pesante

 二つの人影が、光溢れる庭園を歩んで行く。
 前を歩むのは若き皇帝アルフォズル。
 その一歩後ろに大騎士ローゲルが付き従う。
 大騎士と言う大層な肩書きに比して、ローゲルの面持ちはまだ明らかに若い。
 ローゲルは帝国の名家の出身だ。
 その血筋をもってしても異例とも言っていいほどの早い出世は、若くして帝国一と言われる砲剣の腕前と何よりその才覚を皇帝により見出され、重用されたからである。
 しかも性格は実直にして謙虚。
 皇帝自ら特別誂えの漆黒の甲冑を下賜し、どこへ行くにもローゲルを伴った。
 この日も、皇帝はローゲルを伴い皇宮内を散策していた。
 そんな彼らの背後から、澄んだ声と共にかけてくる気配がする。
「お父様!」
 ローゲルは邪魔にならないように自然と身を引く。
 すると、皇子バルドゥールが父帝に飛びついた。
皇帝は難なくその体を受け止め、抱き上げる。
「おお、元気が良いな、バルドゥール。勉強は終わったか?」
「はい、今日の勉強は終わりました」
「そうか、国を治めるには勉学も大事だ。よく教師の言うことを聞いて励むがよい」
「はい!」
 はきはきと答える皇子の面差しは皇帝によく似ている。
 麗しい父子のやり取りを微笑ましく見つめていたローゲルへ、皇子が視線を向ける。
「ローゲル」
「は」
 片膝をついて騎士の礼を取るローゲルの前に立ち、皇子が言った。
「ローゲル、今度僕に剣を教えて」
「私でよろしいのでしょうか」
「だって、帝国の中でローゲルが一番のインペリアルだと言っていたもの。僕はローゲルみたいに強くなって、お父様をお守りするんだ」
 キラキラと大きな瞳を輝かせる皇子を眩しそうに見て、それからローゲルは皇帝に視線を向ける。
「陛下がお許し下さるのなら、私に否やはございません」
「バルドゥール、今年いくつになったのだ?」
「7歳になりました」
「そうか、7つか。ならば剣を習い始めるにはちょうどよい頃合だ。ローゲル卿、余からもよろしく頼むぞ」
「承知仕りました」
「わあい、それならローゲル、明日から早速教えてよ」
 英明な皇帝に利発な皇子。
 帝国の将来は明るいかに見えた。

