二つの荒い呼吸が一つに重なり。
そうして、二人ほぼ同時に頂点を極めた。
そのまま、梅月は汗に濡れた体を抱き締め、胸に耳を当てた。
全身に響く命の音に、安堵する。
そして心の中だけで呟く。
どのような形でもこの命、この存在を失うことは出来ないと。
「ねえ、弥勒」
少し呼吸が落ち着いてから、梅月は耳元で囁いた。
抱いてさえ、どこか他人事のような顔をしていた弥勒が、視線だけを動かした。
まだ体に残る熱のためにいつもよりも潤んで見えるが、それでもやはりガラス玉のような双眸を見つめて、梅月は問いを発する。
「しばらく僕の屋敷に来てくれないかい?」
本来、情事の後にこのような問いを投げかけること自体が反則であろうが、相手が弥勒となったら話は別だ。
「順序が違うだろう」
弥勒は梅月に組み敷かれたまま、冷徹に感じられるほど静かな声で応じた。
その答えに情事の余韻などは感じられない。
そもそも弥勒にとって、情事と言うよりは、体を貸している程度の感覚でしかないのだろう。
梅月は苦笑して、体を離した。
己が腕に確かなものを抱き締めて、少し落ち着けただけでもよしとせねばならないのだろう。
起き上がる弥勒を支え、簡単に身支度を整えてやると、弥勒はかろうじて閉めていた雨戸を開け放ち、すぐ傍の柱に寄りかかって座った。
「何故だ」
弥勒の問いは唐突で、梅月は一瞬何を問われたのか分からなかったが、すぐに気がつく。
「そうしないと、君が危ない目に遭うからだ。ことによると、命にも関わる」
きっぱりと言い切った梅月に、弥勒は目を眇めた。
「何か見えたのか」
「いや・・・それならまだいいんだけれどね、今回ばかりは僕にも何も分からないんだ」
梅月はゆるゆると首を横に振った。
「だから、打てる手は全て打ちたい」
「何故だ」
弥勒の問いが元に戻る。
言いながら、目を半眼に閉じた弥勒が億劫がり始めていることに気づいた。
弥勒と言う男は、理由がなければ指の一本さえも動かさぬ。
納得させられねば、けして腰を上げてはくれないだろう。
納得させられても、今回は難しいと分かっているが。
梅月はふうと溜め息を一つ吐いて、縁側の弥勒をまっすぐ見て、告げた。
「どうやら秋月が痺れを切らしたらしい。僕に戻れと言って来た。だが、僕には戻る気はないから、話し合いはつかなかった」
弥勒の目が、問うていた。
無論、自分の関わりだ。
もはや声を出すのが面倒になったらしい。
梅月はもう一度溜め息を吐く。
「まともにいきさつを説明すると長くなるけれど」
僕がまだ秋月にいた頃からになるからね、と、梅月が小首を傾げて訪ねると、
「簡単にしろ」
弥勒はほとんど投げやりのような口調で言った。
下手な者に同じ態度を取られたら怒り狂うだろうに、弥勒に対しては苦笑一つで済ませてしまう自分を思い、梅月はあながち御門の言葉も間違いではないと、自覚する。
「代々秋月の星見の身辺警護を担う御門と言う陰陽師の一族がいるのだが、まあ、その跡継ぎだったかもう跡を継いだのか知らないが、とにかくそう言う立場にある者が、僕が星見として秋月に戻らねば、僕が気に入っている者を傷つけると、昨日宣言して行った訳だ」
梅月は、言われた通り簡単にまとめた。
恐らく、弥勒はこれで充分に理解できただろう。
何しろ鉄面皮で、感情が態度にも表れないので話をまるで聞いていないように思われることがしばしばであるが、実は、弥勒は頭の回転は速い。
傍観者であるが故に、判断も公正だ。
面さえ関わっていなければ、の話であるが。
そして、
「刃物は所詮刃物に過ぎん。手の内にあった時は身を守る武器でも、手放したら自らを傷つける凶器になりうる」
弥勒は淡々と告げた。
その言葉を聞いて、梅月は弥勒が確実に理解したことを悟った。
刃物は、御門だ。
しかもこの場合、せめて梅月自身に向かってくればいいものを、梅月の周囲にその凶刃を振るおうと言うのだから始末が悪い。
「全くだね」
梅月は頬に手を当てて嘆息する。
が、
「断る」
弥勒はきっぱりと言った。
それは、ある程度予想できたことではあったが、困ったことにも違いない。
「このままでは君の身が危ないということは、分かっているね」
梅月は確認を取る。
「ならば」
しかしそれには答えず、弥勒は更に問い返した。
「もし俺が君の屋敷に匿われたとして、それはいつまで続く」
「それは・・・向こう次第だよ」
梅月はどきりとした。
思ってもみなかったこと、と言うよりは、指摘されれば無意識に目をつぶっていたことだと否応なく気づかされたからだ。
「いつどのように解決するのか、君は決めているのか」
言外に何も考えていないのだろうと糾弾――と言うにはあまりにも平板な口調であったが――されて、梅月は内心冷や汗をかく。
その通りだったからだ。
弥勒を守ることばかり考えていて、解決策にまではまだ頭が回っていなかった。
「まずは安全な所に避難してもらわねば、僕も身動きままならないからね」
しかし、焦りなど表には露とも出さずに告げる。
「全てはそれから、と、思っていたんだよ」
相手は、市井に生きる者など虫けら程度にしか思っていない手合いだから、と、梅月は言う。
それは事実である。
恥ずべき心の有り様だがね、と、溜め息をつく梅月を、弥勒は更に追い詰めた。
