視線





 自動ドアがすっと開くと、冷気が漏れ出す。
 と、同時に、静かな人の気配。
 たくさんの人がいるざわめきは確かに感じられるのに、だが、息を潜めているような、独特の気配。
 斉木は軽く溜め息を吐いて、実はとても苦手なその気配の中に覚悟を決めて一歩を踏み出す。
 何のことはない、大学図書館なのであるが、根っから体育会系の斉木にとっては鬼門と言えるほど苦手な場所だった。
 活字を読むことは別に苦痛ではないので、本自体には特に何とも思わないと言うより、流行りの文庫本などは比較的読む方である。
 やはり、あの雰囲気が嫌いなのだ。
 何だか呼吸をする音を立てることすらためらわなければならないようで、息が詰まりそうになる。
 それは、斉木が人並みよりも気を使うタイプだからかもしれないし、単に、小学校の図書室で地声が大きかったために司書の先生に目の敵のように注意されたトラウマなのかも知れない。
 理由は何にせよ、斉木は図書館が苦手で、いくら冷暖房完備でもあまり好き好んで足を向けたい場所ではなかった。
 それに、斉木は冷房も苦手だ。どちらかと言うと暑がりだが、冷房の寒気は嫌だった。それだったらだくだくに汗をかいている方がいい気がする。
 だが、卒論と言うやむにやまれぬ事情が目の前に提示されては、どれほど苦手だろうと来ざるを得ない。
 親の手前と成績に余裕があって学部を選べたため、政経学部経済学科など選んでしまった自業自得なので、今更悔やんでも後の祭りである。
 せめて連れの一人もいれば違うのだが、サッカー部を中心とする友人連は学部学科によっては卒論などない連中もいるし、卒論があるはずの連中にも今日に限って片端から振られて、あえなく一人で足を向けることになった次第である。



 斉木は、端からはそうとは分からないだろうが、その実かなり緊張しながら、目的の書棚に向かう。
 ゼミを決めてからそれなりに足を運んでいるため、卒論をまとめるため――切り貼りとも言う――に必要な書籍論文の類のある書棚の位置は覚えた。
 せっかくだから新着図書なども見たいが、そちらに行ってしまうと当初の目的が飛びそうなので、寄り道はやめておく。
 経済の論文と言うものは、高校でおさらばだと思っていた数式と正面切って格闘しなければならないものなのだと、斉木はうかつにもゼミに入ってから知った。
 活字はけして嫌いではないが、微積だ確率統計だと言ったあからさまな数式とは、斉木はあまり相性が良くなかった。
 しかし、例え既存の論文の切り貼りであったとしても、卒論を仕上げなければ卒業できないのだから致し方がない。
 その辺りも、斉木にとって図書館が足を向け難い場所になっている一因かもしれない。



 重い足を引き摺りつつ、薄暗い通路を進んで書棚の前に立つ。
 経済学関連書が並ぶそ辺りは、全く人気がない。
 ゼミの教授から指定された論文集を書棚の一番上の段から視線だけで探し始める。
 高い書棚の上の方の段を探す時には踏み台を使う学生も多いが、世間一般的に、充分大男で通る身長がある斉木は、すぐ横に図書館が用意している踏み台には目もくれない。一度載ってしまうと、移動が面倒だからだ。
 こういう時には――勿論、サッカーで最も役に立てている訳だが――身長があって助かると思う。できれば180センチ欲しかったけどな、と、公称180センチの斉木はチラリと思う。




















 目的のものを探し出すのに夢中になっていたのだろう。
「…木さん、斉木さん?」
 斉木は突然背中を叩かれて、弾かれたように声のした右の方に顔を上げた。
 見上げた視線の先には、暗い天井とぎっしり書籍の詰まった本棚が交わる線が見えた。

