あれから、梅月の訪れはぱたりと途絶えた。 けれど、弥勒の生活は変わらない。 市や吉原などの避けられない理由以外では工房に篭って過ごし、また、時折倒れているところを発見されたりするようになったり。 全く以前と変わらない。 端から見れば、あれほどまでに足繁く通ってきた、しかも大輪の花のような存在が消えて寂しくなったのではなかろうかと心配しても、当の本人は寂しいと言う言葉を知らぬがごとくの鉄面皮だ。 程なく、梅月が弥勒の体に残していった痕も消え。 梅月の気配は全て消えた――。 その木片を手にした途端、弥勒の目に光が宿る。 裏を返し、光にかざし、ためすがめつ観察して、それから、小脇に抱えて工房に戻って来る。 工房のいつもの位置に座り込み、呼ばれるがままに膝の上に置いた木片の上に筆を走らせ、大体のあたりを取る。 筆を置き、全体を眺める。 出来に満足がいったのか、小さくうなずいて、弥勒は木片を足に挟み、肩掛けから一番太い鑿を取り出すと、力一杯木片に振り下した。 一介の俳諧師にも関わらず、霞梅月の屋敷は広大だ その門だけで庶民の長屋ほどもあろうか。 それだけ広いにも関わらず、屋敷には梅月一人で暮らしている。 無論、通いの使用人は大勢いるのだが、雨戸を閉めた後は全員が帰宅する。 それが、梅月の希望だった。 そんないつも通りのある日の夕暮れ時のことである。 もうそろそろ帰ろうかとしていた通いのじいやは、威圧感すら感じるその門の前で、その若い男に出会った。 「この屋敷の者か」 声をかけられ視線を上げて、思わずじいやは一歩引き下がった。 肩には大量の刃物を差した肩掛け、片肌脱いだ柿渋色の着物の下には派手な柄物の服。 それだけでも充分まともではない風体なのに、更にその男は隻腕だった。 胡散臭く見るなと言う方が無理な相談だ。 しかし、身構えるじいやの視線にも委細構わず、その男は妙に平板に聞こえる声で告げた。 「主に取り次いでもらいたい。弥勒が来たと言えば分かる」 弥勒を知っている者にしてみれば、あの弥勒がまともにしゃべっていると驚くほどきちんとしゃべっていたのだが、知らない人間にしてみれば、倣岸不遜と取られても仕方のない口調と言葉、そして感情を一切感じさせない目をしていた。 実際、じいやはけしてこんな輩を主人に会わせるどころか耳を汚してはならぬと決心していた。 若くして天賦の才を開花させ、どこへ行っても人気者でありながら、使用人にもけして横暴には振る舞わない梅月に、じいやは心酔しており、今までにも何人もの不逞の輩を撃退している。 梅月のたっての希望により通いのままだが、本当であれば門の長屋に住み込んで、二六時中見張っていたいほどなのだ。 まして、ここしばらく梅月は気分が優れない様子で、どんなつまらないことでも余計な気など使わせたくなかった。 「見たところ押し売りか。どこの馬の骨とも分からぬ輩など、取り次げるか」 弥勒は背に風呂敷包みを背負い、また小脇にも風呂敷に包んだ箱のようなものを抱えていたから、手頃な判断ではあろう。 「押し売りではない」 「ならば物乞いか」 否定した即座に返されて、しかも追い払う手つきまでされて、さすがの鉄面皮も表情が変わった。 しかし、気分を害したと言うよりは、面倒くさいと思っているように見えた。 「金などいらん。これを渡すだけだ」 と、弥勒は顎で小脇の風呂敷包みを示す。 「だったらわしが預かろう」 その言葉に、強い意志を示す眉を顰めて弥勒は呟く。 「渡さずに捨てられそうな気がする」 図星である。 思わずじいやが絶句した瞬間、弥勒はとんでもないことを言い出した。 「取り次いで貰えんのなら、勝手に入るだけだが」 せっかく筋を通しているのに、と、弥勒はいらだたしげな視線を投げつける。 それは、じいやにはとても生きている者の視線とは思えなかった。 落ち窪んだ目だけがぎらぎらと輝いているように見える。 まだ微かに日は残っているのだが、実は、男の形を取った怪異なのかもしれない。 その人とは思えぬ視線に気圧されて、じいやは木戸を潜って玄関へ走る。 自慢の主はとても賢い。