「ただいまー」
 小さなバッグを肩から下げた斉木は無造作に玄関の扉を開けた。
 現役を引退し、コーチ修行の為に単身赴任をしている斉木には、はっきり言って休む暇もなく、ようやくもぎ取った帰省であった。
 が。
「おかえりなさい」
 別に呼び鈴を鳴らした訳でもないのに玄関で出迎えた芹沢の姿に、斉木は思わず閉めたばかりのドアに張り付いて、体の前で荷物を抱きしめてしまった。
 閉める前に気がついていれば、きっとそのまま逃げ出していただろうに。
 相変わらず完璧な容姿を保っている芹沢は一見、にこやかに笑っている。
 だが、その秀でた額に青筋が浮いているのを見つけてしまったのは、付き合いが長く深い斉木だからこそである。
 あまり嬉しいとは感じられなかったが。
「どうしたんですか? そんなところにいつまでも」
 相変わらず怖い笑顔を浮かべたまま、芹沢が促す。
 お前が怖いからだ、とは、本人を目の前にして言えない斉木は、引きつったオリエンタルスマイルを浮かべるばかりだ。
「ま、とりあえずコーヒーでいいですか?」
 芹沢が踵を返したことで、斉木はようやくプレッシャーから解放された。
 そうして今度は首を捻る。
 一体何が芹沢の逆鱗に触れてしまったのか、心当たりはないのだが、あると言えばある。
 いい加減分別がつくべき年齢に達した芹沢であるが、こと斉木が関わると突然子供のような独占欲を発揮したりするのは、今も変わっていない。
 しかしいつまでも玄関でまごまごしていれば、芹沢の怒りに油を注ぐばかりだ。
 斉木は頭の上にクエスチョンマークを飛び散らせながら、リビングに向かった。
「どうぞ」
 芹沢は二人分のコーヒーカップをテーブルの上に置くと、斉木の隣に座り込んだ。
「ありがと…」
 斉木はなるべく自然に振舞おうとしたが、思わず横目で芹沢を盗み見る。
 すると、芹沢と目が合いそうになって慌てて視線をコーヒーに戻す。
 斉木の気分はほとんどホラー映画の主人公だ。
 一体いつまでこの針の筵に座っていなければならないのかとげっそりしかけたところに、芹沢が口を開いた。
「斉木さん、この間電話に出ませんでしたね?」
 斉木はようやく思い当たった。
 口元を引きつらせながら早口で言い訳する。
「や、あの日はな、早くチームに馴染もうと思って、話をしていた最中で出られなかったんだ。後からかけなおそうと思ってて忘れちゃったのは悪かったと思ってるけど…」
「俺が怒ってるのは、別に、電話に出なかったからでも折り返しもなかったからでもないですよ」
 まさかガキじゃあるまいし、と、芹沢は言う。
 にっこりと満面の笑顔でそんなことを言われても、斉木の恐怖は増すばかりであるが、その辺の考慮はいただけないらしい。
「でもね、斉木さん」
「な、何?」
「お話し合いは結構だけど、その会場は飲み屋ですね?」
 斉木が固まる。
 ぎくぅっ、と、背後に書いてあるかのようだ。
 その姿は、既に自白しているも同然だったが、芹沢は追求の手は緩めてはくれなかった。
「飲みましたね、ビール」
「いや、あの、な、芹沢…」
 両手の平を芹沢に向けて押し止めようとした斉木であったが、逆効果だった。
 無防備になったわき腹を芹沢がぐにとつまんだのだ。
「これは何ですか?」
 薄いが、それでもしっかりつまめるそれは、脂肪の層である。
「飲みましたね?」
「…飲みました…」
 再度、額に青筋立てた笑顔で迫られて、斉木はあっさりと白旗を揚げた。
 文字通り証拠をつかまれては逃げようもない。
「何杯飲んだんですか?」
「う…えっと…」
「何杯?」
「……生大ジョッキ3杯…」
 芹沢に逆らえず、斉木はうつむいて右手の指を3本立てる。
 その手が恐怖のあまり微かに震えている。
 その瞬間、
「それでおつまみは揚げ物なんでしょう! ダイエットの天敵コンボじゃないですか!」
 芹沢の表情が鬼に変わった。
「だーかーらーっっ、あんなに痩せるまで飲むなっつったでしょーが! どうしてそれぐらいのこと守れないんですか!」
「だってお前、やっぱ打ち解けて腹割って話すには飲みはうってつけなんだよ!」
 芹沢の剣幕に、斉木は頭を両腕で抱えて叫ぶ。