――しかし、状況が一変する。

 帝国は建国の時から唯一にして最大の問題を内包している。
 それは大地の汚染とそれによる荒廃である。
 世界樹北部の荒廃は、現在の帝国の版図にも少しずつ、だが、確実に蝕みつつある。
 代々の皇帝は学者達に大地の荒廃を食い止める手立てを研究させていた。
 月に一度の報告で、衝撃的な研究成果が皇帝アルフォルスに奏上されたのだ。
 学者達は声を震わせて告げた。
 今ある技術では大地の荒廃を食い止めることも、その速度を緩める手立てはなく、そしてこのままならば後30年もしない内に帝国は人が住めない土地になるであろうことを。
「何と……」
 その報告に皇帝アルフォズルは呟いたまま、しばらく言葉がなかった。
 まして、門外漢の文官や武官に何か言えるはずもない。
「冗談では済まされぬぞ、30年など瞬く間のことだ!」
 大臣の一人が学者達をなじったが、それで解決策が出て来るものならとっくに解決している。
 そうして皇帝アルフォズルは一つの決断を下した。
「やむをえぬな…」
 深く息を吐き、そして決然として一同に告げる。
「我らの祖先が遺した遺構、世界樹を起動し、大地の浄化を試みよう」
 世界樹が大地浄化のシステムであることは帝国内でも僅か一握りの人間しか知らぬ機密であり、その機構を記した書物は皇家に連なる者しか入れぬ図書室に納められている。
 大臣が奏上する。
「お恐れながら申し上げます。世界樹はいまや正確な使い方すら分からぬ過去の遺構。もしも失敗すれば世界を滅ぼす恐れもございます」
「それは承知の上で代々研究を重ねて来たのだ。その結論として、世界樹を使わずに大地の浄化はおろか、荒廃を緩やかにする術すらない、と言う結論が出たということだ。そうだな」
 皇帝の最後の言葉は学者達に向けられたものだ。
 学者達は顔を強張らせて答えた。
「仰るとおりにございます」
「世界樹は諸刃の剣、それが分かっていたからこそ使わずに何とかしたかったが、最早そんな猶予がないのだ。致し方あるまい」
「しかし陛下! 伝承によればあの図書室は巨人の呪いに満ちていると!」
 大臣の声は悲鳴に近かった。
「分かっておる。そう叫ぶな」
 皇帝は静かに言った。
 世界樹にはもう一つのリスクがあった。
 世界樹の機密を記した書物を納める図書室は世界樹の根本にあり、余り長く触れていれば不治の病――巨人の呪いを発病する可能性が高まるのだ。
 だが、図書室に出入り出来る皇家の血筋に連なる者は、皇帝アルフォズルと皇子バルドゥールのみ。
 幼い皇子に複雑な機構の研究など出来るはずもなく、それは即ち、皇帝アルフォズル自身が行う以外にないことを示していた。
「陛下御自ら病の危険に身を晒す等とんでもないこと。学者達を行かせるか、その書物のみを持ち出す訳にはいかぬのですか」
 重臣の問いかけはもっともだが、皇帝は首を横に振った。
「実は既にこのローゲル卿を伴い、余以外の者が出入り出来ぬか試しては見たのだ。だが、どの様な機構かローゲルでは扉が開かず、余が開けた扉で共に入ろうとしたら、機械仕掛けの監視者に襲われた」
 皇帝が告げる事実に広間が騒然とする。
 列席を許されていたローゲルは、世界樹の図書室を訪れた時のことを思い出す。
 冷徹な監視者や慈悲なき排除者並かそれ以上の機構が容赦なく襲って来たのだ。
 脱出するために戦い、かろうじて切り抜けたものの、砲剣1本を犠牲にせざるを得なかった。
「ローゲル卿であればこそ監視者を破壊し撤退出来たが、研究者達では一溜まりもあるまい。そして書物そのものの持ち出しは、痛みがひどすぎて無事に持ち出せるとは思えぬ状態だった。残念ながら、余が出向く以外にない」
 皇帝は淡々と語を継ぐ。
「既にお試しになられていたとは……もしや陛下はこの結果をお察しになられていたのですか」
「薄々とだがな」
 皇帝は遠くを見つめて告げる。
「元より何とか出来るものならばこの地に建国することもなかったであろうよ」
「それは……」
 そう、この場にいる者達は皆気がついていたのだ。
 何も失わずに済ませられるものならば、最初から世界樹の麓から脱出することなどなかったのだと。
「皇帝たるこの身、臣民のために使うことに否やはない。何より余はバルドゥール達、子らの世代に絶望のみを残したくはないのだ」
 言って皇帝は席を立つ。
「明日から世界樹起動の研究を始める。まずは計画立案と準備が必要だ。今この場にある者は明日も同じ時刻にこの場に集まれ。以上だ」
 既に世界樹起動以外の手立てがないことは明白であり、誰も皇帝の言葉に異を唱える者はなかった。

 「バルドゥール、皆の言うことをよく聞いて、勉学に励み、剣の稽古に精を出すのだぞ」
「はい、お父様」
 皇帝アルフォズルが図書室に赴くにあたって、まず最初に行われたのは皇子バルドゥールの身の安全の確保である。
 巨人の呪いが一体どのように発症する病なのか、この時点では解明されていない。
 ただ、体の出来ていない子供や、体力が弱っている老人の方が発症するまでもした後の進行も早いことが分かっている。
 皇家の血筋は皇帝アルフォズルと皇子バルドゥールのみ。
 世嗣たるバルドゥールにはよもやのことがあってはならないのだ。
 離宮を東宮とし、皇子付きの侍従や女官も全員が移動することになった。
 ただし週に三回、謁見の時間が設けられることになっている。
 皇帝は皇子の背後に控えるローゲルに声をかける。
「頼んだぞ、ローゲル卿」
「はっ、承知致しました」
 皇帝付きの侍従武官達も必ず距離を置いて接するように命じられた。
 今この時に役立つのは彼らの武力ではない。
 特に皇子の剣の師匠を務めていたローゲルは最も距離を置くことになった。
 皇帝の身近にあることが許されたのは、皇帝が書き写してきた世界樹の書物を共に研究する学者達と、身の回りの世話をすることを志願したベテランの侍従達である。