怪異の撃退法も知っているに違いない。 しかし、その名を告げた時の梅月の反応は、全くじいやの予想を裏切るものだった。 気だるげに書斎の柱にもたれかかって話を聞いていた梅月は、『弥勒』と言う名を聞いた途端跳ね起きて、まっしぐらに駆け出して行ったのだ。 いつもの典雅な所作からは想像も出来ないことで。 息を弾ませ、必死の形相で駆けつけて来た梅月に、弥勒は何事もなかったように、そして前置きも何もなく、木戸の向こうから風呂敷包みを差し出した。 「これを」 「弥勒、どうして君がここに」 梅月に問われても、 「吉原への行きがけだ」 会話がぶつりと途切れる。 仕事なのだとは、梅月には理解できたが。 「それでは今夜は?」 村には戻れないだろうと暗にほのめかしたが、弥勒は梅月の期待を裏切った。 「今日は楼主との約束だ。楼に泊まって明日の昼に帰る」 「ならばせめてお茶だけでも・・・」 必死で足止めしようとする梅月を遮って、弥勒は問答無用で風呂敷包みを押し付けた。 「好きに使え」 「これは・・・?」 ためらいがちに包みを受け取って尋ねる梅月に構わず、弥勒は踵を返す。 「待ってくれ!」 思わず腕を取ろうとした梅月の前で、弥勒が大きく身を引いた。 弥勒に避けられたと思い、蒼白になる梅月に、冷ややかなほどの声が投げかけられる。 「こんな大荷物の時に転ばさせるつもりか」 確かに、刃物を肩に掛け、恐らく売り物の簪やら何やらを背負っている弥勒をいつものように遠慮なく捕まえたら、いろいろ問題が起こるだろう。 まして隻腕の弥勒は体の均衡を保ちにくい。少し重心がずれるとすぐに転んでしまうのだ。 だが、本当にそれだけの理由なのかと、梅月は疑りの視線を向けてしまう。 「寄って行ってはくれないのかい」 勝手に押し掛け、勝手に寄りつかなくなったのは自分だと梅月は分かっている。 それなのにこうして自分の前に現れてくれた弥勒を捕まえたくなってしまう。 いや、自分はこの時を待ち続けていたのだと、梅月はようやく悟った。 弥勒が自分の元を訪れてくれるその時を。 きっと、一度この門を潜ったら、言霊の力を駆使してでも、弥勒を帰しはしないだろうと梅月は思う。 まるで女郎蜘蛛のようだと、思わず自嘲の笑みが浮かぶ。 しかし、そのことを知っているかのように、弥勒はけして木戸を潜ろうとはしない。 やはり誰の物にもならないのだと、思い知らされ、肩が落ちる。 悄然とする梅月に、弥勒はふと思いついたように告げた。 「・・・君はおかしくはない」 「え?」 「おかしくはない・・・まともだと思う」 それだけを言い残して、弥勒は歩き出す。 「弥勒!?」 梅月がその名を読んでも、振り返ることはなかった。 梅月は弥勒の家の戸の前で心の準備を整え、引き手に手をかける。 「お邪魔するよ」 返事などないものと思い込んでいたが、 「開いている」 と、工房から声が聞こえて、梅月は驚いた。 弥勒は鑿を手にして、木片に向かっている。 「どうしたんだい、君が面を打っているのに返事をするなんて」 梅月が思わず正直なことを言うと、 「丁度取りかかったところだ」 始めたばかりなので、まだ没頭するには至らなかったと言うことか。 ただし、弥勒は梅月を見ようとはしない。 「今日は運がよかったようだね」 梅月は問答無用で工房に上がりこんだ。 それだけであれば弥勒も否やはなかったろう。 しかし、 「申し訳ないが、少し時間を取ってもらえないかな」 と、弥勒の正面に正座した梅月が、抱えていた風呂敷包みを膝のすぐ前に置いて作業を遮られることには、不快感を示した。 「今日中に粗方の形を打ち出したい」 弥勒はそう言って鑿を握り直し、振りかぶろうとしたが、その目の前に、梅月の男にしては整った手が突き出された。 「それほどの時間は取らせないよ」 「それについては話がついているだろう」 弥勒は、梅月が持って来た包みの中身を見てもいないのに、正確に見抜いていた。 「全くついていないね」 そのまま、しばらく二人睨みあったが、根負けしたのは珍しく弥勒の方だった。 梅月にしてみれば、ここを再び訪れるだけでも相当な勇気がいったのだ。 