calando
微睡みの中で夢を見る。
光溢れる庭園を歩む父――皇帝アルフォズル。
その一歩後ろにつき従う大騎士ローゲル。
自分は、その後を走って追いかける。
だがなかなか追いつけない。
――お父様!
その声に、彼らの歩みが止まる。
振り向いた父の顔は優しい笑顔だ。
思い切り飛びつくと抱き止めてくれた。
その隣りでローゲルも少し頬を緩ませている。
それは、有りし日の、幸せだった頃の記憶。
自分は愛されていたのだ。
何故こんな大切なことを忘れていたのかといぶかしむ刹那に、光溢れた風景が暗転する。
広い謁見の間は薄暗い。
その謁見の間の奥の玉座に座る父帝の視線は冷たい。
バルドゥールはまるで家臣のように、その広間の入り口に膝をついている。
いつからだっただろうか、そこより先に進むことは許されなくなっていた。
壁際に立つローゲルの表情もまた硬い。
黒い甲冑を纏うローゲルは、今にも謁見の間の闇に紛れこんでしまいそうなほど、気配を消し去っている。
「もうよい、今日は下がりおれ」
その視線と同様、冷たい声が叩きつけられる。
まるで吹雪を纏うような声音だけでまだ幼いバルドゥールは震え上がった。
だが、何とか食い下がろうとする。
「お父……」
しかし皇帝は、既に玉座から立ちあがり、バルドゥールに背を向けていた。
そんな父皇帝の姿を隠すように黒い甲冑が立ち塞がる。
「どうぞお下がり下さい」
ローゲルは無表情のまま告げる。
「既にお時間は過ぎております」
ローゲルに遮られて見えないが、皇帝の規則的な足音が遠ざかって行くことだけは分かった。
その足音も途絶えた後、ローゲルも一礼をして退出してしまう。
バルドゥールは薄暗い謁見の間に一人取り残される。
皇帝はその数日後、世界樹を起動する鍵を手に入れるために旅立ってしまった。
――どうして!?
叫ぼうとしても声にならない。
そこで目が覚めた。
飛び起きたかったが、現実には体は言うことを聞かず、声もまだ出ない。
何故、忘れてしまったのかバルドゥールは理解する。
それは忘れてしまいたかったからだ。
カーテンの隙間から差し込む光が滲んだ。
「ウチはねえ、クエスト抱えたままいなくなられたらすっごくすっごく困るのよ!
あなたに渡すのはそれ相応の難度のクエストなんだから!
いいこと!?
もしもこの街を出て行くって言うのなら、その時は抱えてるクエストをきれいさっぱり片付けてからにして頂戴!」
クエスト帰りの冒険者達が踊る孔雀亭のドアを潜ると、店内に女主人の怒声が響き渡っていた。
怒鳴られているのはワールウィンドだ。
ワールウィンドは神妙な表情で直立不動の姿勢である。
返す言葉がないのか、ちょっとでも言い返そうものなら三倍返しになることを知っているからとにかく黙って拝聴しているのかは、その表情からは伺い知れない。
多分後者だろうな、と、冒険者の面々は思ったが表情には出さない。
それは他の客達も同じことで、誰もがまるで何事も起きてないかのように酒と会話を楽しんでいる。
藪をつつかなければ蛇は出て来ないし、触らぬ神には祟りがないのだ。
冒険者達もいつもの席について、酒と肴を顔なじみのウェイトレスに注文した。
それから一週間も経っただろうか。
クエストボードを見ていた冒険者達に女主人が声をかけてきた。
「ねえ、あなた達。最近ワールウィンドを見かけなかった?」
メンバーは顔を見合わせ、そして答える。
否、と。
「そう、それは困ったわ」
その答えに女主人は美しい顔を曇らせる。
「あなた達かワールウィンドでもなければこなせそうもないクエストの依頼があるのよ。
でもあなた達は今大きなクエストを受けているから無理だし、ワールウィンドは今何もクエストは受けていないはずだから、ワールウィンドに是非受けて欲しかったんだけどね。
この二、三日店に顔を出さないのよ、彼」
困ったものだわ、と、小首を傾げる女主人の前で冒険者達は無表情を保つのが精一杯だ。
あれだけ怒鳴られれば、誰でもしばらく店から足も遠のこうというものだ。
それに。
「まだ皇子サマは入院中で、最近やっとベッドの上に起き上がれるようになったと聞いた。ワールウィンドはそっちにかかりっきりなんじゃねえの?」
帝国騎士の顔も持つワールウィンドにしてみれば、クエストをこなして小金稼ぎをしている場合ではないだろう。
「確かにそうね。でもこちらとしても困ってるのよ。あなた達、もしワールウィンドに会ったら店に顔を出してって伝えて頂戴」
「ああ、もしも会ったら言っとくよ」
冒険者達は調子よく答えて、空のジョッキを振る。
