lamentabile
「一番艇から十番艇、点検完了しました! 全艇異常ありません!」
「十一番艇以降はどうだ!?」
「十三番艇のバーナーの調子が上がりません!」
「無理をするな、異変の兆候がある気球艇は外せ!」
出立前の停泊港では技官達による気球艇の最終確認が行われていた。
騎士団を乗せる気球艇は軍船であるが、今回は全ての気球艇から砲門が取り外された。
少なくとも結界相手に大砲が何の役にも立たないことは明白であり、攻撃力よりも機動力と継続航行能力を優先した結果である。
そんな活気溢れる停泊港の片隅で、漆黒の甲冑をまとった騎士が気球艇を見上げていた。
「ここにいたのか、ローゲル卿」
「陛下」
背後からかけられた声に、ローゲルは滑らかに踵を返して軽く腰を折る。
「どうだ、様子は」
「恐らくもう少しで出撃の準備が整うかと存じます」
「そうか」
皇帝アルフォズルは小さくうなずき、そして小脇に抱えていた書物をローゲルに差し出した。
「これは卿に預ける」
「それは……?」
その本は先日皇帝から皇子へ贈られた本とよく似た装丁を施されていた。
ただし、皇子の本よりは大分痛んで見える。
「これは世界樹の研究のために余が写本したものだ。中身はバルドゥールに渡したものと同じ。余が研究に使ったたものだから痛んでいるがな」
「そんな大事な物は……」
受け取れないとは言わせずに、皇帝が言葉を重ねる。
「余の頭の中には全て入っているからもう不要なのだ。他に預けられる者は卿しかおらぬ」
「では、お預かり致します」
真摯な表情で皇帝にそこまで言われては断る術などない。
ローゲルは恭しく書物を受け取り、手に持っていた背嚢に入れた。
「頼むぞ」
「は」
ローゲルの肩を一つ叩いて、皇帝は一番奥に停泊中の御座船の方へ歩いていく。
何とも名状しがたい思いに囚われながら、ローゲルはその背中を見送った。
「陛下、全艇準備が整いましてございます」
「うむ」
御座船の玉座に座る皇帝に報告がもたらされる。
その報告を聞いた皇帝は鷹揚にうなずいて、そして右手を上げて告げる。
「出立!」
その言葉は一斉に伝えられ、次々に係留されていた気球艇が飛び立って行く。
御座船を含む16艇の船団である。
1艇には5人のインペリアルと操舵手が乗船している。
ローゲルの乗った気球艇は雲の結界へ先陣を切る3艇の内の1艇だった。
今まで何度か雲の結界を越えられないものか、騎士団の気球艇が調査にしている。
だが、ただの一度も結界を越えられることはなく、最悪の場合は気球艇が粉々になったこともある。
その調査結果は、騎士団の中では誰も知らない者はない。
「ローゲル」
不安げな声に名前を呼ばれて、気球艇の先頭に立っていたローゲルは肩越しに振り向く。
「ジーク」
ジークと呼ばれた青年は張り詰めた面持ちをしていた。
騎士の称号を持つローゲルの部下だが、同い年なのでざっくばらんにいろいろ話し合える僚友であった。
ジークは単刀直入に問う。
「なあ、あの結界を越えることが出来ると思うか?」
分の悪い賭けであることは皆自覚している。
それでも誰かが行かねばならぬのなら、自分達が行かねばならないことも分かっている。
そしてまだ彼らは若く、言外に死への恐怖が滲むのは致し方のないことであろう。
だが、
「出来るさ」
ローゲルは言い切った。
「今までの調査では常に単独突破を試みた。これだけの船団で挑んだことはない。その多くが失われようとも、たった1艇しかたどり着けなくとも、その1艇がたどり着ければ我々の勝ちだ」
ローゲルの視線はまっすぐに雲の結界を見据えている。
その脳裏には夜の庭園で見た皇帝の姿が浮かぶ。
世界樹の呪いに蝕まれながら、最後まで帝国のために生きようとするその姿に、自分は誓ったのだ。
