あの手の感触が忘れられない―― 熱を持って火照った額に触れた、あの手。 優しく心地よい滑らかさで、病を癒してくれた。 だが、どうすればいい。 この心に新たに宿った、病は―― 名を呼ばれて芹沢は足を止めた。 振り向かなかったのは、その声に聞き覚えがあったからだ。 今一番顔を見たくない相手なのだ。 だから一端は止めた足を大きいスライドで動かしてその場を離れようとした。 が、一瞬遅かったようだ。 追いついてきた相手に腕を捉えられてしまった。 「何か用ですか」 芹沢は愛想のない声を出した。 「斉木さん」 不機嫌丸出しの声で名を呼ばれたにも拘らず、斉木は全く気にしていないようであった。 意志の強さを表す眉を心配げに寄せて、芹沢に問いかけた。 「お前、もう具合はいいのか?」 「お陰様でね」 「そうか。良かった」 ほっとしたように息を吐く斉木に、芹沢はもう何度心の中で呟いたか分からない言葉をもう一度呟いた。 『本当にお節介だな。この人は』と。 昨日のことである。 芹沢は風邪を引いて発熱してしまったのだ。 ユース選抜の合宿中のことであり、芹沢はさすがに自分が情けなかった。 だが無理をして治るものでもなく、熱が出てくると大人しく寝ているしか術はない。 外から聞こえてくるチームメイト達の喚声に、発熱をして朦朧としているくせに焦燥だけははっきりと心を騒がせるのだ。 居ても立ってもいられなかったが、それでも薬のおかげで眠ることはできた。 ・・・夢を見ていた。 暖かくて優しい夢だった。 子供の頃に見たような、幸せなだけの夢を。 覚えず微笑みを浮かべていた。 人の気配に誘われて覚醒した。 曖昧な意識が捕らえたのは、額に当てられた掌の感触だった。 自分を気遣うように、優しく触れる手の感触。 この手のせいで、あんな夢を見たのだと判った。 だが、一体誰の手なのだろうか? ゆっくりと開いた瞳に飛び込んで来たのは、予想もしない人物だった。 斉木、だったのだ。 意外と言えば意外であったが、ユースの面子の中で病人の看護を買って出るような酔狂な人間など斉木しか居なさそうで、そう考えれば当然なのかもしれない。 「起こしちゃったか?」 斉木が気遣わしげに言い、芹沢の額から手を外した。 その手が離れていくのが妙に淋しく感じる。 その手の持ち主が女性――例えば、掛川のマネージャーの遠藤とか――ならばその手を取ってキスの一つでもするのだが、いかんせん相手は斉木である。 可笑しくなって、芹沢は小さく笑った。 「看病してくれたんですか?」 「見てただけだがな……起きれるか?」 そう言いながら、コップにスポーツドリンクをついで芹沢に差し出した。 力の戻りきらぬ身体を支えて起き上がると、サイドテーブルには寝汗を拭ってくれていたのであろうタオルやら、微かに湯気の立つ鍋等が置いてある。 このスポーツドリンクも、斉木が用意した物ではないだろうか。 『見てただけ、ねぇ』 芹沢はコップを口に運びながら、少しばかり呆れた。 発熱で水分を失っていた体の隅々に、潤いが行き渡る。 斉木の心遣いが、正直に有難かった。 だがこの気の付き方は何なのだろうか。 今までに幾人もの女と付き合ってきたが、ここまでマメな者はいなかった。 礼を言ってコップを返しながらも、つい、芹沢は口にしてしまった。 「あんたって本当、世話好きなんですね」 「お節介って言いたいんだろう」 ベッドの傍らの椅子に腰を落ち着けている斉木が、上目遣いに芹沢を睨んだ。 「ビョーキだって、よく言われる」 拗ねた様な口調に、芹沢はふと、可愛い、と思ってしまった。 勿論すぐに我に返って打ち消したが。 大体、斉木は男であり、しかも鍛えられた肉体の持ち主なのだ。 その斉木を捕まえて、可愛い、等……だがそう思ってしまった。 芹沢は一つ頭を振った。 熱の所為だ。そうに決まっている。 「おい、芹沢?」 様子のおかしい芹沢を心配した斉木が、顔を覗き込んでくる。 「大丈夫か? 頭、痛いのか」 斉木の顔が間近にある。 芹沢は慌てて斉木から体を離した。 「……そんなに嫌がらなくてもいいだろう。 そりゃあ、お前好みの可愛い女の子じゃないけどさ」 斉木は誤解して言うが、決して腹を立てている訳ではないようだ。 どちらかというと面白がっている口調である。 口元に笑みが浮かんでいる。 