今年は悪くはない年だった。




 J1再昇格一年目だったが、優勝戦線にすら絡んでシーズンを終えた。
 更にJ1復帰と共に、日本代表にも返り咲いた。
 天皇杯はベスト16で終わってしまったのが悔いと言えば悔いではあるが。





 けして、悪くはない年だった。




 たった一つのことを除いて――。










誓い











 天皇杯もベスト16で敗れてしまったため、クリスマスはゆっくり過ごせることとなった。
 どこかの試合に足を運ぼうかとも思ったが、見送った。
 と、言うのも、元日本代表の二人が牽引するチームがJ1昇格し、年間を通じ優勝戦線に絡みながらリーグ戦を戦い抜いた。
 しかも、日本代表への復帰のおまけ付きだ。
 自分達としては当然の結果であり、むしろ本気で優勝を狙っていたのだから後悔さえもあったのだが、世間は彼らをシンデレラだともてはやした。
 元々派手で一般にも顔が売れている芹沢はともかく、斉木までもがチームの顔としてかなりの露出をするはめになり、今は相当な有名人なのだ。
 買い物に街へ出て、いきなりサインを求められるぐらいには。
 スタンドまで出向いたら逆にゆっくり見られなくなりそうで、準々決勝は自宅マンションでテレビ観戦を決め込んだ。
 シーズン全ての戦いを終え、ようやく一息つけたのだ。
 特に、不動のキャプテンであり、チームの中でプレーイングコーチに近い立場の斉木は、シーズン通して気の休まる時などなかったはずなのだ。
 せっかくのクリスマス・イブ――別に彼らはキリスト教徒ではないが、休む口実になればそれで良い。




 ――二人きりで過ごすクリスマス・イブ。




 子供のように部屋中気合を入れて飾り付けた。
 小さなケーキも買った。
 ただ、子供ではないから高いワインを買い、料理の食材もいつもより少し奮発していいものを買った。
 作るのは、サラダや鶏の唐揚げなどのありきたりのものだけれども。
 肩の力を抜いて、明日のことなんて考えず、バカ騒ぎ出来る機会などそうそうないから。




 なのに――。





 リビングで携帯の着メロが音高く鳴り響いた。
 キッチンで、いい年をしてじゃれ合いながら料理していたデカい男二人の動きが、一瞬、止まった。
「斉木さん、電話」
「ん、ああ――」
 二人、何事もなかったかのように。
「もうこれ揚げるだけだから、後は俺がやっときますよ」
 芹沢は唐揚げを揚げながら、言った。
「悪いな」
 斉木は済まなそうな顔をしながらそそくさと手を洗って、着メロが鳴り続けるリビングへ、消えた。
 すぐに着メロの音が途絶える。
 そして、更に斉木の気配が離れていく。
 バタリ。
 寝室のドアが閉まる音がして、芹沢は小さな溜め息を吐いた。




 悪い年じゃなかった。
 来年はもっといい年にしたい。
 けれど。
 来年、自分達はまた一つ年を取る。
 再来年も、その次も。
 年を、取っていく。
 自分達が意識しなくとも、周囲は意識する。
 いや、むしろ自分達が考える以上に意識してして、いる。





 唐揚げを揚げ終わっても、斉木が戻ってくる気配はない。
 リビングは完全に用意が整っていた。
 二人して馬鹿みたいに真剣に飾り付けた室内は、すっかりクリスマスパーティーの雰囲気だ。
 だが、もう一人のこの家の主である、斉木だけが戻って来ない。



 理由は、分かっていたけれど。



 本当は、知らないふりをしたかった。
 何も気がつかないふりをしていたかった。
 だが、気がつかないではいられなかった。
 芹沢はそこまで鈍くない。

 芹沢は今度の誕生日で27になる。
 斉木にいたっては来年はもう30だ。

 それを思うと。
 いても立ってもいられずに、だが足音を殺すことは忘れずに、芹沢は寝室のドアの前に立つ。
『だから、しないから、絶対』
 ドアの前に立つと、押し殺した斉木の声が聞こえて来た。
『会う気もないし、写真なんか送ってきたらそのままゴミ箱に捨てるからな。送って来るなよ』
 斉木の実家からの電話だと、すぐに分かった。
 分かりたくはなかったが。
 芹沢の、男にしては大きめの瞳がかげる。
 と。
『だから! 何度言ったら分かるんだ! 俺は見合いなんかしないし、結婚なんか絶対しないから!!』
 斉木の怒声がドアを通してもはっきり聞こえた。
 その、言葉に。
 芹沢は思わず崩れそうになって、慌ててリビングに戻る。
 二人分のグラスが並ぶテーブル。
 明るいクリスマスの飾り付けが、胸に刺さった。
 芹沢はすとんとローソファに体を埋めた。