 ――見えたのは、それだけだ。

「あれ?」
 思わず声に出して首を傾げてしまった斉木の右手から、少し怒った声が聞こえた。
「ひどいですよ、斉木さん」
 その声は、上からではなく、下から聞こえた。
 慌てて斉木が視線を落とすと、すぐ右隣にゼミの後輩が立っていた。
 いくら顔が広いとは言え、生っ粋の体育会系の人間である斉木は、どうしてもサッカーつながり、その次にスポーツ関係の知り合いが圧倒的に多いのだが、斉木を呼んだ彼は珍しくスポーツとは全く関係のない人間だった。
 初めて会ったのは、丁度斉木がサッカーにかまけて卒論の下調べが遅れていることを教授に説教されていた時、その教授が目当てで進学したのだと言う彼がゼミに押しかけて来た時だ。
 結局、斉木への説教は中断したままになった。それ以来、斉木はいつのまにか彼と年の違う友人として付き合うようになっていた。
 くるくるよく動く瞳が何となく広瀬を思い出させて、斉木は好感を持っていたから、友達になるのはかなり早かった。
 もっとも、彼の方は、斉木のことをよく知っていた。かなりのサッカーファンなのだと言った。
 しかし、東翔大サッカー部の中心選手というだけならず、ユニバーシアードやアジア大会の日本代表に名を連ねたのだから、サッカーファンならずとも学内で一、二を争う有名人であると言う認識がないのは当の本人だけかも知れない。
 それはさて置き。
 彼は、憤慨した様子で、斉木に詰め寄る。
「一体僕が何したって言うんですかっ」
 本気で怒っている様子に、斉木は思わず一歩引いてしまった。
「な、何が?」
 斉木には、全然彼が怒る理由が分からなかったのだ。
 するとその様子に、彼は更にへそを曲げた。
「何の嫌がらせなんです!? 僕がチビなの分かってるくせにそっぽ向いて」
 と、彼は斉木を見上げてなじった。
 そう、彼は一般的な男性の体格からしても随分小柄だった。斉木のサッカー仲間の中では最も小さい部類の内海よりもずっと小さい。多分、160センチあるかないかだ。特に病気などではないらしいが、骨格も細く痩せ型のため、後姿ではよく女と間違えられている。
 180センチに近い斉木にとっては、かなり見下ろさなければならない相手だった。斉木が見上げてしまったら、視界の隅にも入って来ない。
 それなのに。
「そんなに僕を視界に入れるの嫌だったんですか」
「い、いや、そんなんじゃないって。つい癖で」
 畳み掛けられ、斉木は苦笑して答えた。本当に無意識の行動だったのだ。責められてもどうやって言い訳したら機嫌を直せるのか、全然分からない。
「癖? そんな訳ないでしょう。僕じゃあるまいし。斉木さんが見上げなきゃいけない人なんてそんなにいないでしょ」
 斉木さん、でかいくせに、と、言われ。
 思わず、考える。
 確かに、サッカー部でも斉木より身長が高い人間は何人かいるが、けして見上げるほどではない。
 だが。
「高校時代の連中がみんなでかいんだよ」
 斉木は苦笑した。
「ヴィルディの加納とか。あれは中学の時からでかかったから」
「ああ…」
 一瞬納得したようにうなずいてくれたが、すぐに思い直したように彼が首を捻る。
「あれ? でも加納…さんもそんなに違わなくないですか? 確か184センチですよね」
 と、サッカーマニアを自称する彼は加納の正確な身長を言い当てた。
 斉木も言われて気づく。
 斉木もかなりがっちりした体格だが、加納の筋肉のつき方は少々日本人離れしたところがあるため、さすがの斉木でも威圧感があってかなり大きい気がしていたのだが、言われてみれば確かにそうだ。
 少なくとも見上げると言う感覚はない。
 返す返すも斉木だって180センチ近くあるのだ。
「うーん、じゃあ三橋とか…」
 斉木は高校の後輩の名を挙げた。確かに三橋はでかい。190センチを越えている。
 だが、癖がつくほど見上げていたかと言われると、それほどではないと、斉木も思う。
 そこまで考えて。
 ようやく斉木は原因に思い当たる。
 いや、わざと自分に目隠しして、気がつかないふりをしていただけだ。
 だって、気がついてしまった今、鏡などなくても自覚できるほど顔が熱い。
 薄暗い図書館で良かったと思う。
 これが外だったら、一発でバレていた。
「斉木さん?」
「うん、GK連中はみんなでかいよな。後、赤堀とか、大塚とか…アイツら、高校の時にはもう俺を見下ろしてたからな」
 高校時代から親しくしていた掛川の後輩二人の名前を斉木は挙げた。この二人も日本人離れしてでかい。だが、言い訳だ、と、心の中で呟く。
 ――たった一つ、その名前にだけは、けして触れないように。
 触れられたら、平常心でいられる自信がない。
 だが、相手はマニアと誇らしげに自称するほどのサッカーファンで、その名前を知らないはずもない。早いところ話をそらしたい。
「俺も運が悪いよな」
 俺だって小さくはないのに、と、斉木は会話の矛先をわざとずらす。
「はあ…まあ、いいんですけどね」
 そらとぼける斉木の前で、彼は溜め息を吐いた。
 その姿を見ながら、アイツはいつもこんな風に自分を見下ろしているのかと思うと、斉木は少し複雑な気分になる。
 斉木と彼の身長差が丁度同じぐらいだ
「せっかく暇だから、コピー取りぐらい手伝ってあげようかと思っていたのに」
「わ、悪かった」
 わざとらしく背中を向けられ、斉木は慌てて肩を掴む。
 教授から読めと指示された論文は一本ではなかった。滅多に図書館に来ない斉木は目的の本を見つけるのに並より手間がかかる。手伝ってくれると言う相手を逃がしたら損だ。
「後でコーヒー奢るから」
「スタバでお願いします」
 振り向いた彼は、にやりと笑って言った。勿論最初から手伝う気だったのだから、コーヒーの一杯もついてきたら彼としては儲けだ。
 ――気がついてる、訳じゃないよな。
 斉木は注意深く相手を観察して、そう結論づけた。
 無意識に、左胸を手で押さえる。
 そこには、どんなに体に跡を残すなと言っても聞かず、昨夜つけられたばかりの赤い跡が残っている。
 成美辺りが見たら、大笑い必至の斉木の行動であるが、幸か不幸かどちらも気がついていない。
「これですね」
 彼は斉木の手からメモを奪い取り、踏み台に載って目的の論文集を探し出す。
「悪いな」
「いーえ。斉木さん一人じゃ探すだけで一日かかるでしょうからね」
 痛いところをつかれて、斉木は苦笑するしかない。
 苦笑しながら、踏み台に載って、高いところにある彼の横顔を見上げ、自覚する。
 いつも自分は、こんな風に見上げているのだと。
 それがけして、不快ではない自分にも気がついて。
 斉木は、密かに思った。
 
