REAL











 その日、斉木誠は疲れていた。
 キャプテンなどやっていると、練習以外の雑用は逃れえぬ宿命である。
 そしてこの日は今年度の予算配分で、休日も練習も返上して、けんけんごうごうやって来た。
 サッカーは野球のように異常に道具代のかかるスポーツではないし、大学リーグでも名を知られている分、他の部よりもかなり優遇措置を受けているとは言え、遠征費だとか何だとか、毎年毎年赤字になってしまう。
 最初に取れるだけの予算を確保しておかなければ、予備費でまかなうために頭を下げる回数が増えてしまうのだ。
 そんな訳で、生来の大声を下手すれば練習の時よりも張り上げて、他の部の大ブーイングの嵐をはねのけて、何とか最大予算を確保した。

 おかげさまで、斉木は疲れ切っていた。

 そうでなくても最近、思い悩んで斉木は疲れていたから。

 けれど、今日は土曜日。
 『お迎え』のある日である。
 しかも、確か今日はデーゲームで、いつもよりお迎えの時間も早いはずだ。
 会えば何をするかは、まあ、決まっていて。
 それを若さと言うのか、試合後で疲れているはずなのに、アイツは限度というものを知らない。
 いや、斉木だって充分に若いのだが、芹沢には負けると思う。
 時間制限がなければ、アイツ――芹沢は一生だって離してくれないような気がする。

 ………本当に?

 斉木は思いきり頭を横に振った。このままでは、また迷路に入り込んでしまう。
 口元に、皮肉な笑みが広がる。
 自分はいつも迷ってばかりだ。
 必死で隠しているけれど。
 何もかも、上手に消化しているフリをして。

 だって、悟られてしまったら…。

 斉木は、続く言葉を必死で飲み込む。
 今みたいに、精神的に疲れている時は、どうしても心の鎧がほころびる。
 ほころびから、ドス黒いものが溢れ出す。
 だから、会いたくなかった。
 芹沢はいつもまっすぐな眼差しで、斉木を見るから。
 斉木が隠している、汚い部分まで見透かされてしまいそうで、怖い。
 見透かした後に、芹沢がどう思うのかが、怖い。

 ――今日は、会いたくない。

 結論は出た。
 拳を握り締め、斉木は正門に向かっていた体を180度反転させて、裏門に向かう。
 芹沢は、必ず正門前に車を止めている。それが一番目立つからだ。
 二人の関係について、斉木は目立つことを極端に嫌がっているから、早くその目立つ車を人目から消したくて、必ず正門へ出向いていた。
 芹沢は、斉木が来るまでいつまでだって待っていると言っていた。
 だから裏門へ回ってしまえば、見つからずに出て行けるはずだ。
 いくら天才だろうが何だろうが、分身の術は使えない。
 そうと決まれば善は急げ。
 斉木は逃げるように大学を後にした。



 斉木の住むアパートは、大学からそう遠くない学生街の中にある、鉄骨2階建てのモルタル造りのアパートだ。
 それなりに古くても2DKと割と広い部屋を借りたのは、何しろ住人がデカイからである。
「さてと…」
 風呂から上がって寝巻き兼用のスエットに着替えた斉木は、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出して、ローテーブル代わりにしているこたつに座る。
 テレビをつけると、まだ野球の結果を伝えていた。
 Jが始まった頃は野球を席巻せんばかりの勢いだったか、やはりと言うか何と言うか、ブームと言うものは脆いもので、今ではやはり野球が一番人気である。
 斉木にして見れば、あまり面白い話ではない。自分がサッカーを好きなのはもちろんだが、自分の知人達がJの中心選手になりつつあり、彼らが目一杯の努力をしていることを知っているから、尚のこと。
 神谷や加納や岩上ら、天才と呼ばれる彼らはしかしだが、相当の努力をして、今の地位を築き上げているのだ。それは、世間はもちろん、サッカー界でさえ無視しがちな事実であったけれども。
「いくら才能があったって、磨かなきゃな」
 呟いた途端、斉木の脳裏に最後の選手権を思い出した。
 高校最後の公式戦で、掛北は芹沢一人にズタズタにされ、斉木の全国への夢は潰えた。
 けれど、斉木も一部の隙もなさそうに見えた、芹沢の欠点を一回で見抜いた。
 それは、チームを率いていた内海でさえ気がつかない、天才がゆえの致命的な欠陥だった。
 スタミナ――それは汗を流す練習によってしか手に入れられないものである。
 芹沢は、掛高との試合でそれを悟り、克服し、Jリーグ、そして日本代表の不動のFWの座を手に入れたのだ。
 今の芹沢の人気は、もちろんルックスやその言動もあろうが、最終的には、芹沢自身の努力に帰するものなのだ。