ことと次第によっては言霊の力を使うことも辞さない決意だったから、賢明な判断だったとも言えるかもしれない。 「何だ」 梅月が風呂敷包みの結び目を解くと、まだ新しい桐の箱が現れる。 「単刀直入に聞こう」 箱の蓋を押さえていた組み紐も解き、蓋に手をかける。 「これは、どういうつもりなんだい?」 言いつつも、一瞬、ためらった。 勇気を振り絞って蓋を開けると、そこには静謐の世界が広がっていた。 開けた蓋を脇に置いて、梅月は弥勒を睨みつける。 弥勒のどんな変化も見逃さぬように。 だが、弥勒の鉄面皮はそよとも動かない。 箱の中にちらりと視線を投げ、すぐに梅月を見返す。 「確か、好きに使えと言ったと思ったが」 「確かに言った。しかし、これを僕にどう使えと」 舞に使えるものでもなし、と、梅月は腕組みをして睨み据えた。 桐の箱に納められていたのは、一枚の面である。 それは明らかに弥勒が難渋していた梅月の顔立ちを写した面だ。 両の目を半眼に閉じ、口元に笑みを湛えるその表情は美しい。 しかしその美しさは、けして造作から生まれる美しさではなかった。 むしろ、造作は異形だ。 その額には、梅月にはない第三の眼が象られていたのだ。 まるで異国の神のように。 そうでありながら、その面は無垢である。 それも、子供のような何も知らない無垢ではなく、この世の清濁を全て併せ呑み、更に辿り着いた無垢。 半眼に閉じられた双眸は悟りを開いた仏のような静謐を湛え、しかししっかりと見開いた第三眼は世界の理を見通すが如く。 ――第三眼を持つ『星見』の面。 その面が、それまで弥勒が投げ捨ててきた出来損ないとは一線を画すものであることは、梅月の目にも明らかだった。 いや、星を詠み、言霊の力を自在に操る梅月をして、恐ろしいと思えるほどの力を秘めた面など、初めて見た。 こんなものがこの世に存在することが許されるのかと、梅月ですら初めて見た時は震えが止まらず、思わず蓋を閉じてしまったほどだ。 並の者であれば、一目で魂まで奪われかねない、そんな力を秘めた面。 この面は弥勒の面打ち師としての技量だけで生み出されたものではない。 弥勒がどれほどの面打ち師としての天賦の才を備えていようと、彼が目に見えぬ神を降ろせる巫子でなければ、こんな面を打ち出すことは不可能であったろう。 この面は、確かに梅月の造作を写していたが、宿る気は、明らかに梅月の力をも超える何かである。 それほどの面を、自分自身さえもないがしろにしてしまうほど面に執着している弥勒がどうして手放すのか、梅月には全く理解できなかった。 「何故、これを僕に」 梅月の問いに、珍しく弥勒の表情が動いた。 そんなことか、とガラス玉のような目が言っていた。 「その方がいいと思っただけだ」 弥勒はいつもの口調でボソボソと答えた。 「だから、どうしろと言うんだ」 確かに梅月には常人にはない力があり、面の力を見抜くことが出来る。 その気になれば、弥勒自身のように面の力を引き出すことも不可能ではあるまい。 しかし、この面は『星見』だ。わざわざ面の力など使わなくても、梅月には星が詠める。 けして梅月自身が望まなくても。 星見の力を持たぬ者には役立とうが、星見である梅月には意味がない。 だが、弥勒は気のなさそうな口調で言った。 「それは今まで俺が打ち出した面の中でも指折りの出来だ。多分、これからもそれを超える面はそうそう打てないだろう」 「それは、分かるよ。この面は造作の妙だけでなく、物騒なほどの力を備えている」 それは梅月にも否やはない。 硬い顔をしてうなずくと、弥勒はさらりと言った。 「俺の面に力があると言うのなら、人の身代わりにもなれるだろう」 「え?」 「そして君には、一度ぐらい面に運命を押しつけられる力があるのではないのか」 弥勒の言葉に、梅月は絶句するしかなかった。 弥勒は、梅月の死の運命を、この面に移してしまえと言っているのだ。 「ただし、できたとしても一度が限度だと思うが」 思わず梅月は息を飲んだ。 