 ――今日は電話でもかけようか。

















毒にも薬にもならない感じですが、リハビリと言うことで勘弁して下さい(T_T)。
本当に3ヶ月ぶりに書きました…。
最初は連載の続きを書いていたんですが、いまいちはまらず、全く別のネタを引っ張り出してしまいました。

去年の夏頃ですか、字書きと絵描きの認識の仕方、と言うのがちょっとこことライオンの方で話題になったことがあって、その時に考えていたネタです。
自分は元々絵を描きたかった人間なせいか、割と頭の中で話を考えている時は勿論、小説のくせに妙に視覚を強調するような話の書き方をすることは気がついていたのですが、そんな話題をしていた時に、徹底的に視界にこだわった話を書いてみようかな〜、と、思って、いろいろ考えた結果、芹斉で斉木の視界と言うのが一番面白いかな、と。
ウチの芹斉では芹沢が196センチと言う、ちょっと日本人のサッカー選手としては考えられない身長(苦笑)なので、そんな相手だと斉木は見上げる癖がついちゃうだろうと思います。196センチと書くと、サッカー選手としてはもうちょっと小さい方がいいなと思うのですが、高一で186センチもあるような人間は、いくら日本人でも本当は2メーターを越えてしまうと思うんですが、2メーターいったらもうサッカーは無理なので、妥協して10センチの伸び。それでも、でかすぎだとは思います。196センチはね…。早く成長期が来て、割と早く身長の伸びが止まったと言うケースも考えられますが、逆にそういうタイプは180センチを越えないような気がするんですよね。どっちかって言うとその設定つけるなら、芹沢と言うより斉木の方が相応しい気がします。
と言うことで、斉木は、残念ながら178センチよりはそれほど伸びなかっただろうと思うんです。180センチ弱。その差、16センチ強。あら、理想的なキスシーンが出来ますね♪ じゃなくて(バカ…)。シュート!キャラ、全体的にでかすぎます…高校生ならもう少し低くていいと思う…。
まあ、何にせよ、180センチ弱の斉木は、世間的には充分大きいはずです。まっすぐ前見ていたら、150センチ台の女は視界に入らないですよ。でも、芹沢が更にでかい(笑)ので、ずっと隣にいたら、絶対見上げる癖がついちゃうんだろうな〜、それ面白いな、変だよな(爆)、とゆー実にくだらない理由で考えました。
なので、もっと視覚的な部分を強調するつもりだったんですが、なかなか上手く行きませんね…更新の間が開き過ぎている自覚はあったので、書き上げることがどうしても優先事項になってしまいました。

私の反省の弁はともかくも、初めて、ですよね。芹斉でどっちかしか出て来ない話を書いたのは。
いっつもバカップル二人きりと言う話ばかりで、いつものパターンで申し訳ないなー、ってのもあったので、チャレンジしてみました。割と、斉木は一人でいても大丈夫なタイプなんじゃないかと思うんで、考えるのは楽でしたね。芹沢はー、多分無理ですね。少なくとも芹斉の芹は、本気になるまでは遊びまくるけど、本気になったらもう絶対絶対たった一人、その人がいつも傍にいてくれなきゃやだ! となってしまうタイプだと思うと言うか、そういうタイプでないと芹斉成立しないので(笑)。そういうタイプだと、離れてる間に考えることは、相当怖いこと考えていると思うので、ちょっと考えるのやです…。一回ぐらいはそういうどーーーしようもない話を書いてもいいかと考えなくもないんですが、思いきり18禁になりそうな気が(苦笑)。

てなことで、大変間が開いてしまってすみませんでした。
これからはまた頑張って更新していきますので、見捨てないで下さいね。
ネタはあるんですよ、ネタは…手がおっつかないだけで。
できれば、この話に関してではなくて全然構いませんので、ご意見ご要望ご感想などいただけると幸いです。多分、かなりの影響があります。管理人、現金だから(爆)。

夕日







■ Serisai-index ■

■ site map ■