初めての酒場

 夜も更けたタルシスの大通りに二つの足音が響く。
「辺境伯に言われたのだ」
「あの方は特別です。この街であの方の顔を知らぬ者などおりませんし、襲う愚か者もおりません」
「ゴロツキ如きに襲われたとて遅れはとらぬぞ」
「その点に疑いはございませぬが、それでも皆が心配します。せめて供を一人お付け下さい」
 その二つの足音はある店の前で止まる。
 先に立っていたワールウィンドがバルドゥールの目的地であった店のドアを開けた。
 タルシスの街中にある踊る孔雀亭は、今夜も冒険者達で賑わっている。
 騒々しい店内でも入り口のドアベルの音は聞き逃さなかった女主人が愛想よく声をかけた。
「いらっしゃい」
 そう声をかけてから振り向いて、ちょっとやそっとでは動じない女主人が少し驚いた表情をする。
「あら、珍しいお顔ね」
 その視線はワールウィンドの斜め後ろに立つバルドゥールに向けられている。
 女主人は店の奥をちらりと見て、言った。
「さ、どうぞこちらへ」
 女主人は酒場の奥の少し影になる席へと二人を案内する。
 その席からは店内を見渡せるが、他の客席からは少し影になって見えにくい。
 そこは辺境伯が訪れた時に案内する席であった。
「一体どういう風の吹き回しかしら。こういう方を連れて来る時は、出来れば先に知らせて欲しいのだけれど」
 と、女主人はワールウィンドへ言う。
 すると、ワールウィンドが何か答えるよりも先にバルドゥールが口を開いた。
「すまぬな、主人。辺境伯に社会勉強に行って来いと言われて来たのだ。最初は一人で来るつもりだったのだが、途中でローゲルに見つかってな」
 それを聞いて、女主人は同情の視線をワールウィンドへ向ける。
「辺境伯は緩いからねえ。この店なら安全だからお連れしたと言う訳さ」
 ワールウィンドが軽く肩を竦めて言った。
 全く、と、女主人も一つ頷いて、そうして改めてバルドゥールに向き直る。
「ようこそ踊る孔雀亭にいらっしゃいました。どうぞこれからも御贔屓になさって下さいね」
「うむ。こちらこそよろしく頼む」
 バルドゥールが鷹揚に頷いたその時、店内に流れていた音楽が止んだ。
 そして拍手喝采が起こる。
 何事かと視線を向けると、その喝采の中から見知った顔が現れた。
「あれ、皇子サマがこんなとこに何でいるの」
 かの冒険者ギルドのダンサーが無遠慮に言い放つ。
 しかしバルドゥールは気を悪くする様子もなく、女主人へした説明を繰り返した。
「辺境伯に社会勉強をして来いと言われてな」
 すると、冒険者は眉間に指先を当ててため息をつく。
「辺境伯は、あの人特別ユルイからなあ」
「先ほど主人にも同じことを言われたのだが、そうなのか?」
「普通、偉い人は冒険者が出入りするような酒場には来ないもんだよ。冒険者なんてピンキリだからね」
「貴公も冒険者ではないか」
「そうだよ、だからヤバイ奴が紛れ込んでるのも知ってるんだ。でもま、少なくともこのタルシスの中ではワールウィンドの旦那さえ連れていればヤバイことにはならないだろうけどね」 「そうなのか」
「旦那は顔だもん。この街に来て間もない奴でもなけりゃ、旦那に喧嘩売る馬鹿はいないよ」
 と言いながら、冒険者は招かれてもいないのにバルドゥール達の席につく。
「ちょ…」
「今一踊りしたら結構おひねりもらって気分がいいんだ。今日は俺が奢ってあげるからさ、入れてよ」
 ワールウィンドが何か言うより早く、冒険者は近くにいた店員を捕まえて注文を通してしまう。
 まだワールウィンドは何か言いたげだったが、バルドゥールが手を挙げて抑える。
「よかろう。余も貴公らとは一度ゆっくり話をしてみたいと思っていた」
「お待たせしました」
 先ほど注文を受けた店員がすぐに飲み物を持って現れる。
「こちらエールになります」
 ジョッキを二つ置いた後に、小さなグラスを一つ置く。
「それと、火酒のロックです」
 置いてから、冒険者へ心配そうに尋ねる。
「本当にいいんですか? かなり強いですよ」
「うん、いいの、いいの」
 冒険者は調子よく答えて、そうしてその火酒のグラスをワールウィンドの前に置いた。
「はいっ、旦那はこれね」
「これねって、ちょっと待て。火酒はロックで飲むようなもんじゃ……」
「勿論意趣返しだよ。俺はこれで許してあげる」
 ワールウィンドは、バルドゥールが見たこともないような慌てた表情をしている。
 対する冒険者は輝かんばかりの笑顔だ。
 そういうことかとワールウィンドは深いため息をついた。
「これ以外の罰ゲームはないのかな?」
「ないねえ。今思いついちゃったからねえ」
 にやり、と、音がするような笑顔を浮かべた冒険者が、バルドゥールの前にジョッキを置く。
「皇子サマはこっちね」
 冒険者は自分もジョッキを持つ。
「はい、かんぱーい」
 バルドゥールに無理矢理ジョッキを合わせると一気に飲み干す。
「お姉さん、おかわり」
 あっと言う間に追加注文を出す冒険者からバルドゥールはワールウィンドへ視線を移す。
 ワールウィンドはグラスに少し顔を近づけて、その強いアルコールの香りにうんざりした表情をしていた。
 正直逃げ出してしまいたかったが、そうしたらバルドゥールの供がいなくなってしまう。
 当然その状況を鑑みて冒険者は裏切りの意趣返しを思いついたのであろうし、最初から逃げ場などあるはずもなかった。
 ワールウィンドが何かを呟いたことにバルドゥールは気がついたのだが、賑やかな店内の音に紛れて聞こえなかった。
 そうして、ワールウィンドは覚悟を決めた様子で火酒を煽った。
「う……」
 飲み干した後に思い切り咽る。
 本来なら割って飲むものをほとんど生で飲まされたのだから当たり前だ。
「お見事」
 パチパチパチとわざとらしい拍手をして、冒険者は言った。
「よく飲んだね、あんなの」
「無理矢理飲ませたのは君だろう」
「そんな人聞きの悪い」
「よく言うな、君は」
 と、そこでまたワールウィンドが咽る。
 やたらアルコール度の高い酒をほとんど生で飲まされたので、喉が焼けるようなのだ。
「じゃあこれ、口直しに。大丈夫、まだ俺口つけてないから」
「あれ飲ませて口直しもエールか……」
 どこまでも調子がいい冒険者に対して、咽るあまりに涙を浮かべてワールウィンドが詰る。
 その姿は間違いなく冒険者ワールウィンドだ。
 帝国騎士ローゲルではなく――
 そんな様子を眺めていたバルドゥールは、何か居心地の悪い気分になってジョッキに残っていたエールを一気に飲み干した。
 冒険者はその様子を見逃さなかった。
「あれ、皇子サマも結構イケルくち?」
「嗜む程度には飲むな」
「へえ。じゃあエール後二つ追加ね」
 完全に場の主導権を冒険者に握られて、バルドゥールが呟く。
「これが辺境伯が言っていたいろんな人間とかかわると言うことか」
「いいえ、違うと思います…」
 口直しのエールを飲みながら、ワールウィンドが答えた。

