腹が立った。 そして同時に、面白くもあった。 今まで自分を前にして、何かを望まぬ者など、いなかったのに。 星見を、句を、そして梅月自身を――。 誰もが、梅月に何かしらを強請った。 それゆえに、梅月は下に置かれたこともなかったのだ。 初めて巡り合った。 梅月に何も求めぬ者に。 この梅月を目の前にして、力も、句も、梅月自身をも欲しがらず、ぞんざいに扱われたことに、梅月は腹を立てたのだ。 梅月をちやほやする取り巻きは、いつも疎ましく思っているくせに。 だからこそ、面白いと思うのだ。 自分を見向きもしないこの男の視線を自分に向けてみたいと、思った。 取っ掛かりはなくはない。 梅月自身には興味を示さなかったが、梅月の面差しを面に写すことには興味があるようだ。 粋人として生きる自分には、時間はいくらでもあった。 人に、己にすら興味を持たぬ弥勒を、一度たりとも自分から使ったことはない手練手管で振り向かせることに決めたのだ。 梅月にとって。 それは興味深い遊びだった。 「おはよう、弥勒」 爽やかな朝に、梅月は弥勒の小屋を尋ねた。 「今日もよい天気だよ。たまには君も少し散策でもしてお天道様の光を浴びた方がいい・・・」 と、声をかけながら梅月が小屋の戸を開けると。 明かり取りから差し込む光の下に、弥勒が左手に鑿を握り締めたままうつ伏せに倒れていた。 「弥勒!?」 梅月は草履を脱ぎ捨て工房に上がった。 慌てて駆け寄り、抱き起こす。 弥勒の体はあまりに軽くて、死んでいるのかと本気で思ったのだが。 「弥勒・・・?」 一応、呼吸はしていた。 熟睡している最中特有の、ゆっくりとした呼吸だ。 念のため脈もとってみたが、確実に心の臓の動きを刻んでいた。 「・・・驚いた」 梅月は弥勒の体を膝に抱えたまま、安堵の溜め息をついた。 落ち着いて改めて弥勒を見下ろす。 弥勒は梅月と同じぐらいの身の丈があるはずだが、やけに軽い。 相手が熟睡しているのをいいことに、梅月は弥勒をまじまじと観察した。 もっとも、起きている時にぶしつけなほどに見つめていても、弥勒は意に介さないのだが。 弥勒の閉じた目の下にはくっきりと隈が浮き、頬はこけている。肌にも張りがなく、全体にやつれて見える。 服の下は、あばらが浮いているのではなかろうか。 そう思い、胸に手を当ててみると、あばらの形がよく分かるほどだった。 梅月はもう一度溜め息をついた。 今度は呆れたためだ。 これが倒れていたら、死体と見間違えても仕方がないと思う。 「生きたまま棺桶に入れられて焼かれても文句は言えないよ?」 聞いてもいない相手に梅月は呟く。 それから、それがこの死体のように眠る男にとってはある意味で本望だろうと言うことに気が付いて、梅月は微かに眉を寄せた。 少し顔を見るのが嫌になって周囲を見回している内に、それを見つけた。 「おや」 弥勒の体の下敷きになっていたその面は、見覚えのある面立ちをしていた。 弥勒を膝枕したまま、手を伸ばしてそれを取り上げ、梅月は整った顔を盛大に顰めた。 それは、梅月の面立ちを写した面だった。 「嫌になるな・・・」 もう後は色をつけるだけに見えるその面は、取り澄まして、口元に冷たい笑みを浮かべている。 「全くよく似ているよ」 見目だけはきれいだが、その実心の内には誰もよりも汚い思いを飼っている自分に、よく似ていると思った。 その時だ。 膝に抱えた死体――もとい、弥勒が身じろきした。 「ん・・・」 「ま、待て」 鑿を逆手に握り締めたままの左の甲で目をこする。 ために、鑿の刃が梅月に突きつけられる形になった。 梅月はやっとの思いで身を反らせて、刃先を避けた。 「弥勒、まずは鑿を離してくれないか」 梅月はまだ膝に頭を載せたままの弥勒に声をかける。 「あまり心臓によくないよ、それは」 梅月の声がちゃんと耳に届いているのかどうか、弥勒はのっそりと起き上がる。 そして、鑿を肩掛けにしまいながら、梅月に問うた。 