「んー、まだ胸筋が足んねえなー」
などと呟きながら、神谷は鏡の前でいわゆる『マッチョポーズ』を取りながら、全身の筋肉のつき具合を確認していく。
その後姿に、実花に対する気遣いは、一切感じられない。
だから、実花はいつも通りの反応を示した。
「妹の部屋でそんなことしないでって、言ってんのよーっ」
絶叫である。
だが、振り向いた神谷は、細い目を更に細め、うっとうしそうに言っただけだった。
「しょうがねえだろ、この家で全身が映る鏡があるのは、この部屋だけなんだから」
おしゃれを心がける年頃の少女としては、全身が映る鏡は必須である。
だが。
けして肉体ナルシストを満足させるため――別に神谷はただの肉体ナルシストではないのだが――に存在している訳ではないのだ。
それに。
「大体、そんなに必要なら、自分で買えばいいでしょっ」
至極当然と言えば当然の実花の言葉に。
「そんな金ねえもん」
神谷はそっけなく答えた。
実際、何だかんだで部活で金がかかる上、バイトをする時間がなく、その上、家に辿り着くまでに空腹に耐えかねてついつい買い食いをしてしまう神谷の懐は、毎月赤字財政である。
サッカーとは直接関係ないものを買う余裕は、神谷の財布にはびた一文ないのは事実である。
だからと言って、自分の目の前で恥じらいもなくマッチョポーズを取られるのは、実花の美意識としては耐え難い。
「とにかく! 禁止ったら禁止!」
「いいじゃねえかよ、ケチんなよ」
「冗談じゃないわよ! 見たくもないお兄ちゃんの裸、自分の部屋の中でまで見せられるこっちの身にもなってよ!!」
絶叫である。
部屋の外ならともかく、と言うか、家の中であっても、自分の友達の中でパンツ一丁でフラフラしているような兄がいる子はいないのだ。
実花が困ると言うよりは、自分が見られて恥ずかしくないのか、この兄は。思春期真っ盛りのはずなのだが、これでは彼女が出来ないのも当たり前である。
と。
「分かった」
突然、神谷が真面目な顔をして、実花の部屋を出て行った。
頑固な兄のいきなりの行動に、少々実花は面食らいつつ、これで平和な夜が過ごせると、安堵のため息をついている、その時に。
ドンドンドンッ。
再びドアがノックされ、一瞬ひるんだ実花が何か言うより早く、ドアが開いてしまった。
「これで文句ねえだろ」
と、再び現れた神谷は、冬物のコートを来ていた。
素肌の上にコートを引っ掛けてきただけなのは、襟から見えるタオルと言い、コートの裾から出ている脚といい、時間的にも明らかだ。
あまりのことに実花は絶句してしまったのだが、沈黙を神谷は肯定と受け取って、全身鏡の前に陣取った。
そして。
バッと、鏡の前でコートの前を広げ、また、
「うーん、腹筋ももう少し割れてた方が…」
などと、筋肉のつき具合の確認を始めたのである。
……………プチッ。
実花が机の上にあった雑誌を神谷に向かって投げつけた。
「お兄ちゃん、サイテーッッ!!」
「なっ」
幸いにも雑誌は神谷の髪を掠めて、ドコン、と、音を立てて、壁に激突した。
「何しやがる、実花!」
「お兄ちゃんの、ヘンタイッッ!」
実花は涙さえ浮かべて叫んで、手当たり次第、神谷に投げつける。
「み、実花、よせ!」
「出てって、出てって、出てってよーッ!!」
絶叫して、実花が思い切りファッション雑誌を投げつけた。
「チッ」
神谷は鋭く舌打ちして、実花の部屋から逃げ出す。
ファッション雑誌は、一瞬前までは神谷が立っていた位置を通り抜け、ドアに激突して、床に落ちた。
言うまでもないが、ファッション雑誌は重いので、ぶつかったらただではすまない。
「実花! 篤司! 静かにしなさい! 近所迷惑でしょ!」
遠くから、母親の怒鳴り声が飛んでくる。
慌てて隣の部屋に駆け込んだ気配がする。
これで今晩はこれ以上、神谷がやってくることはないだろう。
しかし。
それでは収まらず実花は叫んだ。
「お兄ちゃんの、バカーッッ」
神谷家の兄妹バトルはまだまだ続く――。
知らぬが仏である。
夕日(2011.06.11再)