どうやら芹沢の女癖の悪さを聞き及んでいるらしい。 その出所は共通の親しい者――内海――であろう。 余計な事を、そう芹沢は思ってからはたと気づいた。 別に意中の女の子でもあるまいし、癖の悪さを知られたとしても困ることはない。 何せ相手は斉木先輩、なのである。 ただその手の感触が余りに心地良かったものだから、調子が狂ってしまったのだ。 その斉木の手に視線をやり―― 「何してるんですか……?」 芹沢は思い切り不審そうな声を出していた。 斉木が、両手で氷嚢を握り締めていたのだ。 「ああ、これね」 俯いて自分の手元に瞳を落とす。 「手、どうかしたんですか。 傷めたとか?」 問う声が、自分でも意外なほど心配そうだった。 斉木はバツが悪そうな表情をして、氷嚢から手を離す。 冷え切った手が赤くなっている。 「看病のことを手当てって言うだろ?」 そう言うと斉木はおもむろにその手を、芹沢の額と頬に当てた。 「こうやって冷やしてたんだ」 斉木の触れた部分に、一気に熱が集まった。 その手は冷たかった。 しかしその心地よさは、一端取り去ったはずの熱を再びもたらしたのだ。 初心な子供のように、触れられただけで熱くなってしまう……それがどういう想いなのか。 判っているからこそ、芹沢は混乱せずには居られなかった。 芹沢にまでビョーキのお節介と言われたくないらしい斉木が、お前寝相が悪いから氷嚢が落ちるんだ、とか言い訳していたが、だからといって手が赤くなるまで冷やした自分の手で熱を取ろうとするなど、どう見てもお節介もビョーキの域に入っている。 これははっきり言って罪だ。 こんなに優しくされれば、誰だって誤解してしまうではないか。 斉木にとって自分は特別なのではないかと。 自分の思考に眩暈を覚え、芹沢は再びベッドに倒れ込んだ。 「芹沢、大丈夫か? 又熱が上がったんじゃないか」 斉木が心配そうに見詰めるものだから、芹沢は蒲団を頭から被って視界を遮った。 「大丈夫です。 俺、もう一眠りしますから、斉木さんは行っていいですよ」 とにかく一人になりたかった。 そうすれば、この途轍もなく異常な感情も、治まるだろうと思ったのだ。 だが。 「判った。 ちゃんと大人しくしてろよ。 それとその鍋、お粥だから食べられるようだったら、食べろよ」 斉木はさりげなく爆弾を投げていった。 『あんたが作ったんじゃないだろうな!』 蒲団を被ったまま、心の中で芹沢は叫んでいた。 ――結局、冷めてしまってから食べたお粥は美味極まりなかった。 だから、芹沢は斉木の顔を見たくなかったのだ。 いま自分の心を占領している想いに、意味のある言葉を当て嵌めたくなかったし、又認めたくもなかった。 それなのに、目の前で自分の回復を喜んでくれる斉木を見ていると、心が騒々しく騒ぎ出す。 これはもしかして、ときめきとか言うものだろうか。 調子外れの鼓動で、煩い位なのだ。 この俺が、女に不自由したことがなく何時でもクールなこの芹沢直茂ともあろう者が、何でこんな男に…… 芹沢は頭を抱えた。 「おい、どうしたんだ? まだ治ってないんじゃないのか?」 斉木が、芹沢の顔を覗き込む。 間近にある、その顔。 芹沢は頭の中で何かが切れた音を聞いた。 「そういえば、まだ御礼をしてなかったですね」 「御礼?」 きょとんとした表情をする斉木を可愛いと思うに至って、芹沢は認めない訳には行かなくなった。 自分が、落ちたのだ、という事を。 「看病の、ですよ」 そう囁くと、斉木の顎に指を掛け、顔を仰向けさせる。 そしてその唇に口付けた。 触れるだけの口付けだった。 甘い。 芹沢は、自分の感覚という感覚全てがその接触に集中している気がした。 「な、何を……」 口篭る斉木に向かって、わざと冗談めかしてウインクを一つ投げる。 「だから、お礼ですよ」 「バカヤロー!!」 顔を赤くして手を振り上げる斉木から、芹沢は素早く身を離した。 「こういうお礼は女の子にでもしてろ!」 斉木は憤然として言う。 彼は何も判っていないのだ。 当然と言えば当然であるが。 もし、今貴方だからしたのだと告げたら、彼は何と言うだろうか。 冗談は言うなと、却って怒らせるのが関の山だろう。 だから、今は何も言わない方が良い。 長期戦は覚悟の上。 何しろ彼は、落ちてしまったのだから――恋、に。
――Falling―― |