「だから俺は飲みに行くなとは言ってないでしょうが! 我慢しろって言っただけで!」
「我慢したよ! 我慢したから3杯なんじゃないか!」
 斉木は飲むのも好きだし、強い方だ。
 大ジョッキ3杯ぐらいでは酔うにはまだ程遠いほどに。
「みんなうまそうに飲んでるのに、俺だけノンアルコールなんて拷問だー!」
 最後はほとんど悲鳴である。
 心底からの叫びは、並の者なら涙を誘うほど切実感に溢れていたが、残念ながら目の前の男はいろんな意味で『並』からははみ出した規格外の人間だった。
「それぐらいのことが何だって言うんですか」
 あっさり一蹴である。
「太るのに比べたらどうってことないでしょ」
 と、十年来髪型以外は何も変わっていない、またこの後も十年ぐらい全く変わりがなさそうな、年をどこかに置き忘れてきたとしか思えない芹沢は言った。
 芹沢にとっての一番はサッカーと斉木が双璧だが、その次ぐらいに来るのが多分、己のルックスである。
 芹沢は斉木と一緒に暮らし始めてから、病気や怪我以外の理由で体重が1キログラム以上の増減をしたことがない。
 確かに芹沢のルックスは嫌味なほど完璧だが、その完璧を保ち続けるには想像を絶する節制が必要なのだと、一緒に暮らして初めて斉木は知った。
 その節制を続けている芹沢の精神力には素直に頭が下がる。
 尊敬しているとさえ言ってもいいかも知れない。
 しかし、その節制を斉木にまで求められるのはごめんこうむりたい。
 何しろ生半可なものではないのだから。
 だが、現役を引退し、コーチ修行のために別居せざるをえなくなった時に、芹沢が組んだトレーニングメニューを毎日こなすこと、毎日の食事内容をメールすること、目標体重に落ちるまで禁酒することの3っつを芹沢に強引に約束させられたのだ。
『俺が飯作れれば心配しないんですけどね、あんた、ほっとくと忙しいからってコンビニ弁当で済ませそうだし』
 ため息を吐く芹沢に、図星を指されて返せる言葉は斉木にはなかった。
 そうなると人間怒るぐらいしか残されていないのだが、
『体重オーバーしたら膝に悪いですよ』
 と、正論で諭されて、逆ギレできるほど斉木は図々しくは出来ていない。
 だが、しかし。
「お前なー、世の中には付き合いってもんもあるんだぞ…」
 根っからの体育会系で、協調性を美徳とする斉木は、よほどのことがない限り、誘われたら断れない。
 で、アルコールを勧められればまた断れない。
 まして元々好きなら尚更である。
 大体、引退直後の今はけして太っている訳ではないのだ。
 それに、大の男がダイエット中と言って、場を白けさせてしまったら悪いじゃないかと、斉木は考える。
 が。
「まだ現役の筋肉が残ってる今から落とすんでしょうが。いつまでも現役時代と同じだけ飲み食いしてたら、そうでなくても斉木さんは太りやすい体質なんだから、中年太りの道をまっしぐらになるのがおちですよ」
 そんなに中年太りしたいんですか。
 中年太りになってから痩せようったって、その時は今の比じゃなく苦労しますよ。
 はっきりきっぱり。
 真顔でく正論を告げる芹沢に、斉木は撃沈する。
 完全に言葉に詰まった斉木を見て、芹沢は再び笑顔を浮かべた。
「これからしばらく、いつものトレーニングメニューにエアロバイク1時間追加して下さいね」
 しかし、情け容赦は小指の爪の先ほどもない。
「このコーヒー飲んだら早速取り掛かって下さい。俺、その間に飯作りますから」
「鬼! 悪魔!」
 畳み込まれて子供並みの悪態を吐いたところで、
「はいはい、頑張って下さい」
 右から左に流され、そして言うことを聞かなければ後で更に恐ろしい出来事が起こるであろう我が身を想像し、斉木はクッションにのの字を書くぐらいしか出来なかった。





3万ヒット&お誕生日おめでとうございます。
本当にくだらない話ですが、笑っていただければ幸いです。
斉木さんが引退済と言うことは、芹沢も30代に載っているはずなんですが、普通に老けた芹沢は想像つきませんね。
斉木さんの普通に老けた姿と言うのは、簡単に想像できるんですけれどもね。

夕日(2004.06.11)