 そのままさしつさされつ夜も更けて。
「はいはい、そろそろ店仕舞いよ」
 女主人がバルドゥール達のテーブルに閉店を告げにやって来た。
「じゃ、勘定お願い」
 女主人が勘定のために店の奥に引っ込むと、バルドゥールが冒険者へ言った。
「なかなか楽しい時を過ごせた。礼を言う」
「いいって。今日は最初に言った通りに意趣返しだったからさ。ね、旦那」
 バルドゥールと冒険者の視線を受けてもワールウィンドは無言である。
 よく見ると顔色が悪い。
「どうした、ローゲル?」
「旦那、大丈夫?」
「ご心配おかけして申し訳ありません。大丈夫……」
 ワールウィンドは最後まで言えなかった。
 無理矢理立ち上がろうとして、膝から崩れる。
「ちょっ、旦那!」
 冒険者が慌てて駆け寄る。
 ワールウィンドは片手で目元を押さえて、悪態をついた。
「十年ぶりの飲酒だったのに、あんな無茶なものを君が飲ませるから……!」
「え、十年ぶり? もしかして旦那」
「タルシスに来て以来一滴も飲んでない。飲める状況じゃなかったからな」
「あらま、そうだったの」
 ワールウィンドは何とか立ち上がろうとするが、許容量を大幅に越えた状態で足腰に力が入らない。
 護衛もへったくれもない醜態にワールウィンドは穴があったら入りたい気分である。
「醜態をお見せして申し訳ございません、殿下」
 そこへ勘定をして女主人が戻って来た。
 一目で状況を理解し、冒険者へ言う。
「あらやだ、置いていかないでね。ちゃんと飲ませた責任とって連れて行くのよ」
「もう、しょうがないなあ。こういう力仕事は俺の本分じゃないんだけど」
 とは言え、クエストをまとめる女主人を怒らせると後が怖いので、冒険者はワールウィンドに肩を貸して立ち上がらせようとする。
「旦那、支えるけど自分でも歩いてよ」
「歩けるものなら歩いてるよ……」
 ゴチャゴチャとやり取りしているところへ、それまで黙って様子を見ていたバルドゥールが口を出した。
「よい。余の騎士の不始末は余がつける」
「え、でも、ちょっと皇子サマじゃ身長が……」
「関係ない」
 バルドゥールとワールウィンドでは頭一つ近く身長が違う。
 肩を貸すにも無理がある、と、遠回しに言う冒険者の前で、バルドゥールはワールウィンドの背中と膝の裏に腕を通して軽々と抱き上げたのだ。
「……!!」
 ワールウィンドが声にならない悲鳴を上げる。
 冒険者と女主人も驚きのあまり声が出ない。
 バルドゥールがワールウィンドをお姫様だっこする図はなかなかシュールである。
「で、殿下っ、申し訳ありません、降ろして下さいっ、自分で歩きますっ」
 涙目で訴えるワールウィンドの言葉を、バルドゥールは冷酷に切って捨てた。
「歩けもしないくせに何を言う。暴れられるといくら余でも厳しい。しっかり捕まっておれ」
「いえっ、ちょっとこれは……っ」
「それでは主人、また次の機会によろしく頼む」
「ああ、はい、是非またいらして下さいませ」
「では、失礼する」
 ワールウィンドの抗議は一切無視し、バルドゥールはお姫様だっこをしたまま踵を返して店を出て行く。
「……もしかしたら皇子サマも結構酔ってたのかな」
 冒険者はテーブルの上に林立する空になったジョッキを見ながら呟いた。
「そうかもしれないわね」
 女主人は肩を震わせて笑いをこらえている。
 その様子を見ていれば、明日からの街の噂に思いを馳せてワールウィンドは遠い目をして溜息をついていたことだろう――

