工房の隅で懐紙に筆を走らせていた梅月は、何とはなしに手を止めた。
 工房の奥へ視線を走らせる。
 灯火台の明かりの中で、弥勒は木片に鑿を振り下ろしている。
 いつもはきれいなだけのガラス玉のような双眸には、面に向き合うその時だけに浮かぶ光が宿っている。

 ――その背に、青白い炎が見えた。

 弥勒が鑿を振り上げるその様は、まるで背に炎を背負い、剣を構える明王のようだと思う。
 梅月は手にしていた筆を矢立てにしまい、改めて弥勒へ目を向けた。
 弥勒は、打つ面によって姿を変える。
 美しい小面を打てば哀愁を帯びた若い女、恐ろしい獅子を打てば猛々しい鬼神に。
 弥勒はその身の内に神を降ろして面を打ち出す巫子なのだ。
 だからこそ、彼自身は空でなくてはならない。
 もしかしたら、本人もそれと知らずに降ろしてしまった神性に、彼自身を食い尽くされてしまったのかもしれない。
 梅月は弥勒が面を打つ姿を美しいと思う。
 たとえ鬼神をその身に降ろしている時でも、それでもやはり弥勒は美しいのだ。
 弥勒が面から離れた時にはそうは思わない。
 むしろ頬はこけ、体はやつれ、目は光を失い、みすぼらしく見えることすらある。
 面を打っている間にこそ、弥勒の真実があるのだろう。
 いくら家を捨て、自ら力を封じたとしても、梅月自身の本質は変わらない。変われない。
 梅月の目には常人には見えないものが見える。
 もしかしたら他の者とは違う弥勒の姿が梅月には見えているのかもしれないが、それは梅月にも分からぬことだった。
 そして、自分が声をかけても面の世界に没頭している弥勒の姿をただ眺めていることは、梅月にとっては不快ではなかった。
 広い屋敷に一人で住まう梅月には、元より人との会話は存在しない。
 屋敷が広ければ広いほど、静寂は深くなる。
 人肌が恋しくなれば、遊女と一夜の恋を語らえばそれで充分。
 弥勒の孤独は一目で分かるが、常に取り巻きに囲まれている梅月も孤独である。
 句と面と言う違いはあるが、ある形で不思議の力を操る梅月と弥勒は、恐らくとても遠く、一方で近い存在だ。
 その近い部分が、梅月に余人には分からぬ弥勒を理解させる。
 梅月は、ふと背筋を伸ばして呟いた
「とても、きれいだ」
 その呟きは、憧憬を秘めていた。





 弥勒の手元を見ると、木片からは既に粗方の形が彫り出されている。
 幾度となく見た、自分の写し。
 どこからか隙間風が吹き込んだのか、弥勒の手元を照らす灯火台の明かりが揺れた。
 その刹那、弥勒の手が止まった。
 背負っていた炎が消え、双眸から急速に光が消えていく。
 弥勒の心が浮世に戻ってきたのだ。
「弥勒」
 梅月が声をかける。
 弥勒は一瞬体を強ばらせ、そして梅月の方を向いた。
「・・・いたか」
 呟いて、手元の木片と梅月の顔を交互に見比べる。
「どうだい?」
 梅月の問いに、弥勒は溜め息を吐いた。
 そして、手にしていた木片を失敗作の山へ投げた。
 それが答えだった。
「いつもながら、何だか自分が粗雑に扱われているようでいい気分はしないねえ」
 梅月は苦笑した。
 しかし弥勒は構わず、工房の最奥、まだ手付かずの木片を積み上げた一角に向かう。
 弥勒は上の方から木片を一つ手に取っては横に避け、手に取っては避けを繰り返し始める。
 その背後から、足音も立てずに歩み寄った梅月が尋ねる。
「もう次に取り掛かるのかい?」
「いや」
 木片を見定めながら、弥勒はボソボソと言う。
「写し面は、やめだ」
 その言葉に、梅月は微かに目をすがめた。
「諦めるのか」
「いや」