 斉木が、缶ビールを半分飲んだ頃に、ようやくサッカーの試合結果が始まった。
「芹沢は、勝ったか」
 缶ビールを飲みながら、斉木は呟く。
「まあ、当たり前だな」
 芹沢のチームには神谷もいる。日本代表の司令塔とFWが揃っているのだ。他のチームからしてみれば、はっきり言って反則ものだ。
 もっとも、一人二人のタレントだけで勝ててしまうプロリーグと言うのは考えものだと思うし、それが人気低下の最大の原因だと、斉木は思う。
 ただ、サッカーをしているだけでは、人の目を引きつけることは出来ない。
 だが、それが現実である。

 それでも、芹沢のチームの実力と人気は一つ頭が抜けている感がある。
 普通のニュースのスポーツコーナーのため、サッカーに割かれる時間は少ない。だから試合のハイライトは1、2試合しか放送されないが、芹沢のチームは必ずと言っていいほど放送される。
 今も、芹沢が上げた決勝点が映っている。
 DFを二人かわしての、完璧なプレイだった。
「すげえよなあ」
 日本人としては規格外の長身のくせに、素早く、トリッキーな動きに敵のDFは全くついていけない。
 まさに、たてがみをなびかせて走る若獅子のようだ。
 芹沢に狙われたゴールは、おとなしく食われるのを待つしかない。しかもその芹沢に最終パスを出すのは、あの神谷なのだ。
 もしも、自分が芹沢の対戦チームにいるとしたら、多分、引き分け狙いで守りを固めるだろう。勝ちにはいけない。そんなこと、トーナメントならともかくリーグ戦では恐ろしくてとても出来ない。攻めようとした途端、出来た隙をボロボロにされるのがオチだ。

 神谷はすでに海外移籍を経験している。
 そして多分、芹沢も、そう遠くないうちに海外へ移籍することになるだろう。
 才能、テクニック、体格、どれをとっても外人選手に見劣りすることもない。
 あえて難をつけるなら気力だろうか。日本と言う狭い世界だけでプレイして、井の中の蛙になってしまうのが一番問題だ。
 芹沢は、いつまでも日本にいてはいけない選手なのだ。日本がいくら強くなったなどと言っても、しょせん世界から見れば後進国だ。ヨーロッパ、南米と比べて、肩を並べられるようなレベルではない。

 けれど。

 斉木は缶ビールが終わってしまったことに気づき、新しい缶を冷蔵庫から取ってくる。戻って来た時には、サッカーコーナーは終わっていた。
 斉木はつまらなそうな顔をしてテレビを消し、新しい缶のプルタブを開ける。
 プシュッ、と、軽快な音が斉木の耳を打つ。しかし、斉木の口から漏れた声は、どうしようもなく暗かった。
「俺、アイツと並べんのかな…」
 斉木は呟いて、缶ビールをあおる。
 分かってしまうのだ、斉木は。
 斉木も、そこそこの才能が備わっていたから。

