着替え






 たまの休みなんだからどこかに遊びに行こうと芹沢が言い、人がいないとこならいいと斉木が答えた。
 結果、二人は人気のない浜辺に降り立った。
 海開きにはまだ随分早い時期だけに、人気もないが、目を楽しませるものも、話の種になりそうなものも何もない。
 だが、二人でいるなら十分だった。
 海水浴にはまだ早いが、打ち寄せる波に触れてみるとそれほど冷たくもない。
 早速、斉木は裸足になって、ジーンズの裾をめくって波打ち際に突入する。
 芹沢はそんな斉木を波につかまらない程度離れたところから眺めている。
 一緒になって水と戯れるのは自分のキャラではないとでも言いたげな表情であり、実際その通りである。
 芹沢が無邪気に水遊びなどしている光景など、芹沢自身想像がつかない。
 無論、そんなことを斉木が気にするはずもなく、
「お前もこっち来いよ! 気持ちいいぞ!」
「遠慮しときますよ」
 芹沢は苦笑しながら答えた。
 人には向き不向きというものがあるのだ。
 しかし、芹沢の口調がそっけなく聞こえたのか、斉木が眉を寄せる。
 芹沢は更に一歩引いた。
 斉木の行動が予測出来たからだ。
 そして芹沢の予想通り、斉木が思い切り水面を蹴った。
 水飛沫が太陽の光を浴びてキラキラと輝く。
 自分にさえ被害が及ばなければきれいで済むが、着替えもないというのにずぶぬれになってはたまらない。
 芹沢は充分に距離を取ったはずなのに、水飛沫が足元を濡らした。
「何するんですか!」
「いいから来いって」
 さも当然と言わんばかりの声音に、芹沢の天邪鬼がむくむくと頭をもたげる。
「嫌です」
 芹沢は即答する。
 すると、次々と水飛沫が襲い掛かってきた。
「ちょ…、やめなさいって!」
 水飛沫攻撃もさることながら、斉木の足元が危うく見えて芹沢が言う。
 その瞬間。
「うわっ」
 少し大きな波に足元をさらわれて、斉木がバランスを崩す。
 何とかバランスを保とうとしたが果たせず、斉木は背中から水面に落ちた。
 慌てて起き上がったが、水を飲んでしまいむせる。
 と、
「あーあ」
 呆れたような声がはるか頭上から降ってくる。
「どうすんですか、さすがに乾ききらないでしょ」
 むせる呼吸を何とか落ち着かせ、水の中で体育座りをして濡れた髪をかき上げると、まごうことなき芹沢の呆れた表情が飛び込んでくる。
 芹沢の言うことはもっともである。
 まだ夏には遠い、春先のことだ。
 ジーンズまでびしょ濡れとあっては、日暮れまでの自然乾燥はとても間に合いそうにない。
 差し出された手をつかんで立ち上がった斉木は、濡れたTシャツの裾を絞りながら言う。
「確かにちょっと寒いな。お前ん家の方が近いから、ちょっとシャワー貸してくれよ」
 この場所からだと芹沢のマンションの方が近い。
 濡れて肌に張りつく布の感触はあまり気持ちのいいものではなく、早く乾いた服に着替えたい。
 芹沢の部屋には乾燥機つきの洗濯機があることも斉木は知っている。
 すると、返って来たのは思いもよらなかった言葉である。
「え、それで車乗る気ですか」
「何かまずいか?」
「塩でシートが…クリーニングに出さなきゃいけなくなるじゃないですか」
 斉木の健康よりも――実際、この程度で風邪を引くほどヤワではないが――ご自慢の真っ赤なスポーツカーの心配をする態度に、斉木は一瞬絶句した。
 それじゃこのびしょ濡れのまま電車に乗れと言うのか貴様。
 と、言えればまだ良かったのだろうが、あまりのことに言葉にならなかった。
 ただカチンと来た斉木は、水気を切る努力を止め、砂浜を歩き出す。
「え、ちょっと待って、斉木さん!」
「どうせ乾きゃしないんだから、多少絞ったって変わらないだろ?」
 にっこりと笑って歩き出す。
 せっかくだからシートのクリーニングに出してもらおうじゃないか。
 それは口にせず、斉木は今後の予定を勝手に決めた。
「お前ん家、乾燥機あったよな。シャワー借りてる間に、服洗っておいてくれよ。あ、乾くまでの間、何か貸してくれよな」
 突発で泊まる場合、Tシャツなどはいくらあっても困らないので、着替えは買うようにしていた。
 芹沢には散々着替えを置いていくように言われているのだが、まだ何となく着替えを置く気にならなかったのだ。
 しかし、今回はそれをする気はなかった。
 洗濯物を増やして、更にはしばらく誰も助手席に乗せられないようにしてやる、と、嫌がらせにばかり頭が向いている。
 もっとも、それを口にしていれば、当の昔に助手席はあんた専用ですよ、と、斉木が卒倒するような台詞を口にされていただろう。
 口にしなかったのは、多分斉木にとって幸いである。




