「何故君がここに」 あまりと言えばあまりな言葉に、梅月は渋面を作った。 「君を散歩にでも誘おうと思ったのだがね、戸を開けたらここで君が倒れていて、肝を冷やした次第だよ」 梅月の言葉を聞いて、弥勒は呟いた。 「・・・またやったな」 「何を」 「面を打つのに夢中になって、つい飲まず食わずで倒れることがよくある。自分でも気がつかぬ内に寝てしまったのだろうな」 さほどのことではないようにボソボソとした口調で言いながら、弥勒の視線は床の上をさ迷っている。 梅月はそのことに気づいた。 「何を探しているのだい?」 「面を・・・」 ボソリ、と、弥勒は呟く。 梅月に礼を言うでもなく、朝飯を用意するそぶりすら見せず、まず打っていたはずの面を探す。 梅月は思わず深い溜め息をついて、持っていた面を差し出した。 「お探しの物はこれかな」 だが、一言当てこするのは忘れない。 「別に感謝して欲しいとは思わないがね、朝の挨拶ぐらいはくれてもいいのではないかな」 挨拶は大切なことだよ、と、梅月は言ったが。 「すまん」 と、弥勒は面を受け取り、視線を落とした。 もう一度、梅月は溜め息をつく。 何も言わなかったが。 言っても無駄だ。 だから、別の話題を持ち出す。 唯一、弥勒が会話をしてくれそうなネタが今、弥勒の手元にある。 「それは、僕を写した面だね」 「その、つもりだ・・・」 梅月の言葉に、弥勒は微妙な答え方をした。 「すぐに分かったよ。よく似ている・・・」 と。 弥勒が顔を上げて、鋭い視線を梅月に注いだ。 「どうしたんだい?」 梅月の問いにも答えず、睨み付けている。 「・・・弥勒?」 弥勒はおもむろに呟いた。 「また、駄目だったか・・・」 呟いて。 弥勒は面を床に置いた。 そして、片膝を立てながら肩掛けから鑿を一本引き抜き、流れるような仕草で面の額に刃を突き立てた。 弥勒は常の感情を感じさせない表情のままだ。 梅月が止める間もなかった。 ぱん、と、乾いた音を立てて、面は真っ二つに割れる。 「これは・・・」 梅月は口元を袖で押さえた。 「随分な仕打ちだね」 その言葉に、再び弥勒が梅月に視線を向ける。 表情に変わりはなかったが、不思議に思っていることだけは何となく伝わった。 「何がだ?」 弥勒は鑿をしまいながら問う。 梅月は軽く肩を竦めた。 「それは、自分に似せた面を目の前で真っ二つにされたら、誰でもいい気分ではいられないだろう」 「似ていない写し面など、何の役にも立たん」 こんなものを見られて恥ずかしいと、弥勒は真っ二つになった面を部屋の片隅へ追いやった。 そこには、面の残骸が積まれていた。 かなり、気味の悪い光景だが、梅月はこのような職人を何人も知っている。 名人と言われるような職人は、誰しも自分が納得できないものは人目に晒さぬものだ。 ただ、そのような職人の中では弥勒は飛び抜けて若く、彼の天賦の才を感じさせるが、だがしかし。 「しかもそれは君の打った面だ。何だか呪いを受けそうな気がして、気味が悪いよ」 「心配ない・・・あれには魂が入っていなかった」 だから駄目だったのだがな、と、弥勒は呟いた。 「写し面は久しぶりだが、難しい」 言いながら、頭を覆っていた布を外す。 ざんばらの黒髪が露になる。 だが、表情は変わらなかった。 「今度こそは上手くいったと思っていたのだが」 「ずっと僕の面を打っていたのかい?」 「ここしばらくは」 短く答えて、ふらりと立ち上がる。 「飯を炊く。君も食べるか」 「これから?」 「ああ」 そう言う弥勒の足取りは明らかに危なっかしく、思わず梅月はその唯一の手をはっしと掴んだ。 体のやつれ加減からは想像もつかないほど、ごつごつとした職人の手で、それは新たな発見だった。 「館へ行こう」 唐突とも言える梅月の言葉に、弥勒は無言で見下ろしてくる。 「館の厨なら、すぐに食べられる物が何かあるだろう」 今の君は、今から悠長に食事を作っている場合ではないと思うよ、と、梅月は掴んだ手を引いた。 