 思わず責める口調になった梅月に対しても、弥勒は視線を木片から離さない。
「骨董屋から注文があったんでな、そちらを先に打つ」
 ボソボソと言いながら、どんどん木片を選り分けていく。
 梅月は、少し俯いて露になっている弥勒の項に視線を吸い寄せられた。
 そこには、赤い鬱血の痕がまだ薄らと残っていた。
 梅月自身がつけた痕だ。
 よくもこう無防備に曝け出せるものだと思う。
 かと言って、決して梅月を誘っている訳ではない。
 それだけは確かなことで、思わず梅月の口元に苦笑が広がった。
 誘われている訳ではない。
 吉原の陰間のように、白く美しいものでもない。
 それなのに、梅月は簡単に罠に落ちる。
 自分が仕掛けた罠に。










 「お邪魔するよ」
 返事などないものと思い込んで戸を引くと、珍しい光景が広がっていた。
 工房にちゃぶ台を引っ張り出して、訪ねてきた奈涸の話を聞いていた弥勒が視線を上げた。
 基本的に、奈涸が一方的にしゃべって弥勒は「ああ」とか「いや」とか言うだけなのだが、奈涸は弥勒がかろうじて会話が成立させられる数少ない相手である。
 奈涸もしゃべるのを止め、肩越しに振り向く。
「おや、先客がいらしたんですね」
「これは先生。ご無沙汰をしております、さ、どうぞ」
 片手に風呂敷包みを提げた梅月に、勝手に席を勧める。
 もうそんな時間かと、弥勒は無言でかまどへ湯を沸かしに行った。
 勝手知ったる何とやら、と言う風情で工房に上がって来た梅月は、奈涸へきれいな笑顔を浮かべて尋ねる。
「今日はどうなさったんですか」
「いえね、弥勒さんにお願いしていた面が打ち上がったと言うので引き取りに」
「ああ」
 梅月は、奈涸の脇に置かれた包みに視線を投げる。
「そうそう、これです」
 視線に気がついて、奈涸はちゃぶ台の上に包みを載せる。
「能面を一揃い打っていただく約束をして、まずは小面を。ご覧になりますか?」
「是非」
 手がけていたのは知っているが、先日完成前に帰ってしまったため、どのように仕上げたのかは見られなかったのだ。
 言下にうなずくと、奈涸は手早く包みを紐解いた。
 包みの中から出てきたのはまだ真新しい桐の箱で、よい木の香りが漂ってくる。
 蓋を開けると、若い女の顔が現れる。
「ほう・・・」
 思わず、溜め息がこぼれる。
 その小面は一見、正に花が綻ぶかのように若く美しい。
 だが、その口元に浮かべる笑みは若い女には不似合いなほどの憂いを含んでいる。
 これほどまでに美しいのに、何故か人生に膿み疲れ果てた老婆の表情のようにも見えた。
 まるで彼女の未来を暗示するかのように。
 人はどれほど今若々しく美しくあろうとも、いつか老いさらばえて死んでいくのだと言う世の理を見る者に突きつけ、そしてまた、この女自身も、若さを謳歌しながら、いつか老いる自分を恐れ嘆いているようにも見える。
 そんな生の歓びと表裏一体の残酷さを、たった一枚の面が表していた。
「この面をつけて能役者が舞ったら・・・いや、この面をつけて舞える能役者はほんの一握りでしょうね」
 梅月が嘆息すると、
「そう、思います。これは並の者には荷がかちすぎる」
 奈涸も大きくうなずいて、そして桐の蓋を被せる。
 ちょうど弥勒が沸かした湯を持って現れたからだ。
 奈涸は解いた時と同じように器用な手つきで包み、ちゃぶ台の上を開けた。
「しかし何故、いきなり面を。確かに素晴らしい出来だけれども、骨董ではないでしょう」
「ご心配なく。我々が年寄りになった頃には立派な骨董ですよ」
 奈涸はからりと笑った。
 途端、梅月の目を狼狽が過ぎったことを気づいたかどうか。