 「斉木さん、着替え」
「おう」
 差し出された着替えを持って脱衣所に向かう。
 芹沢は斉木の洗濯物を抱えて洗濯機へ向かった。
 愛車はマンションの駐車場に止めた途端に業者を呼び、速攻クリーニングに出した。
 車のドアも開けぬままの行動に、斉木が更に拗ねたのは言うまでもない。
 そう、拗ねていただけだ。
 シャワーを浴びて少し体も温まると、いつまでも不機嫌なふりもしていられない。
 ――まあこの辺で許してやるか。  と、ご機嫌で戻って来た脱衣所に、落とし穴があった。
「何だこれ…」
 斉木は、芹沢が用意してくれていた新品のパジャマに腕を通して呟く。
 さっきまでのご機嫌はどこへやら、現在斉木を支配しているのは絶望感にも似た思いである。
 公称180センチの斉木も世間では充分に大男である。
 ジャージやTシャツの類でもなければ、なかなか合うサイズの服はない。
 とは言え、芹沢の日本人離れした体格は、斉木とは次元が違うのだとも理解していた。
 悔しいかな、斉木と芹沢の身長差はそのままほぼ足の長さの差である。
 芹沢は膝から下が特に長く、世に言うスーパーモデルのバランスだと思えばよい。
 だから、パンツなど借りようものなら子供が大人の服を借りたかのように裾を折らなければ履けたものではない覚悟はしていた。
 実際、借りたパンツは一つ折では足らずに二つ折している。
 だが、上半身までもそこまで違うと斉木は思ってもいなかったのだ。
 しかし今、洗面台の鏡にに映る自分の姿はどうだ。
「ありえないだろ、これは」
 斉木は泣きそうな気分で呟いた。
 いや、ほとんど半泣き状態である。
 袖を見ると、指の先も見えていない。
 足が長いのだから腕も長いのは当たり前でまだ我慢が出来る。
 だが、情けないのは真新しいシャツの肩が落ちてしまっていることだ。
 女性ならともかく、世間で自分はいかつい男に分類されるはずなのに。
 要するに、芹沢はただ足が長いだけではなく、全てのパーツがそれなりのサイズをしているからこそスタイルがいいのだ。
 それは分かった。
 だがしかし。
 何が恐ろしいと言って、これはいわゆる『彼氏のYシャツ』状態だと言うことだ。
 いや、実際彼氏のシャツなのだが、それを体現しているのが自分だと言う事実に斉木は思わず気が遠くなりかけた。
 辛うじて踏み止まれたのは、こんな格好で倒れた日にはどんな目にあわされるか分からん、と言う危機感のおかげだ。
 もっとも、別に倒れなくとも事態は変わらない。
 こんな裾も袖も盛大に捲り上げた格好で出て行ったら、格好の餌食だ。
 と言う訳で、斉木はせっかく風呂に入って温まったと言うのに、湯冷めしてしまう程鏡の中の自分とにらめっこを続けてしまったのである。
 どうしよう、どうすれば、どうしたらの三段活用を行っても、斉木の身長が伸びる訳も、服が縮む訳でもない。
 何で着替えを買ってこなかったのかと悔やんでも、全ては後の祭りである。
 そんな風にただ時間を浪費していると、
「斉木さん、どうかしたんですか?」
 脱衣所の外から、芹沢が心配そうな声をかけてくる。
「どうもしてない」
 言ってから、斉木は思いつく。
「俺の服、乾いてないか」
「ジーンズがあるんだからさすがにまだですよ」
 答えた芹沢は、斉木の言動に不審を感じ取って言った。
「まさか斉木さん、のぼせたとか?」
「違うっ。平気だから来るな!」
 芹沢の心配する方向と実際の斉木の状態が完全にズレていたことが、斉木にとっては不幸だった。
 元々、シャワーを浴びるだけにしては時間がかかりすぎていることが気になって声をかけた芹沢は言うことを聞かなかった。
 斉木は非常に我慢強く意地っ張りなので、鵜呑みにして様子見をしていて手遅れになったことが何度もあるのだから、芹沢としては斉木の様子を確認する以外の選択肢はなかった。
「入りますよ」
 と、問答無用で扉を開けて顔を出した途端、ファンの女達が見たら百年の恋も一気に醒めそうな勢いで芹沢がにやけた。
「わー、かわいいなあ、斉木さん」
 その言い草に斉木は総毛立つ。
「気色悪いこと言うな!」
「え…?」
 怒鳴りつけられた芹沢は、本気でどうして怒られたのか分かっていない様子だ。
 斉木は身震いしながら吐き捨てる。
「言うに事欠いてこんなごついのにかわいいなんてっ」
「でも、かわいいのはホントだし」
 対して芹沢は、ぬけぬけと言い放つ。
「どこがだ!」
「そんなに照れてるとことか」
 芹沢がにやりと笑う。
「それにその格好だと、いつもより小さく見えますしね」
 足元は二つ折り、袖も二つ折りで肩が落ちている。
 相対的な目の錯覚に過ぎないが、今の斉木はどこからどう見ても180センチ近くあるようには見えない。
 そんなことは斉木自身が一番分かっているが、
「小さい言うな!」
 分かっているがために認めたくないことはあるのだ。
 しかし、そんな斉木の癇癪も、ただ火に油を注ぐだけだった。
「ほら、やっぱりかわいい」
 斉木は押し出そうとしたのだが、長すぎる袖や裾がもたついている間に、芹沢はどんどん踏み込んでくる。
 と、芹沢は上機嫌な様子で斉木を背後から抱き締め、耳元で囁く。
「すごくかわいいですよ、食べちゃいたいぐらいね」
「ぎゃー、離せ! はーなーせー!」
 身の危険を感じて暴れる斉木の動きを封じ、芹沢は斉木を運び出した。










 その後、斉木は芹沢の部屋に自分の着替えを置くようになり、二度と芹沢の服を借りることはなかった。
















大変ご無沙汰しております。
ぶっちゃけ小説の書き方を忘れていまして、リハビリに小ネタを発掘してきました。
実にありがちな話になってしまいましたが…。
エロも書こうかと思ったのですが、そこまでは無理でした。
まだしばらくリハビリが必要なようです。
これ書くだけでも随分時間がかかりました。

まだしばらくのんびりモードだとは思いますが、これから復活していきたいと思っているので、よろしくお願い致します。



夕日(2006.04.23)
(2006.05.06 加筆修正)

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