「・・・そんなことをしたらこの面は壊れてしまうよ」 梅月の代わりに終焉の運命を押し付ければ当然、面は壊れてしまうだろう。 そんなことが、弥勒に赦せるはずがないと、梅月は思った。 弥勒にとっては人よりよほど面が大切なはずだ。 まして、弥勒の最高傑作の一枚と言っていいほどの面を犠牲にするほどの好意を、梅月に持っていたとは信じられない。 だが、 「それならそれが、その面の運命なんだろう」 弥勒は信じられないほどあっさりと言った。 「その面は、俺が君と出会わなければ、打ち出されることはなかった。完成した時、俺は君が持っているべきだと感じた。だから君が好きにしていい」 君が墓まで抱えていくのもよし、身代わりにして粉々に砕け散るならそれも運命――。 気に入らないのならいっそ燃やしてくれ、と、弥勒は平板な声で告げた。 余人に渡す気はないから、と。 「君が要らないのなら、壊してしまった方がいい」 「要らなくなどないよ」 迷いを見せたらこの場で火をつけかねない気配を感じ取って、梅月は慌てて遮った。 「君の面を、しかもこれほどの傑作を手に入れられるのはとても嬉しいが、でも・・・」 それでも、何と続けていいのか分からずに言いよどむ梅月を見て、弥勒は再び視線を足で押さえた木片に移した。 「ならば持っていればいい」 「待ってくれ」 話は終わったとばかりに目の前の『星見』の箱を脇に押しやって、鑿を振り上げようとした弥勒を止めようと、梅月が手を出した。 弥勒と梅月の手がぶつかった。 思わず梅月は、あっと声を上げた。 衝撃で弥勒が重い鑿を取り落としてしまったのだ。 その瞬間、弥勒は素早い動作で打ちかけの木片を取り上げた。 鑿は、取り上げた木片があったところ――弥勒の足の上に落ちた。 ざっくと、鑿の刃が弥勒の脹脛を切り裂いた。 鮮血が、床に滴る。 脹脛に広がる一面の傷跡は、このようにしてついたものなのだと梅月は初めて気づいた。 「弥勒!」 「これを奥に片付けてもらえないか」 慌てる梅月に、弥勒は身を挺して守った打ちかけの木片を差し出した。 否やなく梅月は受け取って、面を工房の奥に置いて戻ってくると、弥勒は、切った傷はそのままに、鑿の刃についた血を拭っていた。 「何をしているんだ!」 思わず梅月は声を荒げた。 「脂がこびりついてしまうと困る」 しかし弥勒はさも当然と言わんばかりに、血糊を拭った刃を確認している。 そして満足がいったのか、ようやく立ち上がろうとした。 「立つんじゃない、出血がひどくなる」 梅月はその肩を上から押さえる。 「薬箱はどこだい?」 弥勒が視線を巡らす。 その視線の先に、小さな引き出しがある。 「動くんじゃないよ、いいね」 梅月は念を押して、薬箱から傷薬を取り出す。 「水は?」 「かまどの脇に」 梅月は水瓶から水を汲み、弥勒の前に戻って来る。 着物の裾をめくり、傷を確かめた。 幸い、見た目程深い傷ではなく、もう出血は止まりかけていた。 固く絞った手拭いで傷口を拭き、傷薬を塗って包帯を巻く。 「全く、鑿の切れ味が悪くなったら困るのは分かるが、破傷風にでもなったらもっと困るだろうに」 たいした傷ではないと思っているのかも知れないが、ついさっきまで木を削っていた刃で傷付けたのだ。 これほどまでに自分の体に無頓着でいられると、それだけで、腹が立ってくる。 梅月の前で。 梅月はどれほど体をいとうても、その寿命は短くなっていくばかりなのに。 望んでも手に入れられない者の前で、こうまで無頓着な言動を取ることがどれだけ残酷なことなのか理解していないのだと思うと、口惜しさに歯ぎしりしたくなってくる。 と。 「すまん」 弥勒の思わぬ言葉に、梅月は思わず手を止め、顔を上げた。 「俺は、人でなしなんだ」 「何が」 梅月の怪訝そうな視線の前で、弥勒のガラス玉のような目は、相変わらず何の感情も写してはいないように見えた。 「職人として命であったはずの利き腕を切り落とされてさえ、俺は悲しむより、怒るより、自分の流す血の色に目を奪われた。その時初めて気づいた。自分が人でなしだと」 弥勒はほんの少し、遠い目をした。 