「その頃に手に入れようとしたら、大変なことになっていると思いますからね、今の内に。あ、いや、これを売り物にする気はないですけれどもね」
 言って、奈涸は梅月の方へ身を乗り出した。
「そうそう、先生にもお願いしたかったんですよ。是非、今度色紙なり掛け軸なり、一筆いただけませんか 散らし書きの屏風など御譲りいただけると、とても嬉しいのですが・・・」
 真剣な目をした奈涸から、梅月は笑顔のままするりと身をかわす。
「考えておきましょう」
「もし御譲りいただけるなら、けっして売り物などには致しませんから」
 売り物にするには、弥勒の面にしろ、梅月の一筆にしろ、物騒すぎる。
 どちらも熱心に欲しがる者は多く、そして、誰もが不思議の力を意のままに操れるものではない。
 むしろ、見た目以上の力の存在など、ほとんどの者が気がつかぬだろう。
 が、その隠された力を理解できない者はもちろん、知って悪用を企む者には尚のこと渡せない。しかし、一度人手に渡ってしまえば、どこをどう流れていくのか分からないのだ。
 それならば、間違いのない者の倉にしまい込まれている方がマシと言えようか。
 梅月はともかく、弥勒は面を生み出すために生きているのだから。
 と、
「茶葉はさっき入れ替えたばかりだ」
 言いながら、弥勒が梅月の前に湯呑みを置いた。
 いきなり何を言い出すのかと奈涸が首を傾げると、
「ああ、放っておくとこの人は色の着いたお湯を出してくるものだからね」
 と、答えたのは梅月だった。
 目の前で嫌味を言われても弥勒の表情は変わらない。
 面以外に頓着しない弥勒らしい話ではある。
 だが、そんな弥勒が先に断りを入れるぐらいだから、よほどうるさく言われたのだろう。
 思わず奈涸はくすりと笑った。
「仲のよろしいことで」
 やはり道を極めんとする者同士、何か通じ合うものがあるのかと思う。
 一見では正反対と言ってもいい二人である。
 華やかでいつも人の輪の中心にいる梅月と、無愛想で一人工房に引きこもっている弥勒。
 句と、面と、生み出す物も違う。
 だが、それぞれの作り出すモノがただ美しいだけに止まらず、異形の力を得てしまうほどの存在であると言う一点において、二人は同じだ。
「梅月先生がいらっしゃるようになってから弥勒さんも随分顔色がよくなられましたよ」
 面倒を見て下さる方がいらしてよかった、と、自らも幾度か倒れた弥勒を発見したことのある奈涸は言った。
「弥勒さんの面をこの世に生み出せるのは弥勒さんだけなのですから、ご自愛いただかないと」
 言いながら。
 多分、弥勒だけではないのだろうと思う。
 梅月にとっても、これほどまでに通い詰めるのであれば、きっと何かがあるのだ。
 わざと見えるところにつけられた弥勒の首筋の赤い痕は大分薄くなっていたが、隠そうともしていないので丸見えだった。
 梅月はきれいな笑顔で、弥勒は鉄壁の無表情で、けして奈涸にさえ心を読ませないけれども。
 狸であることにかけては似たり寄ったりである奈涸は、お茶を飲み干して湯呑みをちゃぶ台に戻し、包みを引き寄せた。
「では、私はそろそろお暇します」
 御邪魔なようですから、と、奈涸は最後に余計な一言を付け加える。
「それではこれで」
 里で最も優秀な忍だったと言う経歴を持つ奈涸は、脇にしっかり包みを抱えて、気配一つ、音一つ立てずに小屋を去っていった。
 戸が閉まった後、しばらく二人は無言だった。
 梅月は遠くを見つめる目つきをしていたが、ふっと息を吐くと、脇に置いたままの風呂敷包みをちゃぶ台に置く。
「助かった。今日は馴染みの料亭に仕出しを作って貰ったんだが、二人前しか用意してなかったから」