 芹沢と、自分の差を。

 斉木は知っている。自分には、芹沢ほどの才能がないのだと。
 実はすでに、Jのいくつかのチームから、斉木は非公式に接触されている。
 現在大学リーグで勇名を馳せ、ユニバ代表にも名を連ねているのだから当然と言えば当然だ。はっきり言って、斉木や内海は今年の目玉選手だ。
 だがしかし、その事実が、斉木の心を曇らせている最大の原因だった。
 今のところ、斉木自身が乗り気になる接触はない。それは魅力的な話がない訳ではなくて、多分、斉木が自分に自信が持てないせいだ。
 分かってしまうのだ、見ているだけでも。
 それなのに、あれだけそばにいるのだ。
 差を、嫌がおうにも思い知らされてしまう。
 自信など、持てるはずもない。
 悔しいことに斉木には、彼我の実力差を読み取れる程度の才能は備わっていたから。
 いろんなことが見えるだけ見えてしまうから、迷う。
 出口がない迷路を歩き続けているようなものだ。才能と言うものは、最初から決まっているのだから。
 努力で埋められるものなら努力を厭いはしないが、天才と同じだけの努力では、秀才は敵わないのだ。

 いっそ、そんな半端な才能なら、最初からなければよかったとさえ、思うこともある。

 芹沢は、サッカー選手としても、斉木を信頼してくれている。
 それは、斉木のアドバイスをかなり聞き入れててるところを見ても、間違いないだろう。
 けれど、プロに入って、斉木との実力の差を知ってしまったら、芹沢はどんな顔をするのだろう。

 …何て、思うのだろう。

 斉木が、芹沢に大きく劣るのだと知ってしまったら。
 そのくせ偉そうな顔をして、『アドバイス』なんかしていたのだと知ったら。
 思わず、斉木はビールをあおった。
 正直、考えるのも恐ろしい事態だった。

 芹沢に見捨てられてしまったら、どうしていいのか分からない。

 すでに芹沢は、斉木の中で大きくなりすぎている。
 どんなに迷惑そうな顔をしてみたり、傍若無人な態度に文句をつけてみても、本当は芹沢と共にあることがうれしいのだ。
 斉木はすぐに、迷うから。迷わない芹沢の気質が、斉木の心を休ませる。
 だが、抱かれているその時さえ、斉木は不安でたまらない。
 いつか、芹沢が離れて行くのではないかと。
 いや、体の奥深くを許し、誰よりもそばにいるからこそ、斉木は奥底に沈めた恐れが、いつか芹沢に知られてしまうのではないかと。
 斉木の心の底には、不安や恐れだけではなく、憧れも通り越えた妬みや、嫉みが渦巻いているから。
 斉木の中にわだかまる、暗い澱を見てしまったら……どう、するのだろう。
 芹沢は、全てを手に入れられる人間だ。
 何だって手に入れられる。地位も名誉も、女も、望めば多分、男でも。
 芹沢が斉木にこだわる理由は、芹沢の気持ちだけなのだ。
 伊達でも酔狂でもないと、芹沢は言った。
 けれど、人の心は永遠ではありえない。
 だから、斉木は必死で心を隠す。肌を重ね、体を繋いでも尚、自分の一番汚い部分がバレないように。

 芹沢を失うことが、何よりも怖いから。

 斉木は、残っていたビールを全て飲み干した。もう味など分からない。
 そしてまた、新しい缶を取りに行く。冷蔵庫をのぞくと、最後の一本だった。買い置きの缶ビールをごっそり冷蔵庫に詰め込む。今日は飲んで寝てしまおう。
 そう、決めた。
「ちくしょう…」
 斉木は呟く。何に対して悪態をついているのか、分からなかったけれど。



 芹沢は、今日も正門でおとなしく待っていた。
 本当のところを言えば、練習も見ていたいところであるが、プロ選手に見られているのは迷惑だと斉木に拒否され、以来おとなしく正門で待つことにしている。
 まあ、確かに、斉木の言うことはもっともで。斉木が気づいているかは分からないが、芹沢は斉木の言葉に、大概は逆らえない。
「遅い、な…」