「それでも、命長らえた時、面が打てぬのなら死のうと思って鑿を握ったはずなのに、俺はいつのまにか面を打っていた」 凍りつく梅月の前で、元から俺は狂っていたのだろうな、と、低く呟く。 「いつも頭の中に声が聞こえる。面を打てと」 弥勒は天気の話でもするように、淡々と告げた。 「多分俺にはこの世で打たねばならん面があって、それがどれぐらいの数なのかは知らんが、恐らくその全てを打つまでは死なない・・・いや、死ねないんだろう」 言いながら、弥勒は目を伏せた。 「だが、あまり長生きできるとも思っていない」 うっかりしていると聞き逃してしまいそうな、何気ない口調だった。 しかし、梅月は聞き逃さなかった。 聞き逃せるはずがなかった。 死を常に身近に感じている梅月であれば。 「何を言っているんだい?」 梅月は自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。 「俺は、何者かに面を打つために生かされているんだろう。命じる声が、神か、仏か、悪鬼か、それともただ俺の内なる声なのか、何かは知らん。後どれだけの面を打てばいいのかも知らん。だが、声が命じる全てを打ち終えるのも、それほど先のことではないような気がする」 常からは想像も出来ないほどの長口舌の後、弥勒は唇を真一文字に引き結んだ。 もうそれ以上語る言葉はないかのように。 しかし、梅月にとってはそれで充分だった。 弥勒の面は、その一枚一枚が彼の死への道程なのだと、梅月は悟る。 梅月は自分の終着点をはっきりと知っている。 だが、弥勒は終着点がどこにあるかは知らないが、確実に、しかもそう遠くはないところにあることを知っているのだ。 なのに、どうして。 これほどまでに平静を保てるのだろう。 「怖くないのかい?」 ひそり、と、梅月は問うた。 「分からんのだ」 弥勒はゆっくりと瞼を開けた。 「死ぬのが怖いと言う気持ちが、俺には分からんのだ」 弥勒の双眸はいつものガラス玉のままだった。 「多分、俺の心はとっくに死んでいる。右腕を失うその前から」 「そんな・・・」 梅月は、絶句した。 懸命に言葉を紡ごうとするのだが、声が出てこない。 その前で、弥勒は呟いた。 「人は、避けられないからこそ老いと死を恐れる。だから君が死を恐れるのは当たり前で、自然なことだ」 「弥勒?」 「そう頭では分かっているのだが、心が感じない・・・少し羨ましかった。死を恐れることのできる君が」 だから気まぐれを起こしたんだろう、と、弥勒は頭を巡らせて『星見』の面を納めた箱に視線を投げた。 何とか絞り出した梅月の声は震えていた。 「そんな悲しいことを言うものではないよ・・・」 そんな梅月を見て、不思議そうに弥勒が問う。 「どうして君が泣く?」 言われて始めて、梅月は自分が泣いていることに気がついた。 「君が、泣かないからだ・・・」 梅月は涙を拭って呟いた。 それでもぽろぽろと涙は後から後から零れてくる。 梅月は、星見であるが故に、この世のありとあらゆるモノを見てきた。 きれいなモノも、汚いモノも、ありとあらゆるモノを。 どれほど見たくないと願っても、見ざるをえなかった。 しかし、そんな梅月ですら、こんな悲しい存在を知らない。 喜びを知らない者は大勢いた。 満足することを知らない者は数え切れないほどいた。 人の心は自分の不幸せにはひどく敏感で、我が身の不幸を嘆いてばかりいる者は掃いて捨てるほどいる。 梅月自身がそうであるように。 だが、悲しいことを悲しいと感じることも出来ないほど凍りついてしまった魂など、梅月でさえ他に知らない。 「君が泣かないなら、僕が泣くしかないじゃないか・・・」 梅月は、涙で歪んだ顔を隠すように、右手で目元を覆う。 自分でも不思議だった。 醜くも自分自身を哀れみ続けて、涙などとうに涸れ果てたと思っていたのに。 あれほど死の影に脅え、弥勒に縋りついた時でさえ、涙は流れなかったのに。 けれど、今は梅月自身止めたくても涙が止まらない。 「君が泣くことはない。俺はそんなに不幸ではない」 無骨な手が、髪を撫でた。 まるで梅月を落ち着かせるように、ゆっくりと。 