「君を殺すのは簡単だね」 面から顔を上げた瞬間に言われ、弥勒はさすがに眉をひそめた。 ただし、言われた言葉にではなく、言った人物がまだあがりがまちに腰をかけていたことに対して、だ。 辺りは既に薄闇に包まれていて、手元もろくに見えなくなっていたから弥勒も面以外は虚無の世界から帰還したのだが。 「面を打っている時に、背中から一刺し。死ぬまで刺されたことにも気がつかないのではないかと思うよ」 弥勒の感慨など知らぬげに、その男――梅月は空恐ろしいことをすらりとのたまう。 しかし一方で、弥勒も言われたことを気にするよりも、自らの記憶の掘り起こしに意を費やしていた。 確かこの男、随分前にここに来たのではなかったか。 そう、弥勒が面打ちに没頭する前、まだ日が最も高くなる前にふらりとやってきたのだ。 そして、面を打つ様子を見たいと言うので、かまわんと答えた。 ただ、面を打つ間は、他のことは一切合切目に入らないから、飽きたらそのまま帰れと言って、弥勒は面を打ち始めたのだ。 まさかこの男、ずっとそこにいたのだろうか。 それから、一度帰ってまた覗いてみたら、多分自分がまだ没頭していたのだろう、と自分の考えを早々に打ち消した弥勒へ、梅月はまるで考えを読んだかのように。 「あまりに面白いので、ずっとここで見させてもらったよ」 言って、にっこと彼の取り巻きの女達が見ていたら失神する者が続出するであろうきれいな笑顔を浮かべる。 その目が笑っていないことを、弥勒は見抜いていた。 見抜いただけだったが。 何を思う訳でもない。 弥勒は、人の心を詮索しない。思いやることもない。 ただ一つ心にかけるのは、面だけ。 だから、頭に浮かんだ言葉を受け取る相手のことなど考えずにそのまま口にしてしまう。 「奇特なことだ」 だが、それは弥勒にしては、珍しく感情を感じさせる言葉だった。 しかしその後が続かない。 いつもこうして会話が途切れてしまう。 かと言って弥勒が気にすることもない。 気にするぐらいなら最初からもう少しましな言葉を吐いているだろう。 いつものように目の前のこの男も、呆れてどこかへ行ってしまうだろうとさえ、思ったかどうか。 弥勒は梅月などいないがごとく、無言で固く握りしてめいた鑿をしまい、打ちかけで終わってしまった面を片づけ始める。 梅月の手は、白くてまめの一つもない。日常の些事すらこなす必要もない環境にいることは容易に想像がつく。 だからこそ、面打ちなどと言う特殊な作業が物珍しく、見たかったのだろうと思った。 まして、自分のような五体満足ではない者の作業はそれだけで見世物になることも経験上知っている。 市で面を打っている時には、弥勒が面を打つ様そのものを見世物と勘違いしている者の方が多かったほどだ。 しかし。 「そんなことはないよ。感服した」 梅月は扇子で口元を隠して微笑んだ。 「君は最高の巫子だ。道理で神気も宿ろうもの」 きらり、と、切れ長の瞳が閃く。 「全く、よくそれほど空っぽになれるものだ」 こんなに空っぽの人を初めて見たよ、と、梅月は喉の奥で笑う。 「並の器ならばそれだけの気を集めればいつかは染まってしまうものだが、君はあまりにも空っぽにすぎて、器を求めた神気さえも君の中には止まれぬ。だから面に神気が宿るのだ」 君の代わりにね、と、梅月はまともな人であれば、心を引き裂かれてしまうような鋭利な言葉を投げつける。 だが、弥勒の表情は変わらなかった。 「そうか」 弥勒はうなずいて、梅月を見つめる。 そして答えた言葉は明らかに、梅月の意図を外していた。 「俺の面にこもるのは妖気と言われたが」 弥勒には、引き裂かれるような心がなかった。 あるのは面のみ。 己の生み出す面さえ正しく認められるなら、己のことなど何と言われようと気にかけるべきことではないのだ。 己を貶めることを言い放つ、その相手さえも。 「神に善も悪もない。それが善きや悪しきやあやかしや、それは人が勝手に思うこと。神は神だ」 梅月は、罰当たりとも思えることを言う。 だが、弥勒は眉の一筋も動かさずにうなずいた。 「そうか」 言って、黙々と片づけを続ける。 その姿に。 梅月の気配が変わった。 触れれば切れる刃のような気配が消え。 いつもの、人気俳諧師の顔に戻っていた。 「全く・・・」 先程までとは明らかに違う苦笑を浮かべて、あがりがまちから作業場に上がって来る。 「裾が汚れる」 弥勒は弥勒なりに気を使ってみる。実際、まだ床には木屑が散らばったままだ。 工房は梅月のようにきれいな着物を着て来るところではない。 弥勒の着物は汚れの目立たぬ柿渋色だ。 「構わないよ」 しかし、梅月は優雅な裾裁きで弥勒の傍らに膝をついた。 「きれいな目をしている」 月明かりを映す弥勒の目を覗き込み、梅月は呟いた。 「だが、何も映さぬ波璃玉の美しさだな」 初めて、弥勒の表情がわずかだが動いた。 梅月のきれいに整った指先が、弥勒のこけた頬を撫でたからだ。 「確かに君にも血が通っているのに、君の打つ血の通わぬ面の方がよほど命を感じるよ」 まるで面を打つからくり人形のようだよ、と言う。 梅月は相変わらずの言葉であったが、浮かぶ笑みは先程よりはずっと柔らかいものだった。 目も、少しは笑っていた。 しかし、弥勒は黙って梅月を見つめているだけだ。 「ん? 僕に見とれているのかい?」 からかいを含んだ言葉に、弥勒は重い口を開く。 「吉原に出る時には、この面相を写した面を持って行けば、よい看板になりそうだ」 と。 「君は・・・」 梅月は一瞬呆け、すぐに弾かれたように笑い出した。 「本当に君には面しかないのだな。僕を看板にと言うなら、店先で句を捻れとか、もっとましな方策があるだろうに」 さも楽しいと言わんばかりに笑う梅月を、弥勒は相変わらずただ黙って見つめているだけだ。 ひとしきり笑い、満足したのか、梅月は笑いを納めて立ち上がる。 「ああ、いいよ、それぐらいお安い御用だ。この僕をそこまで意に介さぬところが気に入った」 弥勒は黙って梅月を見上げた。 その刹那、梅月の瞳に暗い光が宿る。 「ただし、僕のおもてを写すなら、その面の妖気は他の比ではなかろうがね」 真円を描く月を、たなびく雲がゆっくりと覆い隠してゆくに従って、まだ明かりも灯さぬ狭い室内に静かに暗闇が忍び入る。 月明かりに伸びた二つの影も、闇の中に融けて消えた。 |