 本当であれば、土曜の今日は練習はとっくに終わっているはずなのに、斉木はいつまで経っても出て来ない。
 今日はデーゲームだったから、試合のビデオを一緒に見てもらうつもりだった。
 斉木のアドバイスが欲しいのだ。
 マスコミにもてはやされ、チーム内で押しも押されぬCFの芹沢に、意見を言おうと言うつわものはおらず――もちろん神谷は全く別の理由で言ってくれないし――、芹沢のサッカーを正面から撃破するのは、斉木ぐらいなものだ。
 それに、斉木の意見は、時にコーチや監督よりも鋭い。
 いくら技術があろうが、その視野の広さ、視点の確かさは、斉木に敵わないと芹沢が常に思う部分である。
 斉木は、
『お前と俺じゃ、まじめにサッカーに取り組んでた期間が違う』
 と、笑うが、それだけではない。
 その視野の持ちようが、斉木の才能なのだろうと、芹沢は思う。

 何しろ、芹沢の鼻っ柱を最初に木っ端微塵にしてくれたのは、他ならぬ斉木である。

 自分で分かっていた。高一の時、スタミナ不足であったことは。
 けれど、テクニックとセンスだけで、どうにかなるものだと思っていたし、事実どうにかなっていた。
 あの内海でさえ、自分の欠陥に気がついていなかったのだ。
 なのに、斉木はたった一度、それも後半の40分だけで、芹沢の欠陥を見抜いた。
 現実に、芹沢の欠陥を白日の下に晒したのは神谷率いる掛川であったが、それを最初に見抜いたのは斉木だったのだ。
 斉木が、見抜かなければ。
 掛川を倒し、藤田東にも勝てたかも、知れない。
 もしもあのまま全国に行っていたら、芹沢はサッカーを舐めきっていただろう。

 今の芹沢は、間違いなく、いない。
 斉木は芹沢の恩人なのだ。
 運命さえ、感じるほどの。

 そのことに気がついたのは、斉木と付き合い始めてからのことだ。
 まあ、それまでだって言葉は交わしていたけれど、それはあくまで表層的なものであって。
 よくよく語り合ってみると、その奥深さに目眩がする。
 斉木のことは何だって分かると言う自信は、かなり早いうちに打ち砕かれた。
 同じ人を追いかけていた相手だったから、きっと自分に似ているのだろうとぼんやりと思っていたのだが、全く違っていた。
 だからこそ、ひかれる。
 全てを知りたいと、思う。
 芹沢は、何も隠しておけないタチだ。
 欲しいものは欲しいし、知りたいことは全部知りたい。
 けれど斉木は、芹沢にはホントの心の深い部分を、まだ開いてくれていない。
 いつだって、大人の顔で、芹沢を踏み込ませない。
 芹沢は、斉木が思うほど、子供ではないのに。
 芹沢は知っている。斉木が、たまに遠い目をしているのを。
 例え抱いていても、ふとした拍子に斉木の視線が遠くを泳ぐ。
 そうなると、芹沢には斉木の心がまるで分からなくなる。
 体の奥深くを暴いても、心までは暴けない。
 何とか心を開かせたくて、思わずやりすぎてしまうこともよくある。
 体は一つになっても、心は一つになれない。
 それが、芹沢には、辛い。
 恋人同士であるはずなのに。
 自分は、斉木の前で何だってさらけ出しているのに。
「くっそ」
 芹沢はハンドルを殴りつけた。ただ待っていると、ろくなことを考えない。
 一人でいると不安でたまらなくなるから、早く抱き締めて、ちゃんと斉木が自分の腕の中にいると確かめたい。
 どこにも行かないのだと、確かめたい。
 いい加減、うつうつと考え込むのに、芹沢は疲れていた。
 有象無象の女にたかられて、サインをねだられるのも面倒くさい。
 考え始めれば、決断は早かった。ただ悩んでいるのは、芹沢の性に合わない。
 芹沢は車を降りて、大学の構内に入り込んだ。