――最悪の事態を想定して進められた世界樹の研究は、残念ながら予想通りの結果となった。

 一番最初に倒れたのは、最高齢の侍従長であった。
 侍従長は巨人の呪いを発症し、植物化して亡くなった。
 それを見て、誰もが余り時間がないことを理解する。
 そして、皇子はより念入りに隔離されることになる。
 週に三度の謁見は週に一度に減らされた。
 その謁見も一番広い謁見の間の端と端で行われた。
 ローゲルは、その時皇子が父恋しさのあまりに近づき過ぎないように見張らなくてはならなくなった。
 皇子の年齢を考えれば酷な仕打ちである。
 突然、父帝に近づくことが出来なくなった皇子は困惑の色を浮かべて何度もローゲルに問うた。
「どうしてお父様に近づいてはいけない? 僕は何かいけないことをしてしまったの?」
 と。
「陛下は今大変な事業に取り掛かっていらっしゃいます。それが無事に終わった暁には、また以前のようにお会い出来るようになりましょう。今しばらく御辛抱下さい、殿下」
 問われる度にローゲルは苦しい言い訳を繰り返した。
 だが利発な皇子は自分に対して何かが隠されていることを感じ取っていたようだ。
 ローゲルの答えを聞く度に悲しそうな表情を浮かべ、そして最後には何も聞かなくなった。
 その姿を見、いたわしいと思うものの、ローゲル自身の理解も及ばぬことである以上、どうしようもなかった。

 皇帝が図書室に踏み行った1ヶ月後のこと、皇帝の命により、文官武官の主だった者達全員に招集がかかり、御前会議が開かれた。
 その者達が揃えられたと言うことは、当然何らかの結論が出たのだと誰もが理解する。
 そして開口一番、皇帝が告げた。
「世界樹の起動の方法はほぼ解明した」
 と。
「真でございますか」
「うむ。今も起動出来なくはないのだが、ほぼ間違いなく不完全な起動になる。世界樹の完全な起動には複数の鍵が必要だとあった」
 皇帝は一冊の書物を円卓の上に置いた。
 それは図書室の文献を皇帝自ら写本したものだった。
「して、その起動に必要な鍵とは」
「巨人の冠、心、心臓と呼ばれるもの。そしてそれらは、あの雲の結界の向こうの大地に封じられているようだ」
「何と!?」
 帝国からの唯一の出入り口であろうと思われる谷は、雲の結界と呼ばれている。
 それは実に強固なもので、何度となく騎士団が結界の突破を試みたが、その度に多大な犠牲を出して終わっていた。
 もし、あの結界がなければ、無理に世界樹の起動を試みず、かつてのように移住を検討も出来たはずなのだが。
「こちらから結界を解く方法はございませんか」
「残念ながら」
 大臣の問いに皇帝は首を横に振る。
「帝国建国より程ない時期に、時の皇帝が世界樹起動の鍵を辺境伯に託した。
 辺境伯は帝国中心部の外側に鍵を一つずつ三つの大地に配置した。
 巨人の心臓はイクサビト、巨人の心はウロビト、そして巨人の冠は辺境伯に。
 辺境伯の血筋が絶えていなければ今もその子孫達が守護しているだろう。
 そして外側から封印を施したのだ。その封印を解く鍵は、内側であるこちら側にはない」
 議場に微かな動揺が満ちた。
 皇帝の告げる言葉はあまりにも絶望的だったからだ。
 しかし、皇帝は顔を上げ、毅然として告げる。
「我が騎士団に命ず。雲の結界を超え、巨人の冠、心、心臓をこの帝国に持ち帰れ」
 ローゲルを始めとする招集を受けていた騎士達が一斉に応えた。
「帝国騎士団の名にかけて必ずや」
 例えそれがどれほど絶望的な使命であっても、騎士として応えることに一片の疑いも迷いもない。
 そこまでは想定内のことだった。
 驚愕は、その次の瞬間に訪れた。
「余も鍵を手に入れに赴く」
「何と」
「陛下、お考え直し下さい!」
 皇帝の言葉に議場は蜂の巣を突ついた様な騒ぎになる。
 当然のことだ。
 皇帝の命を受けた騎士達は、全員が命を捨てる覚悟をして応えた。
 それほど危険なミッションに、皇帝自ら赴くなどあり得ないことだ。
「既に決めたことだ。余の不在の間の政は世嗣バルドゥールに任せる。以上だ」
「お待ち下さい!」
 追いすがる武官、文官に一瞥もくれずに皇帝は議場を退出して行った。