 気を使わせて悪いことをしたけれど、と、梅月は微苦笑した。
 それは、常に比べてかげりのある笑顔だった。
 弥勒は何も言わない。
 気づいてはいるのだが、気づいていることを気づかせぬほどの鉄面皮は、今更治せるものでもない。
 ただ一つ変わったことは――。
「いただきます」
 弥勒が箸を持つ。
 声は感情の起伏を全く感じさせないままだったが、一人でない時は、ちゃんと言うようになった。










 昼食が終わって、梅月は縁側に腰を下ろしていた。
 だが、その様子は、いつもと違っていた。
 弥勒が面を打っていなければ、やれ隣に座れの話をしろの、何やかやとちょっかいをかけてくるのだが、今日はただ端然と縁側に腰掛け、間近に迫る緑をぼんやりと眺めているようだ。
 これで多少気が利く者ならば、どうしたのかと心配でもするのだろうが、弥勒にその気遣いを求めるだけ無駄だ。
 それでも、毎日のように訪れてくる舌の肥えた客人に、きちんと茶葉を入れ替えて番茶を出すようになっただけ進歩があったと言うべきであろう。
「置いておく」
 弥勒は湯呑みを載せた小さな盆を梅月の手元において、踵を返した。
 面を打つと言えばけして余計な手出しはしないのだが、いつもならうるさいほどに構ってくる梅月が静かなので、新作に取り掛かろうとしたのだ。
 代表的なものだけでも能面一式ともなれば、かなりの枚数になる。
 ただ、奈涸の見立ては確実で、よいものと認めた時には金払いもいいので、しばらく工房に篭っても生活に困ることはないのは何よりありがたい。
 次は翁か怨霊か鬼神か――男は後回しにしようと思う。
 中将や敦盛などは美男の客人に引きずられそうな気がするからだ。
 訴えかけてくる木材がなければ、また泰山に譲って貰いに行かなければ――と、そんなことをつらつら考えながら、足を踏み出した瞬間、弥勒は後ろに倒れた。
 振り向く間もなく受け止められ、あっと言う間に組み敷かれる。
 かちゃん、と、湯呑みが倒れる音がした。
「着物が汚れる」
 いつもの如く、もろ肌脱いだ片袖を引かれて倒されたことよりも、怖い顔をした男に組み敷かれていることよりも先に、弥勒は梅月の着物が汚れることを気にした。
「かまわないよ」
 梅月は弥勒の顎を掴み、無理矢理視線を合わせた。
 弥勒のガラス玉のような瞳は変わらない。
 どれほど抱いても、どれほど追いつめても、弥勒はけして染まりもせず、逆に梅月を遠ざけることもしない。
 今この時も梅月が手を離せばそれで何事もなかったかのように、また静かな時が過ぎていくだけだ。
 離す気は、なかったが。
 問答無用で唇を重ねる。
 薄目を開けてみれば、弥勒は全く変わらない表情で受け止めている。
「口付けの時は目を閉じるものだよ」
 耳元に囁きを落とし込んでも。
「今は真っ昼間で、この家の前も人通りが全くない訳ではないことは分かっているな。ついでに戸締りもしていないし、雨戸も開けっ放しだ。来客の予定はもうないが」
「僕はかまわないよ、誰かに見られたとしてもね」
 弥勒のこの期に及んでの冷静すぎるに指摘に、梅月は暗い笑みを口元に刻んだ。
「俺も別にかまわんがな」
 着物の裾を割られて手を差し入れられていると言うのに、弥勒はあくまでも平静なままだ。
「こんなとうが立った片輪の男を好んで抱こうと言う、君の気持ちが分からんのだ」
 男にしても君ならもっと若くてきれいな陰間をいくらでも買えるだろうに。
 そう、弥勒は言う。
 梅月は目を細めた。
 弥勒の言葉がはぐらかしではないことを知っている。