 サッカー部が使っているグランドへ行き、誰もいなかったので、クラブハウスへ行っても、そこにも誰もいなかった。
 どうやら練習はとっくの昔に終わっている様子である。
 となれば、答えは一つ。
「…逃げたな」
 怒髪天をつくとはこのことだ。芹沢は眉間に深いしわを刻み込み、薄い唇を引き結んだ。
 何しろ、整った顔立ちである。
 どんな表情をしようと見栄えはするのだが、怒り狂った表情は、はっきり言って、怖い。
 くるりと踵を返す。
 芹沢は長髪をなびかせて、歩き出す。
 その姿を認めて、悲鳴に近い歓声も上がったりしたのだが、今の芹沢の耳には届かなかった。

 「信じられない」
 芹沢は怒りで唇を震わせた。
 怒り狂った芹沢が最初に向かったのは、斉木のアパートである。
 芹沢は、いるとは思っていなかったのだ。多分、友達の部屋に逃げるとか、それぐらいのことはしているだろうと思っていたが、念のため、軽い気持ちで寄ってみただけなのに。
 何と、斉木の部屋に明かりがついていた。
 そんなことで、逃げ切れるとでも思っているのだろうか、あの人は。
 芹沢は、こめかみの辺りで何かが切れたような気がした。
 ――甘く見られてる。
 そう思った。



 斉木は、こたつでうたたねしていた。
 その周囲には、空になったビールの缶が散乱している。
 いくら飲んでも酔った気がしなくて、相当な量を一人で飲んでしまった。
 相談できる相手がいないのも、斉木を追い込む一因になっている。

 夢を、見ていた。
 芹沢や神谷や、加納、内海にまで、置いて行かれる悪夢だ。
 かなり、参っていた。

 そんな時に、玄関のチャイムが鳴った。
 半分沈んでいた斉木の意識が浮上してきたが、そのまま無視を決め込んだ。が、せっかちな感じに鳴らされるチャイムは止まらない。
 それでも、斉木は動く気にならなかった。と言うか、動けなかったと言うのが正しい。
 本人、酔った気がしなかっただけで、実際には泥酔状態だった。
 しかし、チャイムを鳴らし続けるその人物は、諦めようとはしなかった。チャイムは駄目だと悟ったか、今度は玄関のドアを手荒くノックする。
 そこに至って、斉木は不機嫌そうに目を開けた。誰だか知らないが、憂さ晴らしに怒鳴りつけてやろうと思い立つ。
 怪しい足取りで、それでも何とか玄関まで到達し、習慣で魚眼レンズをのぞいた時、斉木の顔色が、赤から青に変わった。
 …今一番見たくなかった顔が、そこにあったから。
 しかも、鬼の形相で。長い髪が怒りの炎で揺らめいているようにさえ、見える。
 そして、芹沢が怒っている原因は、自分の行い以外になくて。
 やっぱり居留守を決め込もうと、回れ右をした途端、斉木はこけた。泥酔した体で、普通のスピードで動こうとすれば、当然の帰結である。
「いてっ」
 さすがに、斉木が転ぶと大きな音がした。その上、声まで出していれば世話はない。
 ドアを乱打する音が止まった。諦めてくれたのかと思ったのも一瞬。
「そこにいるのは分かってるんですよっ、とっととここ開けなさい!」
 ドアノブをガチャつかせながら怒鳴られて、斉木は思わず叫んでいた。
「帰れ! 今日は、会いたくない!」

