執着 参



 工房の真ん中で大の字になって寝ていた弥勒は、頬に触れる衣の感触で目を覚ました。
 薄い瞼を開けると、憂いに満ちた梅月の表情が大写しになる。
「体調が良くないのかい?」
 梅月の男にしては繊細な手が、弥勒の頬に触れる。
「暑い」
 そう言って、顔をそむけた。
 寝返りを打ちたいところだろうが、梅月が顔の両横に手をつき覆い被さるようにして覗き込んでいるため、それは叶わなかった。

 ――弥勒は、夏が大嫌いだ。

 湿り気を帯びた熱い空気は、容赦なく弥勒から体力と気力を奪い取り、指を動かすのも鬱陶しくなる。
 手も汗で濡れ、工具も滑る。
 そして何よりも、湿気は木材を歪ませ、夏の間は面を打ってもなかなか満足のいくものが出来ない。
 だから弥勒は、市中の長屋にいた頃から、夏の間は面も打たずに、ごろごろしていることが多かった。
 冬眠ならぬ夏眠だな、と、言ったのは誰だったか。
 村の中でも少し人家から離れているこの工房は、市中の長屋に比べて格段に風通しがよく、随分暑さは凌ぎ易いはずなのだが、蒸した空気はどこでも変わらない。
 結局、夏になると明かり取りの窓や、縁側に続く雨戸や、入り口までも開け放しにして、工房の中でも一番風通しのよい板間でごろ寝をしているのが弥勒の常だった。
 夏の間に面を打つのは、よほど何か気が向いた時だけで、それも一夏に一度あるかどうか。
 いくら贔屓の旦那に大金を積まれて頼み込まれてもうなずいた試しがない。
 確実に引き受けるのは、すぐに芝居に使うのに壊れてしまった面の修繕などの急を要するものぐらい。
 元々好きなだけ面を打ち、好きな時に寝て、気が向いた時に食べると言う気ままな暮らしを送っている弥勒であるが、夏の間は気ままも気まま、むしろ怠惰な暮らしである。
 そういうことを、声を出すことすら億劫がる弥勒から無理矢理聞き出したのは昨年の夏の夜であった。
 昼間はとにかく暑いからと、人の手が触れることすら嫌がって、一歩近寄ると二歩下がられるような状態なので、一方的な会話すら成り立たせることが難しい。
 今日のように、完全に寝入ってしまった間に近寄るでもなければ。
 しかし、一度懐に入られたからと言って、態度が変わる弥勒ではなく。
「鬱陶しい」
 露骨に顔を背けてさえ、離れようとはしない梅月に痺れを切らした弥勒が、顔を背けたまま唯一の手で梅月を払おうとする。
 だが、まるで犬猫でも追い払うかのように打ち振られる手を掴み、梅月はうっそりと笑った。
「僕の手は、夏でも冷たいと言われるのだけれど」
 実際、この暑気の中、汗の一つもかいていない梅月の手は、ひんやりとしていた。
 だが、
「気持ちが悪い」
 少しの体温も我慢ならないのか、弥勒はにべもなく言い捨て、掴まれた手を振り払おうとしたが、梅月は離さなかった。
 確かに腕力は弥勒の方が遥かに強いだろうが、いくら繊弱の貴公子とは言っても、上から覆い被さるような体勢で片手でどうこうされるまで梅月もひ弱ではない。
 弥勒の抵抗を抑え込んで、梅月はその無骨な指先に唇を当てる。
「おや、結構冷たいじゃないか」
 弥勒の指先も、あまり温かいとは言えなかった。
「手が冷たいと言われた時にはね、心が温かいからだ、と、言うんだよ」
 と、指先から唇を離した後、そんなことは一つも信じていない面持ちで言って、梅月は笑いに口元を歪めた。
「今日は君を抱きに来た」
 直裁に告げる梅月の瞳は、狂気の光を奥に灯していた。
 出会ったばかりの頃にはよくそんな目をしていた。
 どこか飢えたような、そんな目を。
 今もってかまどの使い方さえ知らない梅月は、何一つ不自由のない暮らし以外したことはあるまい。
 それでも、彼は飢えているのだ。
 気づいている者は、少なかったが。
 だが、ここのところは随分落ち着いていた。
 少なくとも、一月ほど前に会った時はそれほどではなかったはずだと、弥勒は思う。
 その間に事態が変わったと言うことなのだろう。
 しかしそんな怖い表情の梅月を眼前にしても、弥勒はいつもの鉄面皮でしばらく手を掴まれたまま身じろきすらしない。
 しばらくそのままでいたが、
「さっさと済ませろ」
 ふっ、と、息を吐いて、投げやりに言う。
 梅月がにたりと笑って、弥勒の首筋に顔を埋める。
 弥勒は目を閉じて、梅月の冷たい手に身を委ねた。



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