 斉木の実家から頻繁に電話がかかるようになってきたのは、斉木の29才の誕生日を過ぎた頃だった。
 最初の頃は、芹沢の前でも電話を取って、冗談めかして『余計なお世話だ』とか笑うこともあったが、この頃は絶対に芹沢の前では電話を取らなくなった。
 多分、それだけ家族からのプレッシャーが深刻になっているのだろう。
 しかしそれも、無理はないのかもしれない。
 斉木は実家のことをあまり話そうとはしないが、実はかなりいい家の、しかも長男だ。兄弟は姉が一人いるだけで、一人息子。
 本当は、ずっと前から斉木へのプレッシャーはあったのかもしれない。
 芹沢が気がついたのが露骨になってからというだけで。





 二人が幸せでも、周囲もそうだとは限らない――。




 斉木を解放してやるべきなのだろうか。
 自由に、どこにでも行けるよう。
 いや。
 出来るはずがない、そんなことは。
 チームも生活も共にしている今ですらたまに、芹沢は斉木を誰の目も届かないよう隠してしまいたい衝動に駆られるのだから。
 談笑しながらファンにサインをしたり、雑誌に載った斉木のインタビューを読んでいる人間を見かけただけで、イライラする。

 ――いっそ、本当に隠してしまおうか。

 誘惑は、実に甘美なものである。
 それが常日頃渇望している欲望であるから、尚更。





 だが、芹沢は長い前髪をかきあげて、苦笑を口元に刻んだ。
 それもまた、出来ないことだと知っているから。





 もしもこの世の中に本当にサンタクロースがいて、本当に欲しいものを一つだけくれると言うのなら、芹沢はきっと巨大な靴下をぶら下げて、『斉木が欲しい』と叫ぶだろう。
 そんなことで確実に自分だけのものになるなら安いものだ。
 しかし。
 多分それは裏目に出る。
 世の中、男同士の恋愛に、寛容な人間の方が少ないのだから。
 もしも斉木と引き裂かれるようなことになったら。
 全てを捨てて斉木を取り返しに行くだろう。
 見合いの席に乗り込むぐらいはお手の物だ。
 それで自分はともかく、斉木がどれほどの苦境に追い込まれたとしても。
 いまだ若気の至りの塊のような芹沢ではあるが、更に昔、若気の至りだけで成り立っていた頃は、どんなことになっても守ってやるなどと自惚れていたけれど。
 世の中、それほど単純には出来ていないことが、最近ようやく身に染みてきた。
 少なくとも、斉木の実家の問題は、一言『付き合ってます』だけでは済まされない問題だ。
 世間体だとか、良識だとか、芹沢と言う人間にはまずご縁がない単語がずらずら並べ立てられることは間違いない。





 そして、それでも駄目なら。
 誰の手も届かないところに隠してしまうか。
 斉木を壊すことになっても。
 そんなことをしたい訳ではないけれど。
 もしも。
 追いつめられたら。
 自分ならきっとやってしまうと、芹沢は思っている。
 知っている、と、言った方がいいのかもしれない。
 斉木はずっと自分を支え、守ってくれた。
 自分の体も、選手としてのキャリアも省みず。
 だけど自分は、守りきることも出来ず、壊すのが精一杯だ。





 芹沢は小さな溜め息を吐いた。
 その瞬間、寝室のドアを開け閉めする音が、大きく響いた。
 ドカドカと、不機嫌そうな足音が続く。
 芹沢は、笑顔を取り繕ってから、振り向いて言った。
 そうと意識しなければ、笑いも出なかった。
「もう、何してんですか。料理が冷めちまいますよ」
 からかいを含んだ声で。
 だが、斉木は不機嫌な表情を隠そうともせず、言い放った。
「遊びに行こう」
「は?」
「どこでもいいから遊びに行こうぜ」
 間抜けな声を出した芹沢に、斉木はせっかちに繰り返す。
「何をいきなり」
「気が変わった」
「だって、料理…ワインまで買って来たのに!」
「持って行けばいいだろ。出来てんだから」
 取りつく島のない斉木の物言いに、芹沢は苦笑する。
「何、わがまま言ってんだか…」
「お前に言われたかないぞ」
 芹沢の言葉に、斉木が憤然として答えた。
「はいはい、行きましょう」
 もう一度苦笑いして、芹沢は立ち上がった。
「どこがお望みですか、王子」
「どこでもいいよ」
 斉木は不機嫌そうに眉根を寄せたまま、言った。
「でも、そうだな…せっかくだからにぎやかなところに行くか」
 意外な一言。
 人目につく場所には行きたがらなかったのは、斉木の方だったはずなのに。
「携帯は置いて行けよ」
 自分の携帯をテーブルの上に放り出しながら、斉木が付け加える。
「せっかくのデート中に、携帯なんかに邪魔されるのはごめんだからな」
 勿論、芹沢に否やはあるはずもなかった。