 月明かりの庭園に一つの影が落ちる。
 現れたのは皇帝アルフォズルである。
 何を見るともなく歩んでいた皇帝が、ふと足を止めて言った。
「あまり余に近づきすぎるなよ、ローゲル卿」
「お気づきであらせられましたか」
 脇道から現れたのはローゲルである。
 ローゲルはすぐに片膝をついて騎士の礼をとった。
「卿も余がここに来ると分かっていたか」
「私は陛下の騎士でありますれば」
 頭を下げたままのローゲルを見下ろして、皇帝が言う。
「余に言いたいことがあろう。苦しゅうない、申せ」
「お恐れながら申し上げます。
 何卒御親征はお考え直しください。陛下あってのこの帝国、御身を失う訳には参りません。
 どうか我ら騎士団にお任せを。陛下に捧げたこの砲剣にかけて、巨人の冠、心、心臓を持って参ります」
 ローゲルは一息に告げる。
 皇帝の口元に穏やかな微笑が広がる。
「余はまこと恵まれておるな。これ程までに我が身を案じてくれる者達がいる。大臣達にも大分絞られた」
「なれば」
「しかし余が行くべきなのだ。ローゲル卿、面を上げよ」
 皇帝の言葉に従ってローゲルが顔を上げる。
 その前で皇帝は左手を上げ、袖をめくった。
 ――その左腕にまとわりつく、緑の蔦。
 ローゲルは息を飲む。
 皇帝は巨人の呪いを発病していたのだ。
「世界樹に最も近づき、その秘密を探った代償だ」
 皇帝は淡々と告げる。
「残念ながら左腕だけではないのだ。ここまで発病してしまったら、余はもう長くはない。
 このまま皇宮に引きこもっていても先の見える命ならば、むしろ最も危険な部分を引き受けるべきだ」
「陛下…」
「だからローゲル卿」
 皇帝は袖を元に戻しながらさらりと告げる。
「卿にこそ帝国に残ってもらいたい。
 この命、帝国と臣民のために使うことに何の恐れも悔いもないが、ただ一つの心残りはまだ幼いバルドゥールの行く末。
 余の亡き後、あの幼い身でこの帝国を率いて行かねばならぬ。
 それはある意味、雲の結界を越える以上に過酷な道となろう」
 ローゲルの脳裏に皇子の姿がよぎる。
 今も一人寂しさをこらえ、気丈に振舞う皇子の姿はローゲルの目から見てもいたわしい。
 ローゲルによく懐いているのも、皇帝に年の近い自分を父親に重ねて見ているからだろう。
 しかし。
「ローゲル卿、帝国に残りバルドゥールを支えてやってくれぬか。卿にしか頼めぬのだ」
 皇帝の頼みに、ローゲルは一瞬の迷いを見せる。
 脳裏に幼い皇子の姿が浮かぶ。
 いくら利発な皇子とは言え、まだ成人にも程遠い子供だ。
 誰かが守るべき存在であることは間違いない。
 だが、次の瞬間ローゲルは背負っていた砲剣を抜き、胸の前に掲げて言った。
「もったいない仰せなれど、私は陛下に忠誠を捧げた騎士。私は陛下と共に参ります」
 ローゲルの応えに、皇帝の声も厳しくなる。
「考え直してはくれぬか」
「お恐れながら」
 迷いを振り切ったローゲルの言葉に、皇帝は小さく溜息をついた。
「卿ほどの騎士に忠誠を尽くされるのは冥利に尽きるが、父としてはこれほど残念なこともないな」
「陛下……」
「やんぬるかな」
 寂しげに呟いて、皇帝は踵を返した。
「バルドゥールに渡さねばならぬものがある。明日、時間を設ける故、バルドゥールを連れてまいれ」
「承知致しました」
 頭を垂れるローゲルの前から、皇帝はゆっくりと歩み去った。

