Hermitage 新しく越して来た家には屋根裏が付いていた。 彼が好きそうだと思ったから、我侭を言ってその部屋を貰った。 母は、物置にするつもりだったらしい。 業者に任せきりだった引越しが終わると、そこは母の指示で既に多くの荷物が運ばれていた。 その荷物を別の部屋に移し、モップを握った。 彼と違って、掃除は苦手だ。 だがここは綺麗にしなくてはいけない。 彼を、招待するのだから。 ――久し振りにあった彼は、以前のようではなくなっていた。 自分が変わっていないとは言わないが、再会を楽しみにしていた僕にはショックが大きかった。 それも、彼の所為ではなく、僕の所為でもなく、ただ時間と言う人の力ではどうしようもないものが、取り返しのつかない傷のように僕らの間に横たわっているのだ。 否、そうではない。 あいつさえ居なければ、彼は以前に戻れるのかもしれなかった。 そしてそれこそ、どうにもならないことなのだ。 過去を消すわけには行かないし、忘却するには鮮烈過ぎるのだ、あいつは。 だから、僕はここに彼を招待する。 新しい二人、を形作る為に。 泊まりで遊びに来てと誘ったとき、彼はきょとんとしていた。 僕は散々以前と変わらぬ友として付き合いたいと意思表示していたのに、彼には通じていなかったのだ。 それとも無言の拒絶だったのか。 少し考えてから、彼は頷いた。 気が変わらないうちにと、その日の夜に日を決めた。 彼は周りを気にしていたが、構うものか。 誰に知られても良い。 以前のようには無理だとしても、名を呼んで、そうしたら彼が春の日なたの様な笑顔を返してくれる。その一瞬を取り戻せるなら…… 夜、貴人を迎えるように恭しく彼を迎え入れた。 もてなす部屋は貴賓室ではなかったけれど。 天井は屋根の勾配そのままに三角形を作り、床に接している。 ちょっとでも部屋の中心から外れるともうまともには立っていられない、およそ人が住むには適していない空間だ。 それでも彼は、ドアを開けるなり目を輝かせた。 本当に三角形なんだな、と楽しげに言う。 電気、消すよ。 もっと嬉しがらせたくて照明を消した。 突然の暗闇に足元の覚束なくなった彼の腕を取って、視線を促す。 その先は、天井に大きく造られた天窓だ。 晴れ渡った夜空が、瞬く星が、手の届きそうな距離に見える。 矩形に切り取られた、小宇宙。 彼が少し長い息を吐いた。 綺麗だな、そう言うと急に弾んだ声になって、ここに天体望遠鏡を持ってきて良いか?と訊いて来る。貰い物なんだけど使ってなくて、でもここならぴったりだから。 勿論良いよと僕は答える。 この部屋に彼の物を置いて、そうしたら彼はここによく訪れるようになるかもしれない。 闇に慣れた目は、彼の屈託のない笑顔をしっかりと捉えている。 この笑顔が見たかったのだ。 何嬉しそうにしてるんだ? 昔みたいに笑ってるから。 不思議そうな彼にそう答えたが、彼は返事をしなかった。 唯黙って、天窓の真下に寝転がってしまった。 彼は自分を大人っぽいと思っているらしいが、僕から見れば全然そんなことはなくて、時々ひどく幼い。 それはその精神に汚れていない部分が、決して汚れない部分があるからだろう。 無垢は、幼児性に繋がり、しばしば暴力的にもなるものだ。 彼の傍らに腰を下ろした。 なるべく近くに。 どうすれば良いか判らなかっただけで、と彼は星を見詰めながら言った。 忘れた訳じゃなかったんだ。 うん、とそれだけ僕は言った。 彼のその言葉だけで、僕は満足だった。 二人だけの空間。 他に誰も居ない――以前だってこんな時間がたくさんあった訳じゃない。 むしろほんの少しだけ……それなのに二人だけで居る事が当たり前のように感じる。 そう感じるのが、僕だけじゃないなら良い。 彼を誰より大事だと気付いたのは再会してからだった。 僕と彼だけだった時には、気付く必要もなかった。 今は二人の間に色々な物があって、だからこそそのどれより大事だとし識ったのだ。 言葉を必要としない沈黙の中で、彼はいつしか寝息を立てていた。 天窓には丁度満ちた月が掛かり、屋根裏を青銀色に染め上げる。 横たわる彼の身体も月光に照らされ、それ自体発光しているかのようだ。 閉じられた瞼は青い血の色を透かして、薄い貝殻で作られた細工物の様に繊細で、僕はそっと指を触れて見た。 睫毛がぴくりと震える。 起きているのだろうか。 僕はわざとくすぐるように瞼から頬へ指を走らせる。 彼は僅かに身じろぎしたけれども、相変わらずそ知らぬ振りをしている。 狸寝入り? 耳元に唇を寄せ囁いた。 彼の体香が鼻腔を満たし、僕は陶然となる。 うっとりと名を呼んだ。 人前では彼の姓を、年下だからとさん付けをしなければならないのが、癪に障る。 でも今は、彼を呼び捨てに出来る。 何度も。 名を呼んで、そして、好きだよ、と言った。 莫迦。 短く返事が返ってくる。 目を閉じたまま、恥ずかしがっているのが判る。 やっぱり狸寝入りだった。 笑って言うと、首を抱き込まれて床に引き倒された。 莫迦言ってないで星でも見てろ。 首を抱いたままの腕が離れるのが惜しくて、大人しく言うなりになった。 天窓から降る月光に、二人して照らされる。 僕ら以外は全て死に絶えたような静謐。 昔のように素顔を見せる彼。 不意に胸が満たされて、涙が溢れそうになった。 彼の体温が、滑稽な位僕の心を暖める。 再会した彼の、まるで初対面のような態度が、どれ程心を冷やしていたんだろう。 もう二度と、放したくない。 この部屋、好きだな。 彼がぽつりと言う。 僕らの部屋だよ。 幸福な心地のままに言った。 他には誰も入れないから。 呼び名を付けよう。 この部屋を、何て呼ぼう。 問う僕に、彼はしばらく考えてから答えた。 その呼び名は、僕の気に入った。 だからここにはそう名が付いている。 「隠れ家」と――
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