前工のメンバーはその日、栃木県のU学園と練習試合の為、電車を乗り継いで遠征をした。
まず、両毛線に乗り、栃木駅で乗り換えなければならない。しかもJRと私鉄のため、電車同士の連絡はかなり悪い。
吹きさらしのホームで、ベンチコートに埋もれながら大男達が震えるその姿は、南極でコウテイペンギンが身を寄せ合って震えているところを思い起こさせる。
行きは朝が早かったのと、まだ自前の保温機能付きの水筒に詰めていたお茶があったため、誰も言い出さなかった。
だから、それは帰路で起こったのだ。
「なー、あったか〜いお飲みもの買ってくんべよ」
言い出しっぺは誰であったか。風が強いせいで、体感気温は相当に低く、全員がその意見に賛同したのも無理はない。
だが、前山方面行きの電車が発着するホームには、自販機がなかった。
改札口もある向かいの小山方面行きのホームには、いく種類かの自販機がこうこうと輝いている。
全員が、向かいの自販機を眺めやってから、一斉に左を向いた。そちらには、向かいのホームに渡るための高架がある。
次の電車が到着するまで後5分ほどである。
恐らくは、全員の頭の中に同じ単語が浮かんでいるはずだった。
練習試合で目一杯体力を消耗した後である。誰しも考えることは一緒だ。
めんどくせえべ…。
疲れきった彼らは、浜辺に寝そべるトドより怠惰である。
となれば、結論は一つ。
誰が最初に切り出すかであるが、幸い前工の場合、その点の問題はない。
「やっぱ、ジャンケンだべな」
前工の日常生活における仕切り屋、訳知り顔で腕を組む嶋が言う。
「まあな」
だが、反発する者はなく、あっさりとその場にいた全員が拳を握る。
「最初はグーだな。パー出すんじゃねえぞ、嶋」
「しねえって、んなこと」
「せーのっ」
「最初はグー! ジャンケンポンっっ」
最初の掛け声をキャプテンである東がかけると、それまでの弛緩した気配はどこへやら、サッカーで鍛えた大声を張り上げる。
殺気すら漂わせ、ジャンケンにかける大男の集団は、それだけで恐い。
しかし。
勝敗はあっさりと決した。
一人だけがグーを出し、残りの全員がパーを出していた。
「ヴィリー、俺、あったか〜いお茶な」
「あ、俺も!」
「よろしく〜」
一人負けして自分の手をじっと見つめているヴィリーの肩を、労るような笑顔を浮かべつつ、嶋が叩いた。
「仕方ないナ…」
ヴィリーはため息をついた。
この間も負けたし、その前も負けた。その前の前も負けたような気がする。どうも貧乏クジを引かされているような気がして釈然としないが、ヴィリーは全員の注文を取り、向かいのホームに走った。
――ジャンケンの時に、ヴィリーが必ず最初にグーを出すことに気がついていないのが、チームの中でヴィリーだけだと言う事実は、ヴィリーには内緒である。
さて、全員の注文の缶ジュースをベンチコートの裾に入れ、戻ろうと高架にヴィリーが足をかけた瞬間。
「ヴィリー! 早くすんべ!」
向かいのホームから嶋の声が飛んでくる。反射的にヴィリーが振り向くと、前山方面行きの電車がゆっくりとホームに滑り込んできて、チームメイトの姿を隠した。
ヴィリーは、その長い足をフル活用して、高架の階段を3段飛ばしで駆け上り、また駆け下りた。
停車時間が割と長いので、ヴィリーの俊足であれば、充分に間に合うはずだった。
だが。
「エ…?」
前山方面行きのホームに降り立ったヴィリーの視界に飛び込んできたのは、全て昇降ドアが閉まってしまった車両だった。
階段のとばくちの車両からは、嶋がはた迷惑にも窓を全開にし、ヴィリーを呼ぶ。
「ほら、ヴィリー! ぼーっとしてねえで早く乗るんべ!」
「ダッテ、ドアガ…」
「早くしねえと、出ちまーべ」
嶋はそう言うものの、ドアが閉まっているのだから、どうして乗れよう。
困り果て、立ち尽くすヴィリーに、東が笑顔で行った。
「大丈夫、乗れんべ」
「イヤ、大丈夫ッテ…ドア、閉まってル」
その時、けたたましい発車ベルが吹きさらしのホームに鳴り響いた。
「ヴィリー! 早く!」
東と嶋が叫ぶのとほぼ同時に、微かにプシュ、と言う音がした。
そして、無情にも電車は走り去ってしまったのである。
寒風吹きすさぶホームに、ただただ呆然とするヴィリーを一人残して。
「ソ、ソンナッ」
さすがに、ヴィリーは慌てた。
頼るべきチームメイトは、全員今の電車に乗って行ってしまった。
見回すと、自分のバッグも持っていかれてしまったようである。
財布はポケットに入っているが、それ以外は人数分の缶ジュースだけだ。
それも、急に重さを増したような気がした。
一人何の目的もなく待つ時間は長い。
自棄になったヴィリーが本来の目的を果たせなくなった缶ジュースを3本ほど空にした時、ようやく次の電車がやってきた。
帰り着いたら嫌になるほど文句を言ってやらねばと心に決めてホームに立ったヴィリーの顔は険しかった。
なまじ顔立ちが整っているだけに鬼気迫る迫力がある。
しかし、である。
ホームに滑り込んで来た電車を前にして、ヴィリーはまた呆然とするより他になかった。
開かないのだ、ドアが。
慌ててホームを見回したが、視界の届く範囲では、ヴィリー以外に人影はなかった。
――マサカ、一人しかいないカラ、ドアヲ開けナイのカ!?