 「うまいぞ、この唐揚げ」
「……」
「サンドイッチもいける」
「あのね、斉木さん」
「ん?」
「人に運転させといて、自分だけ食べないで下さいよっ」
 いつも通り運転手は芹沢だったが、いつもと違うのは助手席で斉木が持ち込んだ料理を食べていることだった。
 サンドイッチや唐揚げなどの比較的持ち運びがしやすくて手でつまめてしまうものは、ラップをかけて皿ごと持ち込むと言う荒業を見せてくれた。
 いつもなら、まずやらないことだ。
 芹沢は半ば呆れていた訳だが、
「じゃ、食べるか?」
 斉木は何故か楽しそうに笑って、唐揚げを一つつまんで差し出してくる。
「食べます」
 芹沢も拒否せずに、一口で飲み込んだ。
「おい、俺の指まで食うなよ」
「だしがきいてて上手そうですけどね」
「何のだしだよ」
 さっきまで唐揚げをつまんでいた手でポコンと叩かれ、芹沢が叫ぶ。
「油のついた手で髪さわんないでくださいよ!」
「相変わらずこだわってるね、見てくれに」
「当たり前でしょ、俺の最大の長所ですよ」
「それは言えてる」
「サッカーの方が上だって否定してくれないんですか!?」
「なら、自分で言うな」
 軽口を叩いて。
 笑い。
 特別な日のドライブを楽しむ。










 尽きることのない不安には蓋をして。















 「さすがに混んでるな」
「そりゃあ、名うてのデートスポットですからねえ」
 湾岸の名所に辿り着き、車も何とか駐車場に停めて、二人並んで歩く。
「お得意のレイバンしないのか」
「夜にしてたら逆に目立つでしょうが」
「まあ、してても無駄だしな、お前は」
 斉木は何故か動きにくそうに右手でムートンのコートを押さえながら言った。
 日本人離れした長身と頭身と、トレードマークの長髪だけでバレバレだ。しばらくJ2暮らしだったとは言え、見栄えのする芹沢は一般に知名度が高い。
 その時。
 前から手帳のようなものを手にして、近づいてきたカップルがいた。
 芹沢は軽く眉をしかめる。
 サインをねだられるのだろう。
 顔の知れている彼らが一度立ち止まってしまうと、人だかりの山になるのが常であり、かと言って、基本が優等生に出来ている斉木は、サインを求められたら断らないのだ。
 せっかくの二人きりの時間を邪魔されたくはなかったのだが、この場合、芹沢自身が看板のようなものだから、誰に当たることもできない。
 芹沢は密かに溜め息を吐いて、黒のロングコートのポケットに突っ込んだままだった手を出しさえしたのだが。
「すみませーん、芹沢さんですよね、サインを…」
「ああ、すみません」
 有り合わせだったのだろう、差し出された手帳とペンを斉木が脇から手を出して遮った。
「あ、嘘っ。斉木選手まで!?」
 意味のない驚嘆の言葉には耳も貸さず、斉木は穏やかに笑って、言った。
「すみません、今日はプライベートなんで、申し訳ないけど勘弁してもらえますか」
 穏やかだが、言うことを聞かざるを得ないような強さがあった。
 この説得力が、チームの猛者どもをまとめる上での斉木の最大の武器だ。
 一般人をうなずかせることなど簡単だった。
「あ…」
 反射的にうなずいてしまったのだろうカップルに、「すみませんね、また今度」、と、言いながら、斉木は先に立って通り過ぎる。
「珍しい」
 後を追ってこないことを、また、同じようにサインを求める人間はいないことを確認し、芹沢が軽く首を傾げて話しかける。
「いつものことだろ」
「サインを求められることじゃなくて、斉木さんが断るのが珍しいって話」
「ああ…」
 素直な感想を述べた芹沢に、斉木は顔を上げて、久しぶりに見る少年のような笑顔を浮かべて、言った。
「いいだろ、たまには」
「いえ、俺は全然いいんですけどね」
 めんどくさいし、と、呟くと、ドン、と、ひじでつつかれた。
「そういうことは人前で言うな。今日だけ特別だ」
「斉木さん、真面目なんだからもう」
「当たり前だろ、愛される選手になるにはそれなりの…」
 と、いつもの説教が始まりそうな気配だったが、突然斉木が前を見て、指差した。
「ああ、あれに乗ろう」
「あれ…ですか」
 芹沢は困惑する。
 斉木が指していたのは、巨大な観覧車だった。一周するのに十数分かかるという代物だ。
 それはいいのだが、しかし。
「今日はとことん珍しいですね」
 本音が、漏れる。
「ああいうの、いつもは嫌がるくせに」
「たまにはいいだろ」
 斉木は、もう一度右手でコートを押さえた。そして、ようやく芹沢も気づく。
「何、隠してんです、その下」
「いいから、いいから。早く行こうぜ」
 芹沢の不審げな問いには答えず、斉木は早足で観覧車の方に進んでしまう。
 らしくなさすぎる。
 だが、
「おい、早くしろよ」
 少し離れてしまった斉木に呼ばれ、芹沢は大股でそちらへ向かった。