 外にいた芹沢の動きが止まる。
 斉木の言葉が理解できなかった。
 ――何だって? 会いたくない?
 その意味を咀嚼するのに、ゆうに10秒はかかった。
 しかし、理解した途端、手が止まる。心臓を、氷の手で掴まれたような気がした。
「な、何、言ってんですか! 開けて下さい! 誰かいるんですか!?」
 芹沢の声は悲鳴に近かった。けれど、ドアの向こうからは、頑なな言葉が返ってくるだけで。
「いない。誰もいない。誰とも会いたくないんだ、今は。頼むから…帰ってくれ」
 かすかにろれつが回らない雰囲気がある。
 酔っているのか。
 だんだん心配になってくる。
 しかし、ドアは開きそうもない。かと言って、このままおとなしく帰れるはずもない。
 芹沢は、決心して怒鳴った。
 こんな安アパートの玄関なら、自分だったら出来るだろう。
「開けないってんなら、ドア、蹴破りますよ!」

 思いも寄らない言葉に、青くなったのは斉木も同じだ。
 まさか、日本代表FWの黄金の足に、ドアを蹴破らせて怪我をさせる訳にはいかない。怪我なんかさせたら、一体何と言い訳したらいいものやら。
 ついでに芹沢の足ならば、モルタル造りのアパートの玄関など、本当に蹴破れそうなところが何より怖い。
 それでも、決心がつかなかったが、本当にドアを蹴られて、ようやく斉木はドアに向かって叫んだ。
「わ、分かった、今開けるから、待て!」
 このまま放っておけば、警察を呼ばれかねない。
 しかし、酔った手元は、チェーンを外すのに一苦労だ。しかももたもたしていると、外から冷たい声が吹き込まれる。
「言うだけ言って逃げたら、本当に蹴破りますよ」
「焦らせんなよ…」
 斉木は情けない声を出して、何とかチェーンを外した。
 わずかにドアを開けた途端、思い切り引っ張られて、斉木の体が泳ぐ。
 だが、次の瞬間、斉木は広い胸に抱き止められていた。有無を言わせず室内に押し返され、鍵とチェーンがかけられる音を聞く。
 抱き止められたまま、芹沢を見上げるが、その輪郭がぼやけていた。
 瞼が重い。
 芹沢の腕は思いのほか暖かくて、気持ちよくて、ついさっきまであんなに心を占めていた恐怖さえ、跡形もなく融けてしまったようだ。
 今は、何も怖くない。
 芹沢が抱き締めてくれているから。
 まだ今は、その腕を失わずに済むのだと、知ったから。
 ――酔ってるな、俺。
 苦笑しながら、斉木は芹沢に体を預ける。そろそろ、限界だった。
「あんた、何考えて…」
「ワリィ、芹沢。…俺、寝る…」
 芹沢の繰り言を、自覚なく遮って、斉木は呟く。
「斉木さん?」
「お前の腕、気持ちいいから…このまま、寝させ、ろ」
 言うが早いか、斉木は糸の切れた操り人形のように倒れ込む。
 いきなり全体重をかけられた芹沢は、慌てる。
「ちょっと、斉木さん、生きてます!?」
 しかし斉木の返事はない。腕の中を見れば、斉木は子供のような寝顔をさらしている。
「斉木さん!」
 耳元で怒鳴っても、斉木は目を覚まさない。
「全く、寝込みを襲うぞ、んな無防備な顔してると」
 芹沢は憎まれ口を叩いたが、それでも、腕の中の重みは心地よかった。
 腕の中にはいつもの大人の男の顔ではなく、全く無防備な姿がある。斉木がそんな姿を見せるのは、芹沢だけだ。
 その、はずだ。
「いつでも、こんな素直にしててくださいよ、ホントに。ねえ、斉木さん」
 眠る斉木に頬を寄せ、正体のない体を抱き締めて、芹沢は呟いた。