「それが、悲しいんだ」 梅月は思わず弥勒の胸倉を掴んだ。 力を加減することを忘れたせいで、弥勒は梅月の体重を支えきれずに後ろへ倒れてしまう。 さすがに、弥勒が驚いた表情をしているように見えた。 ただ、梅月の視界が涙で歪んでいただけかもしれない。 「俺は不幸ではない」 胸倉を掴む梅月の手に唯一の左手を添えた弥勒の声は、いつも通り平静だった。 「面を打つしか能がない俺を、必要だと言ってくれた者がいた。それに、誰かが俺のために泣いてくれるなど今まで考えたこともなかった。それでもう充分だ」 弥勒は梅月の手を静かに外して、押し戻した。 「弥勒・・・」 「誰かに話すつもりなどなかった」 半ば呆然と膝立ちのまま見下ろす梅月の前で、弥勒がゆっくりと体を起こす。 「言って分かる者などいないと思っていたからな」 「ならばどうして僕に」 「気にしなくていいと言うだけのつもりが、余計傷つかせてしまったようだな」 悪かったと弥勒に言われて、 「・・・確かに、分かってしまったけれど」 梅月は、必死で涙を押し止めながら呟く。 恐らく、梅月は弥勒が思っているよりもその言葉を理解してしまった。 他の誰が分からなくても、梅月には分かってしまう。 どちらも、姿勢も立場も違うが、常に死と相対していることは同じだから。 けれど。 弥勒の体は確かにこの世のものだが、心はすでに此岸と彼岸の狭間にあるのだと、梅月は知ってしまった。 梅月は握り締めた拳で胸を押さえた。 弥勒の告白は梅月にとってさえあまりにも胸に痛くて。 やはり弥勒は傍観者なのだ。 彼の前を全ての景色が通り過ぎてしまう。 きっと、弥勒にとっては全てが薄い膜を一枚通して眺めている出来事なのだ。 膜の向こう側にあるものは、弥勒の心を捕えることが出来ない。 誰もが恐れる死、さえも。 弥勒は何も求めないのではない。 そもそも何かを求めて手を伸ばすことを知らないのだ。 彼らが出会うずっと前に、全ては自分の手の届かぬものと諦めてしまったのだろう。 そのくせ、与えることだけは、知っていて。 梅月が傍にいたいと願えば、叶えてくれた。 人肌の温もりを求めれば、温めてくれた。 無様なほどに脅える死の影すら、一度なりとも逃れる方法さえ与えてくれて。 気まぐれに膜の向こう側から投げ与え、後は一顧だにせぬつもりなのかもしれないが、それでも与えてくれたことは確かなのだ。 それなのに、自分は何も求めない。投げて寄越せとも言わない。 ただ、ひたすらに死への道程を一歩一歩刻んでいくばかりで。 それを思うと、また涙が溢れて来そうになる。 「君はいさぎがよすぎるよ、弥勒」 梅月は出来るだけ軽い口調を装って言った。 それでもまだ泣き笑いの表情だったのだが。 弥勒は、無言である。 やはり自分自身の命の道行きにさえ興味はないと言わんばかりの表情で。 そんな弥勒を見ている内に、ふと目の前から消えてしまいそうな錯覚に囚われる。 いや、まんざらありえないことでもないような気がした。 誰にも何も言わず、ふらりとどこかへ消えてしまう――実にありそうで、梅月はぶるりと震える。 梅月は、それを止めるための一計を案じた。 自分には、自分にこそ、その力があることに思い至る。 弥勒は、打たなければならぬ面がある限りは生きていると言う。 生きていなければならないのだと言うのなら。 「ねえ、弥勒」 梅月は涙を一拭いし、にこりと笑った。 持てる力の全てで弥勒に言霊の呪を投げかける。 「僕が死んだら、君が僕の髪なり骨なり使って面を打ってくれまいか」 それは、梅月の命に弥勒の命を縛りつけるための呪。 弥勒が受諾すれば、呪は成立する。 そして弥勒は、相変わらずの無表情でこくりとうなずいた。 「その時まで俺が生きていたならば」 梅月は苦笑した。 やはり弥勒は巫子なのだ。 面打ち師である弥勒はけして呪いを知っているはずはないのに、当代随一の星見である梅月の全霊の呪さえ、潜り抜けていく。 「せめて僕よりは長生きして欲しいものだけれどね」 何の事故に遭うか分からない実戦派の連中ではあるまいし、僕より早死にするようではいかがなものかと思うよ、と、梅月は言った。 