 「よっ」
 観覧車に乗るまでの行列で、かなり視線を集めていたが、斉木は気にする風もなかった。
 先に立って、ゴンドラに乗り込む。
 本来4人乗りであるはずだったが、一般に比べてはるかにガタイのいい男二人で乗ると、ゴンドラはとても狭かった。
 特に、
「芹沢、足どうにかしろ」
 椅子と椅子の間が狭く出来ているゴンドラの中では、斉木の膝と芹沢の膝を互い違いにしなければ座れなかった。
 それでも規格外に長い芹沢の足が多くの空間を占めていて、いかにも斉木は手狭である。
「んなこと言ったって、伸び縮みするもんじゃないんですから」
 芹沢はそれでも窮屈そうに足を出来るだけ折りたたむ。
 そんなことをしている内に、ゴンドラは地上を離れる。
 周囲の視線が届かない位置に来ると、斉木はおもむろにコートの下からスーパーでもらう買い物袋を取り出した。
「さて、飲むか」
 更にビニール袋から取り出したのは、今日のために買っておいたワインと、紙コップである。
「あ、あんたね…」
 さすがに、芹沢も絶句した。
 しかし、
「さ、飲むぞ」
 と、斉木は芹沢にワインを注いだ紙コップを押しつけ、自分の分も注ぐ。
 栓はすでに切られていた。
 手回しが良すぎる。
 間違いなく確信犯だ。
「せっかくいいワイン買ったのに…こんな紙コップで飲むようなワインじゃないのに、これはっっ」
 押しつけられた紙コップを見つめて、芹沢は少し悲しくなった。
 このワインのために、久しぶりにクリスタルのグラスを出して、一生懸命磨いたのだ、芹沢は。
 だが、斉木は全く構ってくれない。
「はいはい、分かった、分かった」
 適当にあしらいながら、斉木はワインのコルクを詰めて紙コップを目の位置にかざす。
「何が分かってんですか!?」
「いいから、ほれ、メリークリスマス」
 斉木が乾杯を強制する。紙コップ同士が触れ合い、鈍い音を立てる。
 そのまま、斉木は一気に紙コップを空けた。
「ああ、もう、そんな一気に…大体、コートの下に隠して持ち込むなんて……赤にしておいてよかった…」
 芹沢の愚痴は尽きない。
 一方の斉木は、
「一周するのにちょうどいいだろ」
 ご機嫌な様子で二杯目を手酌で注いだ。
「何がちょうどいいんですか…」
 芹沢が盛大に文句を言おうとした瞬間、
「きれいだな、夜景」
 斉木が、呟いた。
 その言葉に、握り締めた紙コップを見つめていた芹沢が顔を上げる。

 確かに、視界には360度の夜景のパノラマが広がっていたが――。

 それよりも、芹沢は窓枠にひじをつき、手であごを支えた斉木の横顔に、視線を奪われた。
 精悍な、男らしいその横顔に。
 芹沢が、ずっと、心奪われ続けたものだ。
 人の百倍ぐらいは飽きっぽい性分のはずの自分がどうしてと、我ながら思わないでもないが、心の底から欲しいと思い、またけして手放したくないと祈る、たった唯一のもの。
 ものすごい美形と言う訳ではなく、サッカーにおいてさえ、絶対の天才と言う訳でもない。
 勿論、一般人とは比べようもない才能も実力も備えているが、こと、プロの世界に限ってしまえば、斉木のサッカーの才能も実力も一流ではあっても超一流ではない。
 最初から、分からなかった。
 どうしてここまで自分は斉木にこだわるのか。
 何故、斉木でなくてはいけないのか。