 翌朝、斉木はカーテンの隙間から差し込む光で目を覚ました。
「う…ん」
「目、覚めましたか」
 光を避けて寝返りを打った途端、思いも寄らず声をかけられて動きが止まる。
「どうですか、メシ、食べられそうですか」
 芹沢は、キッチンでガスコンロをいじりながら、話している。そうでなくてもデカイ芹沢が狭いキッチンに立っているから、何だか縮尺が狂ってしまったようで、斉木は目をしばたいた。
 完全に、寝ぼけている。
 だから、口から転げ出したのも、間抜けな言葉で。
「芹沢? 何で…ここに?」
 その言葉に、振り向いた芹沢は、盛大に鼻の上にしわを寄せていた。
「覚えてないんですか?」
「…ワリィ」
 しばらく間を置いて、斉木は言った。
「全然、何にも?」
「あー、一人でビール飲んでたとこまでは覚えてんだけど…」
 ポリポリと頭をかきながら、斉木はセミダブルのパイプベッドから降りようとして、気づく。
 斉木は、何も身につけていなかった。
 まあ、芹沢と会えばいつものことではあるのだが、ここは完全に防音のきいた芹沢のマンションではない。
 隣のテレビの音も筒抜けになる、モルタル造りの安アパートだ。
 事態に気がついて、斉木は跳ね起きた。その途端、激しい頭痛に襲われる。体もだるい。
 それは、深酒のせいだけだろうか。
「待てよ…」
「何してんですか、メシ出来てますよ」
 芹沢は、ちぎったレタスが入ったボールの中に、近くのコンビニで買ってきたプチトマトをのせる。
 まるで何事もなかったかのような顔をしている芹沢に、斉木はタオルケットにくるまったまま、二日酔いの青い顔で尋ねる。
「お前…昨日、何かしたか?」
 自分が何かしたとは、斉木は言わない。
「何、言ってんですか、決まってんでしょ」
 対する芹沢は平然として、即席のサラダとスープを居間のこたつに置く。
「え…」
 実は芹沢は、したともしてないとも言っていないのだが、二日酔いの頭は回らない。
「覚えてないんですか? 斉木さん、あんなに大胆だったくせに。素直で、かわいかったですよ」
 それがとどめだった。
 あいかわらず芹沢は、思わせぶりなことを言っているだけなのに、パニクった斉木は、勝手に誤解する。
「そりゃあ、しましたよ、あーんなことも、こーんなことも」
「ちょ、ちょっと、待て、芹沢…」
「何、いつまでもくるまってんです? 今更隠すような仲じゃないでしょ」
 と、衣装ケースの正面に、芹沢は長い足で器用にあぐらをかいて陣取った。思わず斉木は周囲を見回すが、脱ぎ捨てたのではと思われるスウェットは、影も形もない。
「あ、ついでに洗濯もしといてあげましたから。感謝して下さいね」
「お、お前は…っ」 
 途中で絶句した斉木を見て、芹沢はにやりと笑う。
「いっつもそんな風に素直だと、俺、うれしいんですけどね」
「芹沢、何したんだ、お前!?」
 ちょっとしたいたずらが成功して芹沢は上機嫌である。
 そして斉木も、昨日の鬱が見事に吹き飛んで、ラッキーなのだろう、……多分。 











ううう。すみません。
最初、お笑いの予定だったんですが、何かうつうつ悩んでいるとこだけ妙にシリアスで、非常にバランスが悪く、波風立てる方向でシリアスにかなり書き直しました。
悩んでいる二人…嫌いじゃないけど、特に斉木は何か、グチャグチャ悩んでいるような気がするんだけど、ホントにこんなもんで仲直りできるなら、たいしたことではないような気がする(笑)。
ホントは、斉木のアパートを書きたかっただけなんですよ。
ずっと芹のマンションだったから。
それが何、間違ってこうなったのか。
もう感染してます。おおはまりです。いいもん、斉木受けドリーマーだもん、私(爆)。
ちょっと、タイトル思いつかなかったんで、荒木さんの曲から。後から変わっちゃうかも。
もー、ちょっと、駆け引きが書けるようになるといいですね、自分。

夕日







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