ノートの上を滑っていた、シャープペンの芯が、ポキリと折れた。
 我慢の限界だった。
 実花は、バンッと、机に手をついて立ち上がり、部屋を飛び出す。
 そして、ノックもせずに隣の神谷の部屋のドアを開けた。
「お兄ちゃん! いい加減にしてよ!」
 瞬間、静まり返る。
「実花ちゃん」
 久保が、動きを止めて振り向いた。
 部屋の入り口で仁王立ちする実花に、4本の視線が集中する。
「実花…」
 神谷が、咥えていた紐を口から離して、言った。
「何だよ、急に」
 と、神谷はベッドに腰掛けたまま、輪になった紐を手繰って、反対側の端に結わえ付けられていたダンベルを右手に持った。
 久保は、一瞬止めたダンベル運動を再開している。
「何だよじゃないわよ、うるさいって何度言ったら分かるのよ!」
「うるさいって、お前のがうるせえじゃん」
 神谷も、手にしていたダンベルを手前に引き上げる。上腕筋に効く運動だ。
「だーかーらー、ベッドに座ってやんないでって言ってるのよ、あたしは! ベッドの振動がこっちまで伝わってきて、気が散るの!」
「んなこと言ったって、この部屋動かねえイスがねえんだからしょうがねえんだよ」
「立ってやればいいでしょ!」
「立ってるとつい反動使っちゃうからダメなんだよ」
 いきり立つ実花に、久保が穏やかに口を挟んだ。
 動くイスだと意味ないしね、と、久保は全くもって明後日なことを言う。
 確かに、上半身を鍛えるためには、立って行うと無意識に反動を使ってしまうので、座って行った方が反動が使いにくいので、効率がいいのは事実である。
 しかし。
「そんなことは分かってるわよ!」
「だったら…」
「だから、ウチでやんないでって言ってるの!」
 実花の叫びに、神谷と久保は顔を見合わせた。
「だって、なあ」
「部活の時間内には、こんな基礎体作り、やってる時間ないし」
「そうそう」
「やっぱ、上半身を鍛えるのも大事だからねえ」
 うなずきながら神谷はまたダンベルを結んだ輪の端を咥え、首の運動を始める。
 5キログラムのダンベルを持ち上げる度に、さすがに神谷の口から声が漏れ、ベッドが軋む。
 非科学的に思われるかもしれないが、声を出した方が、出さないよりも力が出るのだ。
「じゃあ、久保さんちにしなさいよっ」
「ああ、俺んちこの間禁止令が出ちゃった」
 へらっと笑って久保に言われ、実花の中で、2、3本まとめて何かが切れた。
「なら、ウチも禁止っ」
「おい、実花っ」
「どうして久保さんちが禁止なのに、ウチがいいと思うのよっ。うるさいのはどこでも一緒よっ。こう夜な夜な騒がれちゃ溜まんないわ!」
 慌てる神谷の抗議には耳も貸さず、実花は一気にまくし立てる。
「そんな実花ちゃん、殺生な」
「殺生も何もないわよ! あたしの成績落ちたらどうしてくれんの!?」
 情けなく眉を寄せた久保に、実花はビシィッと指を突きつけて言う。
「どうする神谷ぁ」
「どうするもこうするも…」
 神谷は久保に目配せしながら、口の中で何かモゴモゴと言う。
 察するに、言い出したら聞かねえから、ぐらいのことは言っているのだろうが、実花は痛くも痒くもない。腕を組み、仁王立ちして神谷と久保をにらみつける。
 世界広しといえども、この二人を正面からにらみつけられる女はそういない。
 数瞬のアイコンタクトの後。
「仕方ねえな…」
 と、神谷がベッドから立ち上がった。
「近くの公園行くか」
「あんまり夜風は体によくないんだけどなあ」
「まあ、今日のところは…」
「今日だけじゃなくて、ずーっとダメよっ」
 神谷の言葉尻を引っ手繰って、実花が釘をさす。
 神谷と久保は、ダンベルなどの基礎体用の道具を手早くまとめる。
「実花ちゃん、冷たい…」
「悪いな、久保」
「なーにーか言った?」
 実花は、にっこり笑顔で言う。
 きれいな花にはトゲがあると言うが、かわいい花にもやはり、トゲがあるようであった。






 知らぬが仏である。





夕日(2011.05.22再)






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