 ただ一つ、分かっていることは。










 理由が分からないからこそ、自分は斉木にこだわり続けるのだと言うこと――。











 この、たった一人の人を失いたくない。
 何度も何度も、呟いた言葉。
 だが。
 芹沢に手放す気がなくとも、引き離される時が来るかもしれない。
 二人で生きていられれば芹沢はそれで満足だが、周囲までそうだとは限らない。
 そして、けして二人だけで生きている訳ではないのだ。
 足元を見れば、いろんな人の営みがあり、その上に自分達もある。
 自分達の都合だけでは――ギリギリ限界まで貫くとしても――生きてはいけない。

 自分は、耐えられるだろうか。
 万が一、斉木を失ったなら。
 その喪失の痛みに。
 それから先、一人で重ねる時に。

 その答えは、随分昔に見つけたはずだった。





 ――耐えられるはずがない。





 「芹沢、まだワイン残ってるじゃないか。早く飲めよ、着くぞ」
 斉木に手元を叩かれ、芹沢は我に返った。
「はいはい」
 芹沢が一気に空けると、斉木はさも当然のように空になった紙コップを取り上げて、ビニール袋に入れる。
 今度は、コートの下には隠さないようだ。
「バレていいんですか」
「乗っちゃったらこっちのもんだよなー」
 と、斉木はいたずらっ子の表情で笑った。
 思わず、芹沢が問う。
「斉木さん、もしかして酔ってます?」
「まだ酔うほど飲んでないな。半分残ってるし」
 無粋なお買い物用ビニール袋から頭を覗かせている高級ワインは、まだビンに半分以上入っている。
 確かに、まだそれほどの量は飲んでいないようだ。
 斉木も芹沢も、並みよりは大分酒は強い。
 ワインの一杯や二杯で酔っぱらうことはないのだが、しかし。
 芹沢が口を開こうとした瞬間、ゴンドラが大きく揺れ、冷たい空気が吹き込んできた。
「はーい、終了です」
 係員がロックを外したドアを開け、待ち構えている。
「降りるぞ」
 短く言い残して、斉木はさっさと降りる。
 係員が斉木の右手にぶら下がっているビニール袋に非難の視線を向けていたが、斉木は知らん顔だ。
 それどころか、迷いのない足取りで、さっさと歩いていく。
「これからどこに行くんですか」
「さっき、上から目ぇつけてたんだ」
 カップルが溢れ返って、ある意味ムードもへったくれもない人込みの中を、人並み外れた体格の二人が通り過ぎただけで、人目が集まる。
 その上にバリバリの現役体育会系である彼らの歩く速さは、本人達は普通のつもりだが、実際はかなり早い。
 何事かと振り向かれ、あちらこちらから悲鳴のような歓声も上がると、二人はいよいよ歩速度を上げる。
 そうして辿り着いたのは。
「ああ、これこれ」
 斉木が、巨大なツリーを見下ろせるバルコニーでようやく立ち止まった。
 この会場のシンボルである、巨大なクリスマスツリー。
 これでもかと言うほどに飾り立てられたツリーは、だが、彼らがいるような高い場所からでなければ、その飾り付けも見られないと言う、理不尽なほどのサイズだ。
「いや、すごいね。不景気だとか何だとか、嘘みたいだね」
 と、斉木はまるで一般人のような感想を漏らした。
「何かさ、あの星とか電飾とか、本当はすごく大きいんだろうな。ツリーがでっかいからわかんないけど」
 斉木はバルコニーの柵にひじをつき、何だか妙に楽しそうだった。
 芹沢はそんな斉木の態度に戸惑うばかりで、生返事しか返せない。
「ま、そうでしょうねえ」
 一体、何が楽しいのやら。
 こんなにハイな斉木はしばらく見たことがないような。
 芹沢は思わず首を傾げる。
 だが。
 ――まあ、いいか。
 そうも思う。
 部屋を出る直前の、暗い目をした斉木に比べれば、今の斉木の方がずっといい。
 少なくとも、今は芹沢も不安に目をつぶっていられる。
「あ、靴下もある。子供の頃はやったよな。ファミコンが欲しいとか言っときながら、自分の靴下しかなくて、結局靴下潰されてたけど。ゲームウォッチまでは入ったんだけどな」
 あれは結構切なかった、と、斉木は懐かしそうに呟いた。
「ウチは何が欲しいとか言っても、子供だましの長靴のお菓子の詰め合わせで誤魔化されてましたよ」
「ふーん、いろいろだな」
 と、斉木はその場に座り込み、柵の間からツリーを覗き出した。
「さ、斉木さん!」
「いいな、あの靴下、デカそうで。一枚譲ってくれないかな」
 斉木の声が本気だと、芹沢には分かった。
 だが、後ろから見ると酔っぱらいがうずくまっているようにしか見えない斉木に、周囲から心配げな視線が投げかけられている。
 しかも悪いことに、傍らにはワインのビンが入った、こんなところには不似合いなビニール袋。
 このままでは警備員を呼ばれてしまいそうだ。
 いざと言う時に性質が悪いのは、本当は斉木の方ではないかと、芹沢はちらりと思う。
「斉木さん、悪いんですけどせめて立っててくれません?」
「んー、あれに何とか届かないかと…」
「何、無茶言ってんですか、もう」
 芹沢がムートンの襟を引っ張った。
 それでも斉木は粘っている。
「どうしてあんな靴下なんか…」
「俺が欲しいものはデカいんだよ」
「欲しいって、何が」
 リーグ優勝とか。
 天皇杯とか。
 そんなことを芹沢は思い浮かべた。
 また、そんなものは、サンタクロースではなく自分に頼め、と、言ってやるつもりだった。