 翌日、皇帝と皇子バルドゥールの謁見の時間が設けられた。
 皇子には結界越えのことはまだ何も知らされていなかったが、何らかの異変を感じ取っているようであった。
 今にも皇帝に向かって飛び出してしまいそうで、ローゲルはいつでも止められるように気が抜けなかった。
 一番広い謁見の間の入り口で跪く皇子へ、皇帝が声をかける。
「今日はそなたに渡す物がある」
 と、皇帝は手にしていた書物をそばにいた機械人形に渡す。
 機械人形はゆっくりとした足取りで皇子の傍までやって来る。
 皇子が書物を受け取ると、機械人形は動きを止める。
「それは世界樹に関する書物の抜き書きだ。それがあればもうあの図書室に行く必要はないだろう」
「世界樹の本……?」
「そうだ。今はまだ難しいかもしれないが、早く理解出来るように学ぶのだぞ」
「はい」
 玉座に座る皇帝からは皇子の表情までは見えない。
 だが、その声の調子から不安を感じていることは痛いほどに分かる。
 とは言え、全てを話したところで子供の理解がどれほど追いつくかどうか。
 より不安を煽るだけなのではないかとも思える。
 何を告げるか迷っているうちに、巨人の呪いが疼き出してしまった。
 衣服の下で蔓が蠢くのが分かる。
 皇帝は慌てて皇子に告げる。
「もうよい、今日は下がりおれ」
 人とは思えぬ姿を我が子に晒したくはなかった。
 玉座を立った皇帝の背に、皇子が呼びかけようとする。
「お父……」
 そんな皇帝の姿を隠すように、ローゲルが皇子の前に立ち塞がった。
 ローゲルには皇帝の異変に気が付いていた。
「どうぞお下がり下さい」
 自分を見上げる皇子の表情を見て、ローゲルは感情を押し殺す。
 皇子は絶望の光を瞳に浮かべてローゲルを見つめていた。

 その夜のこと。
 自室のソファに悄然として座る皇子バルドゥールの前に、騎士の正装をしたローゲルが現れた。
「殿下」
 皇子の前に片膝をついてローゲルは騎士の礼を取る。
「殿下、しばらくお暇をいただきます」
「ローゲル?」
「此の度の任務、少々時間がかかりそうで、しばらく殿下にお会いすることが出来ません。
 どうか強く優しくあって下さい。このローゲル、いかほど離れようと殿下の健やかな御成長を御祈り申し上げております」
 口上を述べるローゲルの前に、ソファから降り立った皇子が言う。
「ローゲル、お前まで行ってしまうの?」
 皇子の声は非難の響きを帯びていた。
 それはやむをえないことだとローゲルも思う。
 事態がこれほどまでに切迫していなければ、皇帝ももう少し皇子の成長を待っただろう。
 だが、今その時を待つことが出来ない。
 世界樹起動の鍵を集めるまでにいかほどの時間がかかるかも分からない。
 ならば、少しでも早く事を起こすしかないのだ。
「皆僕を置いて行く。お父様も、ローゲルも。どうして?」
 震える声にローゲルが顔をあげると、皇子は顔を真っ赤にして必死で涙をこらえていた。
 思わず、ローゲルはその滑らかな頬に手を伸ばした。
 すると皇子はローゲルの首にすがり付いて泣き出した。
 堰を切ったように流れる涙が、ローゲルの頬も濡らす。
 ローゲルは皇子の小さな体を抱きしめて言った。
「ローゲルは陛下をお守りし、必ずや戻って参ります。それまでしばしのお別れです」
「ローゲル、帰って来て。必ず帰って来て」
「必ずや」
 それは、賭けに等しい残酷な約束だった。



 ――ローゲルが皇子に別れを告げた三日後、皇帝の御座船を含む帝国騎士団の気球艇が飛び立った。


夕日(2013.03.03)




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