 実を言うと、弥勒は他人の表情や感情の変化に、むしろ聡いのだともう気がついていた。
 ほんの少しの変化も見逃すことはない。
 そうでなければ、たった一枚で全ての感情を表現しなければならない面など打てない。
 ただ、全ての感情を見分けても、受け止めることはしない。
 弥勒は永遠の傍観者だ。
 どれほど体を重ねたとて、誰も手に入れることは出来ない。
 それでも梅月は微笑んだ。
 だからこそ、傍にいるのだ。
 けして余人には見せぬ梅月の暗い表情を見ても驚きもせず、梅月の頭上に瞬く星を読み取ってさえ、それ以上の詮索をしようとしない弥勒だからこそ、梅月も傍にいられるのだ。
「僕にとっては君が君であることに意味があるのだから、年嵩も隻腕もそれが君を成り立たせているのであれば、むしろ欠くべからざるものだよ」
 その言葉に、弥勒は表情こそ変えなかったが首を傾げた。
 梅月は目の前に現れた首筋の赤い痕に唇を落とす。
 相変わらず弥勒はどこか遠くを見たままだ。
「分からんな」
「分からなければ、僕の面は打てないのだろう?」
 それは、久しぶりに弥勒の痛いところを突いたらしい。
 目に見えて、顔を顰め、梅月を睨んだ。
 毎日のように通っていても、弥勒の表情が変わるところはなかなか見られないことだから、例えそんな表情であっても梅月は変化を見られたことを喜ぶ。
「久しぶりに君が怒るところを見た」
「怒ってはいない」
「では、僕に情けをかけておくれ」
 梅月は弥勒の痩せた体をかき抱いた。
 震えているのが自分で分かった。
 震えている理由まではまだ悟られていないはずだが。
「好きにしろ」
 許しを得て、梅月は弥勒の着物の腰紐に手をかけた。










 男はその瞬間、一瞬の死を迎える。
 自ら命を生み出すことの出来ない性は、自らの命が未来へ引き継がれていく確証を得ることは出来ない――。










 二人ほぼ同時に頂点を極めて。
 ほっと息をついた途端に、薄い布団から出ていこうとする弥勒を、梅月は背後から捕えた。
「もう少し、こうしていてくれないか」
 そう言って首筋に顔を埋めれば、弥勒はもう抵抗しない。
 じっと、梅月が手を離すその時を待っている。
 梅月は目を閉じて、弥勒の脈打ちに耳を傾ける。
 命あるものの証。
 今、腕に暖かい命を抱いて、そして自分もまだ生きている。
 その事実に、安堵する。
 そっと、梅月は言った。
「・・・星見、と言うモノを知っているかい?」
「いや」
 即座に返ってきた言葉に、梅月は苦く微笑む。
「星を詠み、未来を占う、予言者のようなものでね。そういう能力者を排出する家があるのだが、幸か不幸かその家の者なら誰でも星見になれると言う訳ではなくて」
 そこで一度言葉を切る。
 後ろから抱きかかえている弥勒の表情は見えない。
「星見の力を生まれ持った者が代々跡を継ぎ、予言の力を盾にとって政に影から関わり美味い汁を啜ってきた。しかしやはり、代償があるんだ。星見を行う度に、当の星見の命が削り取られていく」
 梅月は呼吸を整える。
「僕はその家の跡継ぎだったんだ」
 龍斗以外には初めての告白だった。
「またこれが能無しだったんだけれどね。僕の星見は百発百中だった。占いと言うものは、悪い未来を良い未来に、良い未来をより良い未来に変えるために行うものだ。変えられない未来ならば、命を削ってまで星を詠む必要などないと思った。まして自分以外の誰かのためになど、どうして変わらない未来を詠む必要があるのかと、腹が立った」
 弥勒は黙って聞いている。合いの手さえも入れない。
 瞬間、本当に起きているのか不安になったが、梅月は語り続ける。