 だが。











 クイッ、と、コートの裾を引かれ、芹沢は反射的に視線を落とした。
 斉木と、目が合った。
 真摯な、まなざしだった。















 「お前だ」















 斉木が言う。
「お前が欲しいんだ」
 お前を入れるには、とにかくバカデカい靴下じゃなきゃ駄目だろう、と、斉木は呟く。
 とてつもなく、真面目な顔で。
「な…」
 芹沢は、手で顔を覆ってバルコニーの柵に突っ伏した。
「何を今更…っ」
 顔が耳まで熱い。
 見なくても分かる。
 歯が浮くセリフで散々斉木を恥ずかしがらせてきたが、芹沢の方がこんなに動転したのは初めてかもしれない。










 涙が、零れそうだった――――――――――――――――――――嬉しくて。










 「すまない」
 突っ伏したままの芹沢の隣で、斉木が立ち上がる気配がした。
「不安にさせていたのは分かっていたんだけど、どうにも出来なかった」
 斉木はポン、と、突っ伏したままの芹沢の背中を叩いて、そのまま掌を置いた。
 コートを通しても、斉木の熱い体温が伝わってくる。
「俺がものすごく不安だったから」
 ぽつり、と、言った。
「俺はお前の傍にいない方がいいんじゃないかとか、いろいろ考えて。俺の見合いとか結婚とかは、ともかくさ。そんなもん、もしもお前に振られたってする気ないし、そもそも家なんか継ぐ気ないし、今更継げるもんだとも思わないし」
 斉木もバルコニーに寄りかかる。
 顔を上げると、冷たい冬の空気が頬を撫でた。
「だから俺のことは置いといて、お前がさ、このまま俺といても、結婚出来る訳じゃないし、子供なんか逆立ちしたって出来っこないし。そういう人並みのことも出来ない上に、バレたらそれはもう人でなしみたいに世間から叩かれるのは目に見えてるし。
 ……お前を解放してやんなきゃいけないんじゃないかって、ずっと考えてた」
 その言葉に、芹沢はガバッと、顔を上げた。
 ――解放する。
 それは、自分も考えたことだった。
 どう考えたって、自分のわがままから始まった関係だった。
 確かに斉木は、そんな自分のわがままな思いを体までもひっくるめて全部、受け止めてくれたけれども。
 だからと言っていつまでも、自分の足元に縛りつけていていいのだろうか?
 きっと本当は、最初から疑問だったのだ。
 ずっと目をつぶり続けていたけれど。



 斉木を解放して、自由にして、そして、自分は――。



 そこでいつも思考停止だ。
 出来ないと知っているから。
 それが斉木のためになるのだとしても、自分のために出来ない。
 わがままだ。
 けれど、そんなことをうじうじと考え続けるのも、相手が斉木だからで。
 斉木以外の人間ならば、例えそれが神谷や内海であったとしても、知ったことじゃないと腹を括れる。
 自分の思うがままに行動して、それで離れていかれたとしても、しようがない、の一言で済ませてしまうだろう。





 ただ、斉木だけが。





 この腕の中に残っているならば、何を失っても平気だ。
 その代わり、斉木以外の世界の全てが自分の手の中にあったとしても、自分はけして満足することはないだろう。
 いつも飢えた獣のように、あちこちで食い散らかして歩くのは目に見えている、と言うか、前科持ちだ。