そんなことはある訳ないと思うのだが、現実にドアは開かない。
開かないドアの前にどうすることも出来ず手をこまねいているうちに、発車のベルが鳴り響く。
そして。
やはりプシュ、と微かな音がして、電車は線路の上を滑り出して行ってしまったのである。
………。
言葉は、ない。
何がどうだか全く理解できない。
狐につままれたような、と言うのは、今のヴィリーのような状態を指すのだろう。
ドアの開かない電車。
どう考えてもそんなものはあるはずないと思うのだが。
現実の前にはなす術がない。
ピュウ、と、音を立てて日光颪が吹き抜けていく。
ヴィリーは必死で考える。
このままでは、前工の寮にも帰れない。
どうしたら帰れるのだろう。
財布はあるが、タクシーで帰れるほどの金は持ってきていない。
人に聞くにも、己の見るからに『ガイジン』な容姿は、時と場合によって相手の反応が真っ二つに分かれることを、ヴィリーはこれまでに学んでいる。
とても親切にしてくれる人もいるが、口をきくのすら怖がる人もいるのだ。
時計を見る。
まだ、チームメイトが寮につくにも時間がかかるだろう。
ついた頃を見計らって、寮に電話をかけるしかないか。
背中にどんよりした雲を背負い、強風を避けて、再びタバコ臭い待合室にヴィリーがノロノロと戻ろうとした時。
向かいのホームに小山行きの下り電車が到着した。
そしてその電車が走り去った後。
「ヴィリー!」
「ほれ見ろ、まだいたんべ」
聞き覚えのある声に肩を落として歩いていたヴィリーが顔を跳ね上げると、向かいのホームで東と嶋が手を振っていた。
「ユーゴ! 嶋!」
ヴィリーは地獄で仏にあった気分で叫んだ。
もっとも、その地獄に置いていったのは誰かと言うことは、きれいさっぱり失念している。
「今、そっち行くべ!」
と、東と嶋はあっという間に高架を渡って、上りホームに現れた。
「ヴィリー、だいじか?」
「大丈夫モ何モ…」
安堵のあまり、震えそうになる声を押さえながらヴィリーが言うと。
「ほれ見ろ。だから俺は言ったんべ。ヴィリーは絶対気がついてねーから、開けてやんねーとわかんねーべって」
ドン、とひじで東を小突きながら、嶋が言う。
すると東は苦笑して、
「いや、ヴィリーも朝一緒に乗ったんだから、気がついてるって思うべよ」
「そりゃあ、甘いんべ」
ヴィリーには二人の会話が全く見えない。
「何ダ、一体」
「あ?」
「ほれ、全っ然分かってねーべ」
「うーん、こう言うことだべ」
と、その時ちょうどまた上り電車がやってきた。
その電車のドアの取っ手に、東と嶋が手をかける。
「何ヲ…」
「せーの」
「エ……エエッ!?」
東と嶋がドアを引くと、ガラッと音を立てて開いたのだ。
「ソンナ…」
「ほい、乗った乗った」
嶋に背中を押されてヴィリーは電車に乗り込む。
電車に乗るとまた、東と嶋は当たり前のようにドアを自力で閉めた。
まだ、発車ベルは鳴っていない。
手動でドアを開けるなど、非常の場合以外にあるなどとは夢にも思わなかったヴィリーは絶句である。
電車が走り出してから、
「ホントに気がついてなかったんだなあ」
東がいつもの穏やかな笑顔で言った。
「ヴィリー、これ見てみ」
嶋が、ドアの取っ手の少し上に貼りつけられた金属のプレートを指した。
そこには、
『冬季期間中は手動でドアを開閉する』
旨が記載されていた。
「群馬と栃木は風が強いかんな。それに全部のドアで乗り降りがある訳じゃねーし。だから風除けの生活の知恵ってヤツだべな」
嶋がさらりと言った。
「そ、そんなコト、分かル訳ナイっ。教えてもらわなケレバ分からナイニ決まってイル!!」
思わず声を張り上げてしまったヴィリーの、肩を叩いて落ちつかせようとしながら、嶋が大きくうなずく。
「俺は、教えてやれって言ったんだべ。でも東がヴィリーは分かってるからいいって言い張ってよ」
「俺はヴィリーを信じてたんべ」
「でも、結局置き去りだべ」
その嶋の言葉に。
「ユーゴ…」
顔に怒ってますと書いて、ヴィリーが東に迫る。
「ユーゴがワタシヲ置き去りにさせたンダナ!?」
「ヴ、ヴィリー、落ちつけ」
「落ちつける訳ナイッ」
逃げの体勢に入った東を前にして、かなり怖い顔で拳を固めたヴィリーの背後で嶋が笑って言った。
「まあでも、これで俺の勝ちだべ。東、明日の昼飯、おごりな」
「その上、ワタシを賭けてたノカッ」
ヴィリーが東と嶋に拳を下ろしたが、嶋も東も見事に避ける。
「逃げルナッ」
「逃げんに決まってんべ」
東と嶋はそれぞれ反対方向に逃げていく。
一人取り残され、地団太を踏むヴィリーであった。
「からっ風ナド、嫌イダ!!」