 踊る孔雀亭を出てからもまだしばらくワールウィンドはごねていた。
「殿下、お願いです、降ろして下さい」
「出来もしないことを言うでない。大人しくしていろ」
 しかしバルドゥールは一切耳を貸さない。
 ワールウィンドは隠しているつもりのようだが、バルドゥールの首元に浅く荒い呼吸がかかっている。
 降ろしたところで歩けるとはとても思えなかった。
 だが、ワールウィンドの抵抗も直に止んだ。
 ぐったりとバルドゥールの肩に頭を凭せ掛けて呟いた。
「殿下、面目次第もございません」
 供の役目を果たせなかったこの現状にワールウィンドは忸怩たる思いであるが、バルドゥールの声は存外に明るい。
「気にするな。お前は余の前ではなかなか隙を見せてくれぬからな、たまにはよいものよ。ただし」
 きらりとバルドゥールの藤色の瞳が月に輝く。
「そのような弱ったところは余以外の前では見せるでないぞ」
「勿論です! このような醜態は二度と……」
「ならばよい。さて、着いたぞ」
 ワールウィンドが必死で言い訳しようとした時、バルドゥールの足が止まる。
 その時初めて、ワールウィンドは自分がどこにいるのか気づく。
 そこは、バルドゥールが辺境伯から貸し与えられている別邸であった。
「あの、殿下、私は宿に……」
「そんな悪酔いをしているのに一人で置いておけるものか」
 抱きかかえられているのだから抵抗のしようもない。
 バルドゥールはワールウィンドを抱きかかえたまま別邸に消えて行った。



夕日(2012.10.14)




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