 だから、考えないようにしていた。
 ずっと。
 伊達や酔狂ではない自信はあったけれども、10年近い時を経てもなお燃え尽きることはないこの思いを、この人は。



 「でも、ようやく吹っ切れた」
 そう言って、斉木は笑った。
 声を立てずに。
「お前を手放すなんて、そんなこと出来るはずがなかったんだ。バカだろ。そんなことはもう何年も前に気がついてたはずのことなのに、今更」
 真っ直ぐに、芹沢の目を見つめて。
 そして、間違いなく告げる。
「誓うから。俺はずっとお前の傍にいる。誓うよ」
 言って、斉木が勢いよく芹沢の肩を抱いた。
「愛しているよ」
 耳元で囁かれ。
 思いも寄らなかった言葉に気を取られ、芹沢は、一瞬何が起こったのか分からなかった。
 柔らかく暖かいものが頬に触れ、すぐに離れる。
 それが斉木の唇だと気がつくのに、時間がかかった。
「斉木さん…」
 思わず目を白黒させながら、かすかに感触の残る頬に手をあてて斉木を見返す。
 今度は、斉木が声を立てて笑った。
「もしお前がこんなオヤジもういらないったって、しがみついて離れてなんかやらないからな、覚悟してろよ」
 責任取れよと、そう言われて。
「何、今更言ってるんですか」
 芹沢は、会心の笑みで応じた。
 ついさっきまでうじうじと悩んでいたことなど、空の彼方だ。
 斉木が目を細める。
「最初に言ったでしょ、俺は。あんたがじじいになって、干乾びるまで食らい尽くすって」
 まだまだ食いどころあるんだから、逃がしゃしませんよ、と、芹沢は長い指で斉木のあごをすくう。
「分かってます? 誓いのキスってのは、唇にするもんですよ」
 そう言って、顔を近づけたが、
「調子に乗んな」
「いてっ」
 ぴしゃりと額を叩かれた。
 思わずひるんだその隙に、斉木は芹沢の腕の届く範囲から逃げ出す。
「あ、こらっ」
「捕まえるんだな」
 小憎らしい表情でそう言って、斉木は人ごみの中を歩き出す。
 芹沢は長いストライドを生かしてすぐに追いつき、宣言する。
「望むとこですよ。俺は守るより追いかける方が性にあってるんだ」
「確かに」
「どんなことがあったってあんたは俺のもんだし、何が起こったって邪魔なら全部蹴散らすだけです。誓いますよ、俺も」
 芹沢は、歌うように告げた。
「絶対絶対、離さない。誰にも渡さないし、邪魔もさせない。」
「頼りにしてるよ」
 斉木は芹沢を振り仰いで苦笑と共に告げる。
「さすがに30目前ともなると親だの親戚だののプレッシャーが激しくてさ。気を抜いたらすぐに拉致監禁されて見合いの席にでも連れ込まされそうなんだよな」
 まあ、そうなったらカミングアウトするしかないよな、と、冗談交じりに斉木は言うが、
「大丈夫、そしたら俺が見合いの席に乗り込んでやりますから。万が一式まで持ち込まれたら、新郎強奪してみせますよ」
 誇らしげに胸を張ってとんでもないことを答える芹沢に、
「やりそうだな、お前はホントに」
 斉木がくせのかかった前髪をかきあげながら、明るく笑う。

 日向の香りのする、精悍な笑顔。

 その笑顔に、どきりとする。
「こんなところで勿体無い」
 思わず芹沢は呟いた。
「は?」
「そんな笑顔、俺以外には見せないで下さいよね」
「……お前ね」
「だから言ったじゃないですか、あんたは俺のもんだって」
 爪の先も、髪の一本だって誰にも渡さない、と、真顔で語る芹沢に、
「どうしてそう、極端から極端に走るかなー」
 わざとらしく仰々しい溜め息をつく斉木の手を、芹沢はしっかり握って歩き出す。
「ま、早いとこ今日のホテル取らないとね。まあ、俺は車でも全然構わないんですけどね」
「……何てこと言ってんだ、お前……」
 露骨な物言いにげっそりとしながら斉木が芹沢を見上げると、視線が合った。
 こらえきれずに、笑い出す。
 衆目を集めていることなど、お構いなしだ。





