる芹沢に、内海は肩を竦めた。
「仕方ねえな。もう38だっけ」
「まだ37ですよ。俺は早生まれですからね」
「プロ入りして20年か。やむをえねえな」
 内海は溜め息と共に呟く。
 それだけの時間が経てば、それは彼らの息子であってもおかしくないような世代が台頭してくるはずだ。
「辞めた後は決まってんのか?」
 お前が解説者になるなら、それこそ俺が解説者引退すんだけど、と、内海が言うと、
「いえ、全然。とにかく膝の状態が悪すぎるんで、1年は完全休養しろって医者に言われてるんです」
 芹沢は、膝をさすりながら言った。
 その表情は透明で、だからこそ相当状態が悪いのだと分かる。
「むしろこんだけ続けられる根性があったとは本気で驚きだ」
 重苦しい空気を叩き壊すように憎まれ口を叩く内海へ、芹沢はにやりと笑いかけた。
「ちなみに、クラブ関係者以外に言うのは初めてですから。信頼してますよ、内海先輩」
「こんな時ばっか先輩呼ばわりするんじゃねえ」
 吐き捨てて、内海はトレーニングルームのドアノブに手をかけた。
「クラブへインタビューの申し込みしてから帰るわ。また来るから準備しとけよ」
「楽しみにしてます」
 適当に手を振って、内海はトレーニングルームを出て行った。
 時の流れの中で変わったものは沢山ある。
 だが、変わらないものもあった。
 変わらないものに触れて、芹沢はほっと安堵の息を吐いた。



 芹沢の引退は、世間的には小さな扱いだったが、サッカー界では大きなニュースになった。
 現在すでにスタメンから遠ざかっているとは言え、『黄金世代』最後の一人である芹沢の引退は、時代転換の完了を告げる象徴だった。



 そして、最後の天皇杯。
 敗退の瞬間が、芹沢の現役期間のピリオドになる。
 少しでも長く芹沢に現役であって欲しいとチームは粘った。
 だが、ホームで迎えた準決勝で、チームは力尽きた。
 芹沢が出場していたにも関わらず――
 ボロボロの翼では、もうこれ以上、跳べなかった。
 魔法が解ける時が来たのだ。
 とうとうなのか、ようやくなのか、芹沢にも分からなかった。
 長いホイッスルを聞いて、芹沢は天を仰ぐ。
 冬の鈍い青色をした空が広がっていた。
 見下ろせば、刈り込まれ、よく手入れされた緑の芝。
 この芝の上を選手として走ることは、もう二度とない。
 芹沢はけして忘れない。
 サッカー選手としてピッチに立った日々を。
 若い選手達が駆け寄ってくる。
 泣いている選手の頭を軽く叩いて整列するように促す。
 礼の後、もう一度チームメイトに取り囲まれた。
 胴上げをされて宙に舞う。
 アウェイの選手達もまだピッチに残っていた。
 最後のユニフォーム交換は、争奪戦になった。
 その様子に、芹沢は屈託のない笑みを浮かべ、
「じゃあな」
 と、誰ともなく告げて、踵を返した。
 ロッカールームへ向かおうと顔をあげると、ベンチコートを手にしたその姿が目に飛び込んで来る。
 芹沢は、勤めて平静を装って、そちらへと歩を進める。
「芹沢、お疲れ」
 そう言いながら、ユニフォームを脱いだ芹沢の肩へ斉木がベンチコートをかけた。
 斉木は、芹沢が日本へ復帰する前に現役を終え、今はコーチとなっていた。
 人生を刻んだ目元に、穏やかな笑みを湛えている。
 斉木は年を取った。
 そして自分も。
 斉木が、右手を差し出した。
 握手を求められているのだとは分かっていたが、芹沢は右手を上げられなかった。
 自分は、この人の隣に立つにふさわしく戦い抜けただろうか。
 ピッチに立てばいつでも全力で戦っていたつもりだったが、ふと、不安にかられたのだ。
 しかしそれは杞憂に終わった。
「迎えに来た」
 そう、芹沢にしか聞こえない声で、斉木が囁く。
 その瞬間、堰を切ったように涙がこぼれ、芹沢は斉木に抱きつく。
 芹沢に言葉はなかった。
「よく頑張ったな」
 号泣する芹沢を斉木は抱き返して、頭を撫でた。





 彼等の長い旅路はひとまず終わりを迎えた。
 そして、また新たな暁を迎えるのだ。















上手くお伝え出来ているのか自信は全くありませんが、個人的に萌を詰め込んだ話です。
昔は引退を書くなら斉木さんかな、と、思っていたのですが、あえて芹沢で。
37歳の芹沢は全く想像出来ませんが。
一応、本編設定で言うと、2005年からしても8年ぐらい先の話ですしね。
その上、あまりサッカー選手の引退事情には詳しくないので、芹の描写は元鹿の長谷川さんの選手としての晩年をほぼトレースしております。
好きだったんだ、『ツインタワー』。
後、作中の斉木と内海はもう40の大台に乗っていると言うのも個人的にポイントです。
他にも細かいポイントはあるのですが、書き手の萌が上手いこと芹斉にマッチしてればいいなと思います。



夕日(2005.08.07)

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