――斉木は内海の目の前で突っ伏したまま動かなかった。 石鹸の香りを仄かに香らせているのは、試合の後一旦帰宅し、身繕いを整えてから内海の家を訪れたのだろう。 その間斉木は、全く普段どおりに振舞っていたに違いない。 普通通りに話し、歩き、笑い……自分のやっていることが、自分で判って居なかったであろう。 あらゆる感情がその心の中で渦巻き、飽和状態になっているのだ。 自分の感情を晒す場所に内海の傍らを選んだのは、自分を慰めたりしないからだと斉木は言う筈だ。 『可愛い女の子の涙ならともかく、男が泣くのは鬱陶しいだけなんだよ!』 そこら辺りが斉木の望みの台詞なのだ。 『ひでぇな、少しは優しくしろよ』 斉木はそう答えて微笑うだろう。 自分では少しも意識しない儚さを纏って。 俺の優しさなんか、求めてないくせに。 内海は顔をうつ伏せたままの斉木に強い視線を当てた。 彼の目は美しく、力強い。 その眼で幾人を威圧し、また惹きつけてきた事か。 だがその瞳に幾ら力を込めても、斉木は何も気付きはしないのだ。 斉木が欲しいのは内海ではない、ただ一人の者の優しさだった。 そして斉木は、それを失ってしまった。 多分永遠に。
風乱 斉木の恋人なのだと、突然に現れた男は言った。 内海は彼らしくもなく唖然としたまま二の句が告げなかった。 その男には一面識もなかったが、噂だけならいやと言うほど聞いている。 だが改めて考えると、その噂の大半は斉木の口から聞いたような気がする。 何でそんなに自慢気なんだ。別にお前のチームメイトでもないだろうに。 うんざりして聞くと、口篭って黙り込んだものだが。 そう言う付き合いだと言うなら、斉木の素振りにも納得がいく。 驚かないんですね。 その男は予想していたように言う。 呆れているだけだと内海は答えた。 この男の訳知り顔が気に食わなかった。 その口から、何か無残な現実とでも言うべき物が飛び出してきそうで、嫌な予感が内海を攻撃的にする。 親友の恋人が同性であったのはどちらかと言うと笑い話の範疇に入るだろう。 あちこちにお節介を振り撒いて回る奴だから、無意識に引っ掛けてしまった犠牲者の内の一人が斉木を独占する事に成功したのであろう、程度に内海は考えた。 物好きだな、斉木なんぞに。 揶揄する口調で言うが、にこやかに返されてしまう。 お互い様でしょう? 言っている意味が判らず、内海はますます無愛想になった。 何の用があって来たんだ。 用がないなら帰れ、と言外に言ったつもりであったが、相手は話の接ぎ穂が出来たとばかりにお願いがあるんですと切り出した。 自分は誠を愛しているが拠所無い事情で別れなくてはならなくなった。 自分は仕方ないが誠が心配だ、と。 そんなの知ったことか。 そう言おうとしたが、口から出たのは先を促す言葉だった。 誠はああいう性格だから自分から好きだと言ってくれたことがなくて、今になってそれを後悔しているんです。 やたら好き好き言ってばかりで。 惚気なら他所でやってくれ。 内海が遮ったが、相手は顔を歪める様にして笑う。 惚気ならいいんですけど、そうじゃない。 誠は俺が誠の気持ちを同情とか言い訳と受け取ってると思ってる。 俺を傷付けたと。 斉木ならありそうな事だと内海は聞きながら思う。 他人の世話ばかり焼いて、誤解されたり裏目に出たりしても懲りずに繰り返す。 俺がついていてやらないと心配だ。 内海はそう思っている。 恋人と自称するこの男だとて、斉木を守ることが出来ないのだから。 その自負が如何に危ういものか、内海自身気が付いておらぬ。 相手の視線が切りつけるように険しくなったのを訝しむだけだ。 お願いと言うのは、と危険な瞳を隠すように逸らしつつ言葉を継ぐ。 俺との事で誠は人を好きになることを恐れるようにかもしれない。 その時はあなたが―― 俺が、何だよ。 口篭る相手を促すと、その面に笑顔を張り付けて内海を見た。 笑っているのは口元だけで、目は笑っていない。 あなたが誠の背を押してやって欲しいんです。 俺は誠に髪の一筋ほどにも傷つけられていない。 そのことを誠に教えてやって欲しい。 俺は誠のおかげで幸せだった、心は誠の所に置いて行くと。 