「さ、行きましょう」
「ああ」





 笑いあい。
 ひそやかに手を繋ぎ。










 二人並んで歩いていくのだ、これからもずっと。















世界が語り尽くした 奇跡を愛の言葉を
もう一度あなたに誓うから そういつもそばにいる

あなただけを暖めて















はい、終了です。
今回はゴスペラーズの『誓い』です。
この曲を初めて聞いた時、この甘ったるさは芹斉だろう、と、思いました(笑)。
最近のゴスのラブソングは割と芹斉ヒット率高いです。『永遠に』とかは実に分かりやすいところですが、『告白』、『パスワード』とか、かなりあうのではないかと。しかし、『パスワード』は書くとなると間違いなくエロモードなので、無理かも。と言うか、私がエロを書こうとすると、お笑いに流れていくので…。そもそも曲を知らない方は興味があったら聞いてみて下さい。
それはさておき、元々、クリスマス合わせで何か書きたいと思っていて、ライオンの方で無礼講のバカ騒ぎを書こううかと思っていたのですが、この曲を聞いた途端、芹斉に鞍替えました。
そのために、他所様への差しあげものを再掲しました。あの設定に立って書いているので。
あれがなくとも通じるように書いてはいますけどね。

そして、クリスマスを休暇にするために、ベスト16どまり…って、J1は16チームじゃん! めちゃくちゃ順位低いじゃん!(笑)。とか思っていたら、現実のJ1で6チームもベスト16から漏れてやんの。イタタタ。ベスト16全然マシって、涙出そうです。
いや、本当はベスト8ぐらいにしてやろうと思っていて、今年の日程を調べたら、準々決勝が24日なんですよ〜。せめて一日前だったらねえ…毎年多少の前後は当然あるんですが、斉木を昭和47年生まれで設定すると、まさに2001年が29才なんですよね〜。この偶然を逃せませんでした。
もっとも、斉木を昭和47年生まれで設定した場合、芹斉におけるJリーグと言うのがパラレルリーグになっちゃうんですけれども。だって、加納の生年月日、原作に書いてあったしさ。それ考えたらパラレルJリーグなのは原作からしてそうなので見逃して下さい(イタタタ)。でも、原作を全く現在進行形とすると、そのうち彼らが平成ベビーになってしまいそうです(笑)。

さて、斉木はいいとこのボンボン、芹沢は…一応決まっていますが、多分ライオンの方でいつか書くと思います。ネタはあるれけどストーリーとしてまとまらない状態。ライオンと言っているぐらいでお笑いなんで、ネタバレはやめときます。お笑いです、ええ(汗)。

それはさておき、 いいとこのボンボンで長男で一人息子で、その上にあの斉木の性格では、芹沢と付き合っている、と言うか、夫婦(笑)同然の生活をしていることは親には言えないだろうなあ、と、思います。しかも妻だしな、斉木。
下手に言ったら連れ戻されかねませんしねえ。血の雨が降りそうな気もしますし…。
でも、何も知らない親にしてみれば、30直前となったらもう見合いだ何だと降るように話は来ていたと思われます。本当のところ、26、7ぐらいから来るだけは来ていたんじゃないかと思うんですけれどね。うーん、30になったところか、現役辞めた辺りで思いっきり親子喧嘩(それで済むんでしょうか)するんでしょうねえ、多分。芹ん家はもう何でも全然OK状態なんですが。呆れるだけで(苦笑)。
年齢を重ねるとこまで行ったら、いつか書いてみたいとは思っていた話ですね。斉木のお見合い話。結構流されるかと思っていたのですが、書き始めたら頑強に抵抗してくれました。むしろ、予想外と言うべきか、あたりまえと言うべきか、芹沢の方を気にし始めましたね。『OUR LOVE』とかの経過を考えれば当然の帰結かも知れませんけど。
すみません、露骨な言葉を使いますが、私的には、斉木はゲイで、芹沢はバイだと思ってます。今までの展開上。
女とも付き合える芹沢の子孫を残す可能性と言うのは、斉木ならば考えてしまうんじゃないかと思うんですよ。好きであればこそ。
芹沢はあいも変わらず自分と斉木のことしか考えていませんが(苦笑)。多分、芹沢自身は自分の子供とか考えたことないんだろうなあ。自分が子供だしな、まだ。下手に子供など出来ようもんなら、子供とママを取り合いそう(笑)。
二人とも解放する、と、同じ言葉で考えていても、そこから先の見てる範囲が違う。
それでも二人だけならハッピー、と言うのが結論なんですが(爆死)。

はい、結局いつもの芹斉です。進歩ないですね。是非じじいになっても頑張っていただきたいものです。

あまり長くなってもなんですから、この辺で。何かありましたらまたよろしくお願いします。

夕日