必ず皇帝の願いを叶えると。
世界樹起動の鍵を持ち帰り、そして。
「おい、ローゲル、あれは……」
「ああ、御座船だ」
ゴンドラの先頭に立っていた彼らの視界に立ち塞がったのは、本来船団の中心にいるはずの御座船だった。
それが何故か先陣の気球艇を追い抜き、前に出たのだ。
ローゲルは考えるよりも早く操舵手に怒鳴っていた。
「御座船を先に行かせるな! 速度を上げて先行しろ!」
ローゲルは焦っていた。
しかし、操舵手からは悲鳴のような答えが返って来た。
「無理です! 御座船より速い気球艇はありません!」
ローゲル達が乗る気球艇が速度を上げているのは分かる。
だが、御座船との距離は微妙に開いていく。
その次の瞬間、御座船が雲の結界に突入した。
「皆、飛ばされるなよ!」
ローゲルは声を張り上げ、先だって身に着けていた命綱をゴンドラの手すりにつなぐ。
隣にいたジークも同じく命綱のフックをゴンドラにかけ、姿勢を低くする。
結界への突入は、竜巻に巻き込まれた時などとは比べ物にならない衝撃だった。
姿勢を低くしてもどこかに飛ばされそうになり、呼吸すら苦しい。
轟々となる音は、暴風の音か、それとも気球艇の上げる悲鳴か。
まるで永遠に続くかと思われたそれは、唐突に終わった。
ふと気がついた時には暴風は止み、白い無音の世界が広がっていた。
見たこともない、一面の白銀の世界。
「ローゲル、我々は抜けたのか、あの結界を……?」
喜びに声を震わせるジークの隣で、ローゲルは堅い表情で呟く。
「点呼だ」
「え?」
「全船減速! それから点呼と、被害状況を確認しろ!」
ローゲルは矢継ぎ早に指示を出す。
「は!」
ジークが答えて後方に走っていく。
一人になって、ローゲルは片手で半面を押さえた。
ローゲルは視界の中に御座船がないことに気が付いていた。
「報告します!」
一時ほど経った後、情報を取りまとめたジークがローゲルの前に立った。
黙ってうなずいたローゲルへ、ジークは沈痛な面持ちで告げる。
「御座船を含む4艇が見当たりません」
「墜落跡などもなかったのか」
「結界の近くを上空から簡単に捜索しましたが、墜落跡などは認められませんでした。完全に消息不明です」
「そうか……」
ローゲルは天を仰いだ。
だがすぐに、ジークへ視線を戻して報告を促す。
「残っている気球艇の被害状況はどうだ」
「どの気球艇も多少の痛みはありますが、航行不能になるほどの損傷は認められません。また、十二番艇で突入時の衝撃でゴンドラの縁に叩きつけられて腕を骨折した者が1名おりますが、それ以外に死者や重症者はおりません」
「消息を絶っている4艇の突入順は分かるか?」
「先頭にいた御座船と、我々の後ろにいた三番艇、後は後方寄りにいた八番艇と十番艇が不明です」
「……位置による法則性はなさそうだな」
考え込む様子のローゲルに、ジークが水を向ける。
「いかが致しますか? もう少し詳細に捜索をしますか?」
その問いにローゲルは首を横に振った。
「いや、このまま先を急ごう。見知らぬ土地で夜を迎えるのは危険だ。まだあの結界を二つ越えねばならん。時間をかけては皆の身がもつまい」
ローゲルの決断に、ジークは部下の立場を忘れて食い下がる。
「仲間が行方知れずなのに、そんなにあっさり捨てて行くのか!?」
「仕方なかろう」
ローゲルはいっそ平静な声で切り捨てた。
「一つの犠牲も出さずに進めるなど、誰も思っていなかった。生きている者が先に進むしかないんだ」
その声は静かだったが、ジークを黙らせる迫力があった。
ジークは唇を噛んだ。
「この領域も魔物が徘徊しているようだ。今回砲門は全て外している。衝突しないように気をつけて進めよ」
そうして、腰を折って頭を下げる。
「承知しました」