「んで、ビール追加お願い」
何しろクエスト帰りで懐が暖かいのだ。
冒険者達はそのまましこたま飲んで、店を出たのは深夜であった。
今夜は新月で辺りを照らす光は星明りのみである。
それでも宿に帰るだけならば熟練の冒険者達には十分だ。
特に松明で道を照らすこともなく、酔いを醒ましながら行き慣れた街路を歩く、その視界の先を横切る影があった。
ついさきほど踊る孔雀亭で話題に出たばかりのワールウィンドである。
そのワールウィンドは街門の方へ歩いて行くようだ。
新月のこんな時間にほっつき歩く者はまずいない。
星明かりだけが頼りの今夜は自分の指先すら見えないほどの暗闇である。
ただ歩いているだけならまだしも、気球艇など飛ばしたらどんな事故が起こるか分からない。
こんな夜にはクエスト絡みで仕方ない時でもなければ歴戦の冒険者でも気球などは飛ばさない。
そして、女主人は今ワールウィンドは何もクエストを受けていないと言っていた。
冒険者達の酔いが一気に覚めた。
研ぎ澄まされた勘が告げる。
ここは何としてもワールウィンドを止めなければいけないと。
「つってもワールウィンドの旦那じゃ一筋縄じゃいかないか」
ただの思い過ごしならいいのだが、恐らくそうはならないだろう。
冒険者達は街門へと最短距離を走る。
空振りならばそれはそれで構わない。
ワールウィンドの気球艇の前で待っていると、程なくして当のワールウィンドが現れた。
悪い予感が当たったようだ。
「なあ、こんな月も出てない夜中にどこに行くつもりなのさ」
先手を打って冒険者が声をかけるとワールウィンドは心底驚いた表情を浮かべた。
「君らこそ、何でこんな時間に」
ワールウィンドの視線があちこちに動く。
冒険者達の隙を探しているのは明らかだ。
「俺達は偶然。クエスト完了で懐が暖かかったもんで、気持ちよく飲んでその帰り」
「旦那こそ、どうしたのっと」
何しろ5対1である。
囲い込んでワールウィンドの退路を完全に断って、その肩に手をかける。
冒険者達から逃げられないことを悟ったのか、ワールウインドは天を仰いで言った。
「どうしたもこうしたも、ちょっと外に出ようと思っただけだよ」
「誰にも見つからないように?」
「君らは本当に痛いところを突くねえ」
言外にその通りだと告げるワールウィンドへ冒険者達は不思議そうに尋ねる。
「だっからさー、何でそんなこそこそと出て行く訳よ?
皇子サマも大分体良くなって来たんでしょ?
これから帝国の移民も始まるし、やること山盛りじゃない」
「だからだよ」
ワールウィンドはため息を吐く。
「いかな理由があろうとも、俺は帝国と殿下に刃を向けた反逆者だ。どの面下げて殿下の御前に立てるかってことさ」
「んな、ば……」
馬鹿馬鹿しいと切って捨てようとした冒険者達の言葉尻をワールウィンドがひったくる。
「騎士ローゲルは、帝国ではそれなりの地位にあってまあまあ知られた存在だったんだよ」
それは、かなり控えめな表現だろう。
帝国のことなど何も知らなかった冒険者達でさえ、わずかに触れた帝国騎士達の話から、ローゲルが帝国内で相当高位の騎士であり、上からも下からも信頼されていたことは容易に想像出来た。
「そんな奴が帝国に弓を引いた。帝国の中ではとんでもないことだよ。裏切り者を許せないって者がいるのも当然だ」
ワールウィンドは小さく肩をすくめた。
「君らに汲みしてタルシスの冒険者を引き入れた時点で帝国騎士ローゲルは死んだんだ。
まあ、それは覚悟の上で決めたことだから別にいいんだけど、言った通りちょっと俺は顔が売れ過ぎてるんだよね。
顔の知れてる反逆者が生き残ってちゃ、殿下の親政に傷がつく。
俺は、この土地からいなくなった方が何かと都合がいいんだよ」
だから見逃してくれないかなあ、とワールウィンドはいつもの少し眠たげな表情で言う。
「帝国騎士ローゲルは巨人との戦いで死にました。それで何とか手打ちにして欲しいんだよ、ね」
「あっ」
思いもよらぬ言葉に呆気に取られる冒険者達の隙をついて、気球艇に飛び乗ろうとしたワールウィンドの後頭部に錫杖が激突した。
「ウーファン!?」
――今、錫杖の面積の狭い方で思いっきり殴ったよな。
――うむ、迷いのない見事な軌跡だった。
と、仲間達すら半分腰が引けている前で、ウーファンは後頭部を殴られて倒れたワールウィンドの胸倉を掴む。
「このたわけ者が。我らは言葉により意思を交わす生き物だ。それ故、言葉にせねば何も伝わらぬ」
ウーファンの脳裏に浮かぶのは巫女の顔か。
自らと同じ過ちを犯そうとするワールウィンドが許せないその気持ちは分からぬでもない。