その言葉は本心で。 素直にうなずいてくれれば、けして自身より先には死なせなかったものを。 その事実に気がついているのか否か、弥勒は無表情のまま言い放つ。 「お互い様だ」 「そんなことはないよ」 梅月はゆるゆると首を横に振った。 「僕は足掻いて足掻いて、出来る限り長生きするつもりなんだけれどねえ」 そうして、梅月はすっくと立ち上がり、優雅に裾を捌いて縁側に向かう。 空は雲一つない快晴だった。 「見てごらん、きれいな青空だよ」 心の中だけで呟く。 どうかこの世で生きて欲しいと。 一度でいいから心の底からの喜びを味わい、笑って欲しいと。 悲しいことを悲しいとも感じられぬままで、生を終えて欲しくはなかった。 喜びを知れば悲しみはより一層深くなるものだけれど、それでも。 弥勒に笑うことを教える者は、自分でなくても構わないから。 出来れば、自分でありたいとは思うけれども。 梅月は全身全霊をかけて祈る。 ――どうか生きていて。 月日は静かに流れて行く――。 梅月が戸を開けると、工房はもぬけの殻だった。 「おや、市に出るとは聞いていなかったけれど・・・」 呟いたその時に、奥からパチパチと炎がはぜる音が聞こえてくることに気がついた。 ぐるっと回ってみると、弥勒がたき火の前にしゃがみこんで、火を枝でかき混ぜている。 「もしや、それは・・・」 「出来損ないだ」 「君の言う出来損ないと作品の間にどれほどの差があるのか分かったから、妙なことはありえないのは分かっているけれど」 梅月は、まだ自分の面影を残した破片が燃えきらずに炎の中に残っているのを見て、呟いた。 「やはり、自分の顔が焼かれているのを見るのは、いい気持ちのするものではないねえ」 「なら、見るな」 言下に言われて、苦笑する。 「そうする。上がらせてもらうよ」 今度は返事はなかったが、それが了承の合図である。 梅月は迷わず縁側から工房に上がり込む。 出来損ないの始末をしているぐらいだから、掃除をしたばかりなのだろう。 元々物のない部屋だったが、殺風景とはこう言う状態を言うのだろうと思われる有り様だ。 「それにしても、実に色気のない部屋だねえ」 主が主だから仕方がないけれども、と、梅月は聞いていないことをいいことに、言いたいことを言う。 もっとも、聞こえていたところで気にするような可愛げのある主ではないが。 それで気にするぐらいなら、とっくにもう少しどうにかなっているだろう。 梅月は腕組みをして考え込む。 「やはり生活に潤いは必要だ」 そう、決意した調子で呟くと、ちゃぶ台の前に座って懐から矢立てを取り出す。 更に袂から縦長の色紙を取り出して、句を書き付け始めた。 書き上がった後、梅月は腕を伸ばして色紙を眺め、満足がいったのかにこりと笑う。 「よし」 梅月は色紙を袂に入れて外へ出た。 弥勒が出来損ないを燃やし尽くして工房に上がって来たところへ、再び梅月が現れた。 さきほどは手に何も持っていなかったはずなのに、今は風呂敷包みを抱えている。 「帰ったのではなかったのか」 弥勒は取りつく島のない口調で言い放った。 梅月はさほど気を悪くした様子もなく、むしろ上機嫌で言った。 「いや、あんまりこの家には何もないのでね」 と、風呂敷包みを板の間に置いて、結び目を解くと、茶道具が一式現れた。 「茶でも立てようかと思ってね、奈涸殿から茶道具を譲っていただいたんだ」 句を書き付けた色紙を持っていったら、喜んで一式譲ってくれたよ。 と、梅月が言うと、弥勒は冷たい視線で眺めながら呟いた。 「物好きな・・・」 「またつれないことを。ほら、この茶碗は紫の釉薬が美しいだろう?」 なかなか彼は目利きだね、と聞く耳を持たない梅月に、弥勒は工房の奥へと踵を返した。 そんな弥勒の左手を、梅月は問答無用で掴んで引き寄せる。 弥勒は転ばない。 ことある毎に引き寄せられれば、慣れもしようものだ。 「疲れただろう。僕が一服立ててあげるから、お湯を沸かしてくれないかな」 人にかしずかれて暮らす梅月は、日常の事柄についてはほぼ何も出来ないに等しい。 