さて、知らず新潟は直江津まで行ってしまったりいろいろあった訳だが、何とか前工の寮まで帰り着いた二人である。
「ただいまー」
 と、玄関のドアを開け放った途端、東とヴィリーは二人揃って、うっ、と、うめいて立ち止まってしまった。
「ナ、何、この臭イ……」
 鼻を突く臭いに思わず呟くヴィリーの隣で、東がボタリと手にしていたバッグを足元に取り落とした。
「な、何てこった……」
「ユーゴ?」
「せっかく逃げ切ったと思ったんにっっ」
 玄関先で靴も脱がずに頭を抱えて悶える東を前にして、ただおろおろするばかりのヴィリーの耳に、地を這う笑い声が聞こえてきた。
「フッフッフッフッフ……」
「何?」
 ヴィリーもその不気味な笑い声と酸っぱいような臭いが玄関近くにある食堂からしていることには気が付いた。
 しかして食堂から、嶋を先頭に青い顔をした前工サッカー部員だけではなく、入寮している運動部員の半分ぐらいが現れたのである。
「待ちかねたぞ、二人とも!」
 まるで巌流島での決闘を控えた佐々木小次郎のようなセリフを嶋が吐いた。そう言われてみれば、彼の髪型は落ち武者のようでもある。
「待たなくてよかったんべ……」
 対する東はがっくりと肩を落として言った。
 ヴィリーは訳が分からず困惑の極みにあり、ただ、見たこともないように打ちひしがれた東と、怖い顔をした出迎えの皆さんを見比べるばかりだ。
「そう言うな! やっぱこれを食わなきゃ正月は明けねえんべ!」
 と、出迎えの皆様は東とヴィリーを囲み、有無を言わさず食堂に連れ込んだ。
「ナ、何ヲすル!?」
「俺は遠慮するーっっ」
「遠慮する必要はないぞ!」
「うわーっっ」
 抵抗空しく、食堂の椅子に座らされる。逃げようにも屈強なラグビー部員数人がかりで肩を押さえられていてどうにも身動きが取れない。
「おばちゃーん、二人前よろしくー」
「はーい」
 聞き慣れたおばちゃんの声が厨房の奥から聞こえ、そしてあの玄関先まで漂っていた強烈な臭いがいよいよ近づいてきた。
「ヴィリー君、おばちゃん待ってたんべー。これだけは食べて国に帰ってくんねえとな」
 と、にこにこと人のよい笑顔を浮かべて逃げられないように肩を押さえられた東の前に置かれた深皿の中に入っていた物を見て、ヴィリーは思わず目を見開き、声を出しそうになって両手で口を押さえる。










 ――酸っぱい臭いを放つ白く濁った粘液状の中に、にんじんや大根の破片らしきものが見えるそれは、臭いも見てくれもゲ○としか思えなかった。










 「ナ、何、コレ……」
 ヴィリーはほとんど涙目で呟く。怖すぎて目が逸らせなくなっている。
 その隣で東は深い溜め息を吐きながらのろのろと割り箸を取った。「だから昨日ついてったんに……」とか何とか、口の中で呟いている。
 しかし、そんな二人の様子など気がつかぬ風で、まかないのおばちゃんは喜んで説明してくれる。
「これは“しみつかれ”って言ってな、この辺の郷土料理だべ。正月に必ず食べんよ。おばちゃんのしみつかれはみんな美味い美味いって近所の人に頼まれる程なんよ。よかったわー、ヴィリー君、もうすぐ国に帰るって聞いたんで、腕によりをかけたんべ」
 そんなことを言われても、正直、人の食べ物にはとても見えない。
 実際、ものすごく気が進まぬ箸づかいでのろのろとにんじんらしきものを口に入れた東は、う、と、呟いて、必死で咀嚼しているように見える。
「ア、アノ……」
「ん? 何だべ?」
「何デこんなニ白イんですカ……?」
「あ、この白いのは酒粕だべ」
 と、言われても、ヴィリーに分かるはずもなく。
「サケカス……?」
 と、首を傾げるヴィリーは肩を叩かれて見上げると、嶋が、もう何も言うな、と言うような表情で首を横に振っていた。
 そして、
「おばちゃん、ヴィリーの分は特別なんだべ?」
「そうそう」
 そして、ヴィリーの前にも深皿が置かれた。
 ヴィリーはまたも皿から目を離せなくなる。
 思わず生唾をごくりと飲み込んだのは恐怖のあまりだったのだが、おばちゃんには完全に誤解された。
「そんなに喜んでもらえると、おばちゃんも嬉しいべ。ヴィリー君用に一鍋に一人しか食べられない鮭のお頭取っといたんべ。さ、たくさん食べてって」
 そう、ヴィリーの前に置かれた深皿の中央には、鮭のお頭がどんと載っていたのだ。
 白い酒粕の膜がかかったお頭の白く濁った目が、恨めし気にヴィリーを見つめているような気がする。
 それより何より、どうやってこれを食べたらいいのか、ヴィリーには理解不能だった。
「コレ……どうヤッテ食べタラ……」
「ああ、頬の肉をこそげ取って食べるんよ。うんまいよー」
 ささ、と、勧められ、ヴィリーは覚悟を決めて箸を取った。
 あの東までもがまるで死刑執行でも受けているかのように黙々と食べているのだ。既に退路はない。
 頼むから自分を恨まないでくれと祈りながら、言われた通りに鮭の頬肉をこそげ取り、白い液体に塗れたそれを口に入れる。
「うっ……」
 ヴィリーは口を押さえた。
 臭いも見た目も凄かったが、味も筆舌に尽くし難い。
 と言うか、鼻に抜ける強烈な酒粕の臭いと味で、正直、鮭の頬肉の味など分からない。
 はっきり言って吐き出してしまいたかった。
 だがしかし。
 純真なおばちゃんの期待に満ち満ちた目に見つめられては、そんなことは出来るはずがなかった。
「ヴィリー君、どう?」
 尋ねられても、不味いとも言えず、さりとて美味いとはとても言えず。
 かと言って何も答えない訳にもいかない気配を感じ取り、とうとうヴィリーは曖昧なオリエンタルスマイルを浮かべて小さくうなずいた。
 その途端、おばちゃんの顔が喜びに輝いた。
 それまで何故日本人が意味もなく笑うのか理解できなかったヴィリーであったが、その効力に納得した。
 ヴィリーが日本の文化に対して理解を深めた瞬間だ。
 本当のところは、オリエンタルスマイルと言うよりは目に涙が溜まってほとんど泣き出す寸前だったのだが。
 後は、電車の中でいろいろ食べてしまったからお腹が一杯だとか何とか理由をつけて、箸を置けばいい。
 だが、そんなヴィリーの考えは甘かった。
「そんなに喜んでくれてうれしいべ。おかわりはあるからね、たっくさん食べてって」
「!!!」
「……バカ」
 涙の溜まった目を大きく見開き硬直するヴィリーの隣で、東が低く吐き捨てたのだった。















――合掌。








しみつかれ、もしも好きな方がいらしたらすみません。
でも私は、あれだけは受け付けられません……。
夕日(2005.12.20再)






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