「貴様は皇子にそれを告げたのか? 貴様が全て抱えこめばそれで皇子は楽になれるのか? それを貴様が決められるのか?」
しかし畳みかけるウーファンの言葉のどれだけが耳に入っているかは非常に怪しい。
「まあまあ、ウーファン。それ多分旦那の耳には入ってないから。あんなにぶん殴っちゃねえ」
冒険者達は怒りで細い体を震わせるウーファンを止めに入った。
「どう? 旦那、生きてる?」
「何とか」
冒険者の問いかけにワールウィンドが頭をさすりながら答える。
「生きてたか、それはよかった。でも、頭ぶったから病院で診てもらった方がいいな」
と、冒険者はワールウィンドの体を担ぎあげた。
「な、待て! 俺のことは放っておいてくれ!」
抵抗するワールウィンドを全員で押さえつけて、冒険者達は街の中へ戻って行った。
バルドゥールは、目覚めた時のままベッドに横になっていた。
その病室のドアが乱雑にノックされる。
答えようにも声が出ない。
しかし、返事が出来ないと困る暇もなく、当たり前のようにドアが開いた。
「あれ、皇子サマ起きてたんだ。こりゃ幸い」
無遠慮な笑顔を浮かべて冒険者達が病室に踏み込んで来る。
何たる礼儀知らずかと言う思いが顔に出ていたようだ。
冒険者達が苦笑する。
「不作法ですんませんね。ただ、急ぎお届けしないといけないかなって」
と、彼らが肩から下ろしたのはワールウィンドである。
「ローゲルだかワールウィンドだか知らないけど、この人勝手に消えようとしてたんで、とりあえず連れて来ました」
冒険者の言葉に、バルドゥールは大きく目を見開く。
その前でワールウィンドはうつむいたまま顔を上げられないでいる。
いつか踊る孔雀亭で女主人に怒られていたのとは全く違う、実に力無い姿である。
その姿を見て、冒険者達は目を見合わせる。
そして、
「それじゃ俺達はこれで。それと旦那、あんたにしかこなせそうもないクエストが来てるから、踊る孔雀亭に顔出せってさ。ママさん困ってた」
確かに伝えたよ、と言って、冒険者達は病室を出て行った。
残された二人は沈黙に包まれる。
一方は伝えられる言葉を持たず、一方は伝える声を失っている。
ワールウィンドの耳は遠ざかって行く冒険者達の足音を正確に捕えていた。
もう一度逃げ出そうとすれば、今度はきっと誰にも止められることなく出て行ける。
しかし、バルドゥールの前に引き出されてしまった今、動くことが出来なかった。
――何故、自分は生き残ってしまったのだろう。
巨人との戦いの中倒れてしまえば、帝国の、ひいてはバルドゥールのアキレスになることはなかったのに。
後悔に打ちのめされているワールウィンドを、掠れた声が呼んだ。
「ローゲル……」
ワールウィンドははじかれたように顔を上げる。
その視線の先で、バルドゥールが体を起こそうとしていた。
「殿下!」
思わず駆け寄り、その体を支える。
「どうかご無理をなさいませぬよう」
「無理をしなければ、お前は行ってしまうのだろう……?」
バルドゥールはワールウィンドの腕を掴む。
だが、その手に力はない。
振り払おうと思えば軽々となしえただろう。
しかしワールウィンドに振り払えるはずもなかった。
「殿下、どうぞお許し下さい。反逆者ローゲルは死にました。死んだ人間がいつまでもうろついていてはなりません」
震える声でやっと告げる。
そばにいることなど許されないことをワールウィンドは知っている。
だがしかし、本心からバルドゥールから離れることなど望んではいない。
帝国騎士として、なすべきことをなさねばならぬ。
ただそれだけのために、本心をねじ伏せている。
そして英明な皇子は、物事のあるべき姿をよく理解しているだろう。
「……そうだな。余は、反逆者を赦す訳にはいかぬ」
バルドゥールの呟きに、ワールウィンドはその場にくず折れそうになった。
自分は、バルドゥールに断罪されることを何より恐れていたのだと知る。
だから自ら逃げ出してしまいたかったのだ。
しかし。
「反逆者ローゲルは死んだ。ここにいるのは冒険者ワールウィンド。それでは、駄目なのか?」
はじかれたように顔を上げると、まっすぐに見つめるバルドゥールと目が合った。
「ワールウィンド、消えることなど許さぬ。生きていつ何時も余の傍にあれ」
「殿下……っ」
ワールウインドは片膝をついて騎士の礼を取る。
「いつか、お父様の墓に連れて行ってくれ」
「必ずや」
応えるワールウィンドへ、バルドゥールは笑みを浮かべる。
その面持ちは、在りし日の父皇帝に瓜二つであった。