「相手は帰って来いと言い、君は帰りたくないと言う。相手が俺を傷つけようとし、その前に君が俺を隠す。それでは、何も変わらんように、決着などつかんように思えるがな」
「そんなことは・・・」
弥勒にしては珍しい長口舌は全くその通りで、梅月は言葉に詰まった。
口先でやり込めたことなど数多あれど、やり込められるなどとは考えてもいなかった。
しかも、選りにも選って弥勒に。
いや、弥勒の指摘は紛れもない真実であるからこそ、口先だけでは返せないのだ。
「俺を縛るな」
その言葉に、梅月は弾かれたように顔を上げて叫んだ。
「そんなつもりは・・・!」
「同じことだ」
だが、弥勒は眉一つ動かさずにその語尾をひったくる。
「君はいつまでとも知れぬが俺に君の屋敷にいろと言う。いつ狙われなくなる。一月か、一年か」
それほど強い口調ではないのだが、繰り言は許さぬ響きがあった。
「それとも死ぬまで隠れていろと言うのか」
梅月は改めて弥勒を見る。
相変わらずのガラス玉のようだったが、どこか底光りしているように見える。
「これ以上、縛られるのはごめんだ」
弥勒が、怒っていた。
弥勒は干渉を極度に嫌う。
するのも、されるのも。
だから、自分でさっさとケリをつけろと言いたいのだろう。
確かに今回の件は梅月の身の不始末で、梅月がちゃんと何らかのケリをつければ、弥勒の身には関係ない話だ。
「だが、君を盾に取られたら、僕には選ぶ余地がなくなってしまう」
梅月は粘った。
しかし、
「見捨てろ」
弥勒はこともなげに言う。
「俺が切り札にならぬと分かれば向こうは用もあるまい」
「そんな・・・そんなことをしてもしも・・・」
梅月は絶句した。
もしも己が身の不始末で弥勒が失われたら、おめおめと生きてはいられない。
そんなことは想像するだけでも恐ろしく、震える梅月へ弥勒は野良犬でも追い払うように左手を振った。
「こんな無駄口を叩いている暇に片をつけろ」
ここに来たこと自体が失態だ、と、弥勒は一刀両断にした。
「妙な気配が村の外にある。君についてきたモノではないのか」
弥勒は虚空に視線を投げた。
もう薄暗くなった空には常人の目には何も見えないだろうが、梅月の星見の目には梅月の気配を求めてまごつく式の姿が見えている。
「竜閃組も鬼道衆も御門には知られているはずだからね。この村の位置ぐらいは、当の昔に押さえているだろうさ」
でも心配ない、と、梅月は首を横に振った。
「この村には僕にも手が出せぬほどの言霊の結界が張ってある。僕が知っている御門ならば、束になっても破れはしないよ」
「だが」
「村人ならば心配ない。秋月は、僕が心にかけぬ者をいくら傷つけたところで、僕がどうとも思わぬ薄情者だと言うことを、嫌と言うほど知っている」
伊達にあんな家を出奔してこれまで行方をくらましていた訳ではないよ、と、梅月は薄く笑った。
「一つだけ、約束して欲しい」
取りつく島もない弥勒へ、梅月はこれだけは譲れない一線を示す。
「秋月の者の前では力を使わないでくれ」
「何故だ」
だが、弥勒は応じない。
梅月の言霊に弥勒が応えたことは、一度とてない。
「君の力はとても特異で、術師にとっては魅力的だ。その力を秋月に知られたら、きっと死ぬより酷い目にあわされる」
だから、と言う梅月に、弥勒はあくまで静かに答えた。
「約束は出来んな」
「でも」
「命を守るためとなれば、致し方あるまい」
その場を切り抜けなければその先などないのだから、と、弥勒は言った。
「俺が力を使わねばならぬような羽目になる前に、君が解決すればよいだけのことだ」
弥勒は冷徹に告げ、そして、
「だが、心配はない。俺はまだ死ぬ気はしない。多少の手傷を追うことはあるかもしれないが、死ぬことはない」
言い切った。
「何を根拠にそう言い切れるんだい」
あまりにもきっぱりした物言いに、梅月は思わずねめつけた。
弥勒と梅月は力の性質が良く似ているが、だが、弥勒に先見の力はなかったはずだ。
しかし、
「知っているだろう、俺が、それだけは分かることを」
弥勒が視線を上げ、目が合った。
弥勒の目はやはりガラス玉のようで、何の感情も映していない。
死をすら恐れることが出来ぬ弥勒は、多分、死ぬよりも恐ろしい事態を想像も出来ないのだろう。
世の中には、死んだ方がまだまし、と言う状態もあるのだ。
「分かったよ」
「ならば」
一人うなずく梅月を、急き立てようとしたのか、その弥勒の言葉を遮って告げる。
「僕も僕の出来るだけの手を打たせてもらうよ。無論、解決への努力は怠らないがね」
弥勒が片眉を上げた。
だが、もう何も言おうとはしなかった。
ただ、梅月から視線をそらし、肩越しに月明かりが射し始めた縁側の外を見やる。
その様を見て、梅月は立ち上がった。
まっすぐに三和土へ向かうその気配を分かっているだろうに、弥勒は身じろぎもしなかった。
草履を履いてから、梅月が振り向いたが、弥勒は木像のように固まったままだ。
最後に一声だけかける。
「お邪魔したね」
応えはなかった。
梅月は常にない乱暴な裾裁きで立ち去っていく。
その、華やかな気配が充分に離れてから、弥勒が動き出す。
まずは梅月が立ち去った戸を見やり、それから、縁側の外の空を見上げて、目を眇めた。
暗い空には朧な月が輝いている――月しか見えない、はずだ。
「難儀なことだな」
弥勒は月から視線を外して、低く呟いた。
五
参