大体、全く火の気を感じないかまどの周りには、ろくな食料があるようには思えなかった。 この自分自身にすら興味のない男が、まともな食事を作るための食材を用意する頭があるとも思えない。 かと言って、まともに飯を食えと言って聞かせたところで、生活態度を改めるようなたまにも思えず。 それぐらいなら、とっくに他の者が説得に成功しているだろう。 梅月は、何とか弥勒が心を動かされそうな言葉を捻り出す。 「一応ね、僕も芸に生きる身だ。君が面に一心不乱に打ち込むのはよく分かる。その姿勢は素晴らしいことだと思うよ」 面、の一言で、弥勒の体が梅月の方に向いた。 そう、面しかないのだ、この男を説得する術は。 今はまだ。 「だがね、それで餓死してしまったらお話にならないよ?」 ぴくり、と、弥勒のいつもは布の下に隠されている眉が動いた。 「余計な・・・」 「聞きなさい」 短気を起こしかけた弥勒の語尾を、梅月は引っ手繰り、早口にまくしたてた。 「餓死と言うのはね、一気に死ねるものではないのだ。徐々に力が失われ、死に至るもの。生きている内に力がなくなって、鑿を振るえなくなった頃には、自分で死ぬ力さえも残っていないよ。それは、君には耐えられないだろう?」 それは、確かに弥勒の痛いところを突いたらしい。 梅月が見たことがないほどはっきりと眉を顰め、呟く。 「それは困る」 「だろう。だから、一日に一食は食べること。寝ないのなら尚更だ」 「気を、つける」 弥勒がうなずくのを見て梅月は、弥勒の手を掴んだまま優雅に立ち上がる。 梅月は内心でほくそえんでいた。 この無表情な男を、言葉で揺さぶって、思う通りの反応を引き出せたことを。 だが、満足はしない。 わずかなりとも印象に残すには、もう一押し欲しいところだ。 立ち上がった梅月は、視線を合わせて顔を寄せた。 もう少しで唇が触れそうな距離まで。 それでも弥勒は逃げるでもなく顔を背けるでもなく、梅月を見ている。 そのガラス玉のような瞳に、あまり趣味がいいとは言えない笑みを浮かべた自分の顔が大映しになっていた。 「どうだい、僕の屋敷に移り住むと言うのは。部屋なら腐るほどあるし、食事の世話ぐらいはしてあげられるよ」 「いや」 声音だけなら何気ない梅月の提案を、弥勒はけんもほろろに断った。 取りつく島もないとはこのことだ。 「何故?」 と、優しい声で問えば、弥勒は言下に答える。 「面の材がすぐに手に入るここがいい」 その答えに、梅月は情のないことだと嘆息した。 そんなことは、最初から分かりきったことではあるが。 「では、君をおとなう時には鮨折りの一つも持ってくることにしよう」 助かる、と、弥勒はボソリと呟いた。 それはかなり梅月にとっては意外な答えで、思わず聞き返してしまう。 「おや、もしかして鮨が好物だとか――」 「いや」 弥勒は少し俯いて首を横に振った。 弥勒の前髪が、梅月の漆黒の前髪を撫でる。 「像主が来てくれるなら、少しは写しが楽かもしれん」 弥勒のその回答は、やはり梅月にとっては思いもよらぬことで、一瞬だけ返す言葉を失った。 だがすぐに、柔らかな笑顔を浮かべて耳元で囁いてみる。 「・・・そう言ってくれるなら、なるべく寄らせてもらうことにしよう」 しかし、弥勒は何も答えなかった。 梅月は無論、沈黙を肯定と取るぐらいには図々しく神経が出来ている。 「それでは館に行くとしよう」 梅月は弥勒の手を握ったまま、歩き出す。 「梅月」 弥勒の声には非難の響きが宿っていたが、梅月はことさらに明るい声を出す。 「これで、君と散歩をしようと言う目的は達したことになるのかな」 「手を引かれなければ歩けないほど弱ってはいないぞ」 相変わらず通り三本ほどずれたことを言い出す弥勒に、せいぜい優しく笑いかけて。 「それでは、行こうか」 まずは第一歩。 罠にかかるのは、どちらだろうか。 |