男の言葉は真摯ではあったが、不吉な色を帯びていた。 それは呪いの文句なんじゃないか? 本当はお前、斉木を手放す気なんてないんだろう。 内海の問い掛けは全くの見当外れか、図に当たったかのどちらかであった。 男は返事を与えなかったが、傲慢とも虚勢ともつかぬ笑いを返したのだ。 内海はらしくもなく気圧された。 一つ聞かせろ。 本音を言うとすぐにでもこの男とおさらばしたかった。 が、これだけは聞いておかねばならぬ。 何で俺んとこに来たんだよ。 返事はすぐに返ってきた。 まるで内海の問いを予知していたかのようだ。 あなたが一番近いからですよ、内海さん。 判るように話せよ。 そう言うと、判っている筈だ、と言った。 あなたは判っている筈です。 もし判らないにしても、その内判るようになると思います。 謎掛けのような言葉を残し、男は内海の前から去った。 意味が判らなかった。 そのことが内海を苛付かせた。 考えても意味の無い事だと忘れ去ろうとした。 だがそれを忘れることが出来ぬまま、今正に内海はその意味を知った―― 目の前の斉木は泣いては居なかった。 ただ密やかに痛みにも似た悲しみに身を委ねているだけなのだ。 いっそのこと泣き喚いてくれた方がいいと、内海は思う。 二人きりの部屋を満たす沈黙。 斉木には心安いものかもしれないが、内海にとっては居たたまれない沈黙であった。 泣けないほどにあいつが好きだったのか。 そう聞きたいが、喉に錘でも詰まったかのように声が出ない。 何故あいつなのか、何故こんな事になったのか、何故お前は俺の目の前で悲しみに耐えるのか……聞きたいことは山ほどあるというのに。 しかし、聞かぬ方がいいのかもしれない。 聞けば斉木のあの男に対する気持ちを思い知らされるだけだろう。 そして自分が、斉木にとって友としかなり得ないことを。 「顔を上げろ、斉木」 有無を言わせぬ口調で言う。 斉木に言うことを聞かせるなど、内海には容易い。 のろのろと顔を上げた斉木の頬は、やはり濡れていなかった。 だがその漆黒の瞳は、清水を湛えた湖のようだった。 静かに瞬きをすると一筋の涙が、緩やかに落ちて行く。 こんな泣き方を何時覚えやがったんだ。 内海は腹立たしく、口惜しい。 こんな風に、あの男は内海の知らない斉木を知っているのだ。 そしてその斉木は自分の物なのだ、と…… そうか。 内海は記憶の中の男に向かって呟いた。 お前が呪いを掛けたかったのは、俺だったんだな―― 離れていく自分。 残された斉木が弱みを見せるのは、内海であろう。 斉木に一番近く、そしてまたそう言う意味では自分に一番近い。 だからこそ斉木に掛けた呪縛を、わざわざ内海に知らせに来たのだ。 内海は整った顔を、一瞬だけ自嘲に歪めた。 しかしすぐにいつもの調子に戻ると拳を握り、訝しげに自分を見つめる斉木の頭を思い切り殴った。 斉木は頭を抱えて蹲ったが、立ち直ると内海を怒鳴りつけた。 「何すんだよ! 痛てぇだろうが!!」 「痛てぇなら、泣きゃあいいだろ」 内海は平然と言った。 はっとして目を見開く斉木に、乱暴な、しかし優しさ以外の何物でもない言葉を掛けた。 「俺のとこに何しに来たんだよ。 我慢なんかしやがったら、また殴る」 その言葉を聞き終わるや、斉木の瞳から大粒の涙がこぼれ出した。 「手間掛けさせんじゃねぇよ」 内海は言い捨てると斉木に背を向けた。 抱き締められないのなら、泣き顔など見たくはない。 その背中に斉木が触れる。 「内海……ありがとうな」 嗚咽に紛れそうになりながらやっとそれだけを口にする。 内海は返事を返さなかった。 薄いシャツ越しに、斉木の体温が伝わる。 内海はそれを振り払えないでいる。 斉木の触れた背は熱く、しかしその涙は冷たい。 内海はその冷たさで心を冷やそうと躍起になった。 目覚めつつある想いに、斉木も自分自身にも気が付かせぬ内に殺してしまおうと。 本当の気持ちは誰にも言わない。 押し殺して隠し通して見せる。 だから俺に教えないでくれ。 ――これが、恋だなんて――
fin.
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