弥勒は、溜め息を吐いた。 どうやら付き合わずには済まないことに気がついたようだ。 「俺は作法など知らん」 知っていたところでこの腕ではどうにもならんがな、と、弥勒は自分の右腕を指し示す。 「作法なんてどうでもよいことだ。味わう気持ちが大切なんだよ」 にこにこにこにこ。 梅月の笑顔の前に、弥勒は白旗を挙げた。 「少し待て・・・」 「ああ、待っているよ」 「その代わり酔狂は今回だけだ」 帰る時にそれは持って帰れ、と、弥勒が言うと、梅月は心外そうな顔をする。 「何を言っているんだい、この家に置いていくんだよ」 「邪魔だ」 「だって、家には茶碗など数え切れないほどあるからねえ」 これからもちょくちょく来る訳だし。 さも当然とばかりの梅月の言葉に、弥勒は宣言する。 「置いて行ったら捨てる」 声音が真剣だ。 一度許したら後はなし崩しになることは、弥勒も分かっている。 だが、そんな弥勒の様子を楽しそうな表情で梅月は見つめる。 「それは困るねえ。館にでも預かっていただこうか」 弥勒は答えずに、かまどへ向かった。 元より口数の少ない弥勒が口先で梅月に敵うはずもなく。 それでも、実行する前に言葉にしようと言う姿勢を見せるようになっただけでも格段の進化である。 反応を返してくれることがつい嬉しくなって、からかってしまう梅月の性格は、自分でも困ったものだと思わなくもない。 もっとも、普通だったらただの脅しだと思うようなことを弥勒は有言実行するので、梅月はせっかくの茶道具を、館に預かってもらうか、それとも奈涸に預けて帰るか、茶を立てながら真剣に考えた。 「いつまでこうやって過ごせるのか、分かったものではないからね」 お互いに、と、梅月は呟いた。 その瞬間、梅月の笑顔を、寂しさが染める。 耳を澄ませば、二つの砂時計から砂が流れ落ちる音が聞こえる。 流れる砂は命そのもの。 どれほど抗ってみても、命の砂を増やすことは出来ない。 ただ、流れ行く様を見守るだけだ。 だから、出来るだけ多くの時間を、ここで過ごしたいと願う。 星見の秋月真琴でもなく、俳諧師の霞梅月でもなく、ただ、自分が自分のままでいられるこの空間の中で、たった一つの切ない命を見つめながら。 いつか来る、そう遠くはない別れの時まで。 森から、ひばりの囀りが聞こえて来る。 その鳴き声に誘われ、梅月は縁側に歩を進めた。 すぐ近くまで迫る瑞々しい緑に口元を綻ばせ、そうして、抜けるような青空を目を細めて見上げる。 「ああ、今日もいい天気だよ――」 梅月は振り返って微笑んだ。
終幕
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サブッ!! いいんでしょうか、こんなにサブイ結末で。寒い冬に更に貴方の心を寒くする(痛)。だって、弥勒こんだけ書いて一度も笑ってない!(恐怖) 最後なので、説明とか言い訳とかさせて下さい。途中も一杯したいことあったんですけど、そっちはぐっと堪えて。 すごく分かり難いと思うのですが、ファイルを別に分けたところで、間に結構時間が経っていると思って下さい。実は、始めから終わりまで、結構時間が経っています。 あ、そうそう、原作で弥勒は能面も伎楽面も打っちゃうようですが、実際にはそんなことありえないので(芸能として全く別の系統なので)、一連の話の中では弥勒を能面師として設定しております。だから捻り出した星見の面も能面系です。 そうそう、前の話ですが「片輪」と弥勒が自分のことを言ってますが、今は本当は使っちゃいけない言葉です。分かってますけど、この時代ならそう言うはずなので・・・同様に「ニ六時中」は当時の言い回しです。辞書を調べなくても分かる言い回しはなるべく織り込むようにしています。 後はもう・・・原作にはない話を一杯くっつけていますので、いろいろあるかと思いますが、苦情は管理人まで。 それでは、最後まで読んでくださってありがとうございました。
夕日
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