言いたいことを全て呑み込んで、ローゲルの指示を伝えに行くジークの後ろ姿を見送ったローゲルは胸元からロケットを取り出す。
「殿下、お約束を守れず申し訳ございません」
ロケットを握りしめて、ローゲルは低く呟いた。
「あれが最後の結界か」
霧に包まれた景色の中、ローゲルは呟いた。
三つ目の結界を前にしている気球艇は5艇まで減っていた。
恐らく最初の結界で目に見えない損傷を受けた気球艇が多かったのであろう。
二つ目の結界で消息を絶った気球艇は最初のそれの被害の倍近かった。
また、残っている気球艇も皆どこかしらに損傷があり、最後の結界をどれだけが耐えられるかは不透明だった。
乗船している騎士達も怪我を負った者が多い。
ローゲルの隣に立つジークもそうだった。
右膝の関節の部分が破損していて、曲げ伸ばしが不自由になっている。
「それでも生き残った我々が行かねばならん」
ローゲルの言葉にジークが黙って頷く。
「皆、結界の向こうで生きて会おう!」
ローゲルが右手を挙げて声を張り上げる。
霧の向こうから応と答えが返って来る。
「突入!」
ローゲルが右手を振り下ろすと、船団が一斉に結界へ突入した。
結界の圧力が高くなっているのか。気球艇が限界を迎えているのか、みしみしと音を立てる。
息も出来ないほどの嵐の中で、その瞬間が訪れた。
めりめりと音を立ててゴンドラの壁が剥がれ落ちる。
一ヶ所破綻すると後はとめどもない。
解体されたゴンドラから放り出され、気流に巻き込まれる。
そのまま気を失っていたらしい。
ローゲルはこの世のものとは思えぬ絶叫に耳をつんざかれ、意識を取り戻した。
赤く染まる視界の中、跳ね起きて目にしたのは巨大な狒狒につかみ上げられ振り回される操舵手の姿だった。
考えるよりも早く背中の砲剣に手が伸びる。
幸いにも身に着けていたものは全て残っていた。
砲剣を引き抜き、カートリッジを装填、滑らかな動きでドライブの準備を終え、砲剣を構えようとした瞬間、胸に激痛が走る。
どうやら肋骨が折れているようだ。
砲剣を持つ手が下がった瞬間、狒狒がローゲルの存在に気が付いたようだ。
振り回していた操舵手の体を投げ捨てて、ローゲルにその剛腕を叩きつけようとする。
その腕に砲剣を合わせようとするが、一度動きが止まった状態からでは、重い砲剣では間に合わない。
それでも諦めずに砲剣を振り上げるローゲルの脇を、一陣の風が通り抜けていく。
「ローゲル、死ぬなよ!」
風かと思ったのは、ジークだった。
ジークの砲剣が狒狒の右腕を斬り落とし、その胸板に突き刺さる。
咆哮する狒狒が、残った左手でジークを弾き飛ばした。
「ジーク!!」
叫ぶローゲルの前で最初から仕掛けていたのだろう、狒狒に突き刺さったジークの砲剣が自爆する。
身をえぐられてのたうち回る狒狒に、ローゲルはフレイムドライブを叩きこむ。
狒狒が動かなくなったことを確認した後、砲剣を杖にしてローゲルは倒れたままのジークの傍らに急ぐ。
「ジーク……」
倒れたジークは既にこと切れていた。
ローゲルは力を失い、そのまま膝をつく。
「うわああああ!」
森全体にローゲルの慟哭が響いた。
それからどれぐらい経っただろうか。
涙も枯れ果てたローゲルは無言で立ち上がり、壊れかけの甲冑を脱ぎ捨てた。
土の柔らかなところを探し、穴を掘る。
道具もなく、自らも重傷を負っている状態ではさほどの深さは掘れなかったが、それでも何とか格好はついた。
その穴に、ジークと操舵手の遺体を並べて横たえる。
また、脱ぎ捨てた自分の甲冑も並べて、土をかけた。
胸の前で手を組み、帝国式の祈りを捧げる。
「ありがとう、ジーク。私は使命を果たすまで、けして死なない」
そうしてローゲルは砲剣を収めた背嚢を引きずりながら、森の出口を目指してよろよろと歩き始めた。