「斉木さん!」
駆け出す斉木の名を呼んだが、斉木は振り返りもしなかった。
すぐに追えば追いついたかもしれない。
だが、芹沢は動けなかった。
追いかけて、捕まえて、それで?
何を言うべきか、何をすべきか、思いつきもしない。
追いかけなければ終わってしまうかもしれない。
だが、追いかけたら終わらずに済むのか。
追いかけないよりももっと酷い事態になるのか。
走馬灯のように思いが駆け抜け、声すら出なかった。
ただそのまま凍りつき──
我に返った時は夜が白々と明けていた。
柔らかな枕に顔を埋め、思い出す。
自分の手で果てる斉木の姿。
それはもはや夢のようで、いつもの淫夢に過ぎないのかもしれないと芹沢は思い始める。
それは一種の自己防衛本能であっただろう。
恋人としてだけでなく、斉木そのものを失ったことを自覚して、壊れずにいられる自信など芹沢にはなかった。
都合のいい記憶のすり替えを終え、ようようベッドを脱出する。
だが、やはりそう都合のいいことがまかり通るはずもない。
シャワーを浴びようとした芹沢の目にそれが飛び込んで来た。
リビングのソファーの背にかかった、自分の物ではないジャケット。
斉木のジャケットだった。
その存在が、昨日の出来事は夢ではないと自己主張する
麻で出来たそれは、斉木が気に入りだと言ってよく着ていたものだ。
それすら忘れて行くとは、とにかく一刻も早く、この部屋を出て行きたかったのだろう。
斉木に不埒な思いをぶつけた芹沢のいるこの部屋から。
斉木のジャケットを手に取り、芹沢はぽつりと呟く。
「ああ、終わったんだな」
Rescue1
あれから一週間が経った。
「キャプテン、お疲れっした!」
「おう、お疲れ」
練習後、帰宅の途につく斉木へ、後輩達が礼をする。
斉木は鷹揚に応え、通り過ぎる。
いつもの光景だ。
ただ一つ変わったのは。
ふいに斉木が足を止める。
裏門を出て少ししたところに、植え込みの影になる部分がある。
そこはいつも芹沢が車を止めていたところだった。
何しろ車も派手だわ、本人も派手だわで、まるで隠れてはいなかったが、一応出来るだけ目立たないようにしていたらしい。
勿論、今は何もいない。
だが、無意識に探してしまう。
もう戻りはしないのに。
戻れるはずもないのに。
斉木は自嘲して、その場を立ち去る。
後に、少し長くなった影を残して。
「あれ?」
週に一度のオフ日に出かけようとして、斉木は首を捻った。
気に入りの麻のジャケットが見つからない。
小首を傾げて最後に着た記憶を辿る。
最後のに袖を通したのは、内海と親善試合を見に行った時だ。
「あ」
声を上げ、斉木は片手で顔を覆った。
眉間には深い皺が刻まれている。
「まさかあそこで忘れて来るなんて」
よりにもよってとはこのことだ。
最後の記憶は芹沢の部屋だ。
何も考えず飛び出して来たあの時、ジャケットのことなど、頭の片隅にもなかった。
一瞬、電話してみようかと考えた。
だが、
「無理無理、ありえない」
思わず漏れた声が意外に大きく、斉木は我に返る。
ため息を吐いて肩を落とす。
芹沢の、傷ついた表情がフラッシュバックする。
あんな表情をさせてしまったのは、斉木だ。
芹沢は、本気だった。
その本気を、遊びか気の迷いと決め付けていた。
結果的に、斉木は芹沢の気持ちを弄んでしまったのだ。
『斉木さん──』
ふいに芹沢の熱い囁きが蘇り、斉木は思わず身震いする。
怖かったのだ。
斉木は、芹沢の本気が怖くなって逃げ出したのだ。
そう思っていた。
だが、今はそれが本当の理由でなかったことに気がついている。
いや、気づかされたと言うべきか。
斉木は、自分の気持ちを認めることが怖かったのだ。
芹沢に惹かれていると言う事実に。
芹沢を失った時から、斉木の中にぽっかりと開いた穴。
埋めることは勿論、サッカーに打ち込んでいる時以外、忘れることさえ出来ないでいる。
余計なことを考えないように遊びに行こうとすれば、気に入りのジャケットを忘れて来たことを思い出す始末だ。
いつから惹かれていたかと言えば、多分ずっと前からだ。
芹沢の誘いはいつも突然で強引だったが、斉木は断ることなど考えていなかった。
誘われて浮かれて、気に入りの服を着て、出かけた。
まるでデートそのものだ。
「最低だよな、俺」
斉木は自嘲する。
傍目には明らさまだったろう自分の気持ちにも気づかず、ただ芹沢を傷つけた。
唯一の救いは、斉木だけではなく、恐らく芹沢も斉木の本心には気づいていないということだ。
斉木も芹沢も、本気だからこそ斉木は芹沢を忘れなければいけない。
男同士の恋愛なんて世間では受け入れられるはずがない。
そんなところに芹沢を引きずりこんではいけない。
確かに二人共傷ついただろう。
だからこそ、これ以上傷を広げないように、忘れなくてはいけないのだ。
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夕日(2011.03.29)