「星見を行うたびに命が削り取られて行くのを僕は知っていた。占いを行う者は、一人前になった時には必ず自らの死期を悟るんだよ・・・・・・本当は、怖かったんだ。僕の死期は、年を取るよりも早くどんどん近づいていた。とても怖かった・・・今でも怖い」
 梅月は抱き締める腕に力を込めた。
 だが、起きているはずの弥勒は身じろきもせず、されるがままになっている。
「だから僕は逃げ出して来た。名前も変えた。力も封じた・・・それでもたまに詠んでしまうけどね。愚かなことだ・・・」
 梅月は自嘲した。
 全てをなげうって逃げ出すほど力を行使することを恐れているくせに、ふとした拍子に使ってしまう。
 梅月にとっては息をするように自然な行為であったから。
 ただ一つ、救いであったのは。
「変えられらぬ未来などないことを知れたそれだけは、よかったと思うよ」
 もしかしたら、自分の未来も少しは変わるのではないかと思えたから。
 それでも、
「どんなに頑張っても僕は、君の面が骨董になるほどは生きていられそうもないけれどね」
 物心ついた時にはすでに、自分の命はさして長いものではないと気がついていた。
 なのに、更にまるで音が聞こえるかのごとく寿命は削られて。
 気が狂うかと本気で思った。
 どれほど享楽的に生きても心の奥底に隠すことが精一杯だった恐怖は、奈涸のたった一言で引きずり出された。
 人肌の温もりを分け与えて貰えなければ凍えてしまいそうなほど、脅え震えて。
 誰かの手で守られなければ生きていけない子供と変わらない。
「怖い・・・怖いんだ、死ぬのが怖い・・・」
 そうして、弥勒に無体を強いた。
 何者にもゆるがせられない、死さえ透徹した視線で見据える、その強さを求めて。
 弥勒の強さそのものを手に入れることは不可能だが、その強さを持った弥勒を手に入れられれば、自分も強くなったような気になれる気がした。
 しかし結局のところ、それも叶わぬ夢だった。
 取り繕い、隠し続けた惨めな姿を晒しただけだった。
「おかしいだろう、僕は。自分でもおかしいと思うよ」
 自分の滑稽さを思い、梅月は声を立てて笑った。
 一人相撲を自ら嘲笑わずにはいられない。
 その狂気を秘めた声にも、弥勒は振り向かない。
 笑い始めた時と同じように、唐突に笑いを納め、梅月は言った。
「何も、言わないんだね」
 今度はすぐに答えが返ってきた。
「何か言った方がよかったのか」
 相変わらず平板な声だった。
 まるで何事もなかったかのように。
 梅月は一瞬息を飲み、それから、もう一度弥勒の首筋に顔を埋めた。
「いや・・・ありがたいよ」
 誰にもこの気持ちは分からないと、頑なに思っていた。
 口先だけの慰めも憐れみも欲しくなかった。
 愚かだと叱られ、励まされたくもなかった。
 余計に惨めになるだけだから。
 本当は、弥勒も分かっていないのかもしれない。
 けれど、きっと分かっていると梅月は信じている。
 けして弥勒は優しい訳ではない。
 それでもただ、今は傍にいて欲しかった。
 だから弥勒は、何も言わずに、視線すらあわせることをせず、だが、こうして自分の腕の中にいてくれるのだと、梅月は信じた。



 とくん、とくん、と二つの鼓動が梅月の中に響く。
「もう少しだけ、こうしていていいかい・・・」
 二つの心音が一つに重なるまで。










 翌朝早く。
 すまなかったね。
 と、陰りの見える笑顔を残して、梅月は工房を去って行った。











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