視界の隅で白っぽいものがちらついて、無意識に視線を引き寄せられる。
そうして、いつものように芹沢はため息をついて、それから舌打ちをする。
視線の先にあるのは、斉木のジャケットだ。
始末に困って死角に入るように壁の片隅にかけたそれは、大概の場合は忘れていられるのだが、ふとした時にこうやって存在を主張し、芹沢に毒を流し込む。
クローゼットの中にかけて、毎日存在を確認して平然としていられるほど達観してはいない。
一瞬斉木へ送り返そうかと考えもした。
しかし、そうしてしまうと斉木との関わりが完全に切れてしまいそうで出来なかった。
勝手に捨てるなんて論外だ。
芹沢は己れの未練たらしさに苦笑する。
手放さなくても、斉木との関わりなどとうに切れている。
そう、頭では分かっている。
しかし感情は御し得ない。
こうやって芹沢が斉木のジャケットを持っていれば、いつか斉木が連絡をくれるのではないかと期待している。
ジャケットの所在を確かめて、そして、芹沢のことも許してくれるのではないかと。
芹沢の薄い唇が笑みに歪む。
そんなのは、儚い希望を通り越えて妄想の類だと分かっている。
だが、それでも諦められないことが世の中にあるのだと思い知った。
ジャケットを見る度に、それを着てご機嫌だった斉木の笑顔を思い出す。
『気に入りなんだ』
と言った、そのジャケットまで忘れてしまうほどに慌てて出て行った。
それほどに、この部屋から出て行きたかったのだと知れる。
それも無理はない話であると頭では理解出来る。
ふと考える。
――自分はあまりにも性急に事を進め過ぎたのだろうか。
いつもの自問自答の答えはやはり同じだ。
もう芹沢はあれ以上我慢は出来なかった。
最初は、まるで無防備な寝顔を晒す斉木の油断に呆れ、その寝顔を見るだけに留めようとはしたのだ。
斉木が本気で芹沢の思いを受け入れた訳ではないことは分かっていた。
いつもの八方美人を発揮しただけのことで、芹沢が本気だと言うことすら理解しているかは疑わしかった。
だからこそ、無理強いをすればさすがの斉木も腰が引けてしまうだろうことは容易に想像出来た。
何しろ、斉木はキス一つ許してくれはしなかったのだから。
だから芹沢は、斉木と並んで寝るだけで一度は満足しようとしたのだ。
だが、好きな人と二人きりで無防備な寝姿を晒されて、何もしないで過ごすのは、男の生理として不可能だった。
何度目かの回想をして、芹沢は深く息を吐く。
何よりも、性急に進めなかったとして、斉木が受け入れてくれる可能性はあったのだろうか。
子供のように好きだと言うだけでなく、性的な対象として見ていると知り、扱われて、それでも。
答えなど、出はしない。
Rescue2
練習後、ダラダラと身支度をして芹沢はクラブハウスでとぐろを巻く。
斉木のところに行かなくなって、時間を持て余すようになった。
お互いに忙しい身の上でもあり、斉木を誘うのはせいぜいが週に一度だった。
だが、会わなくとも斉木が好きそうなデートプランを練り、そして不審を抱かれないような場所やコースを探すことに随分時間を割いていたのだと気がついた。
それは芹沢にとって楽しいことで、全く苦にならなかったから時間がかかっているという自覚はなかったのだ。
しかし、そうやって時間をかけることがなくなると、どうやって過ごしていいのか分からなくなってしまった。
以前のように遊び歩く気にはなれない。
比べられない次元にあるサッカーだけは別だが、芹沢は斉木に未練たらたらであり、試合や練習が終わればその代償になるものなどなかった。
視線を巡らせると、クラブハウスのテーブルの上にスポーツ新聞が放り出されているのを発見する。
何もないよりはマシと手を伸ばす。
一番上に乗っていた新聞を広げると、自分の名前が見出しに踊っていた。
『――空中分割危機!! 神谷と芹沢が大喧嘩』
だが本人、丸で心当たりがない。
――俺、神谷さんと何かあったっけ?
首を捻っていると、当の神谷に声をかけられた。
「芹沢、何してんだ」
「あ、神谷さん」
芹沢は眺めていた新聞を取り上げ、神谷に示す。
「何か俺、神谷さんと喧嘩してて、ウチ、空中分解寸前らしいですよ」
「へえ、そりゃ初耳だな」
神谷は表情も変えずに肩を竦めた。
身に覚えのない記事など両手両足では足りない程度には書き立てられているので、今更動揺もない。
ラウンジに設置されているスポンサーの自動販売機でペットボトルを買って、おもむろに問う。
「で、俺、お前と喧嘩なんかしてたっけ?」
「いや俺も心当たりがないから考えてたんですが」
まるでコントのようなやり取りをしていると、神谷が目を見開いた。
「今日の記事になるってことはあれか、昨日の紅白戦でスペースに出すか出さないかで言い合ったやつか」
言われて、芹沢は遠い眼をした。
「ああ、そんなこともありましたねえ」
昨日の紅白戦で、スペースにボールを出した神谷に対して、芹沢は足元に寄越せと言ったシーンがあった。
確かに神谷が出したスペースでボールを受けられれば決定的シーンではあったのだが、いかんせん芹沢でも追いつける距離ではなく、また、芹沢には相方のFWがファーに見えていた。
一度芹沢が足元で受けて、相方のFWに出すか、PA内に神谷自身に走りこんで欲しかったのだ。
お互いに考えを伝え、要求し合わなければ、同じ『絵』を描くことは出来ない。
ピッチでは先輩も後輩もあるはずもなく、かなり強い口調で言い合ったのは事実だ。
しかし、今目の前の記事が面白おかしく伝えているような喧嘩の類ではないことは、その現場に居合わせた者ならば誰でも分かったはずだ。
だが、こういう記事を鵜呑みにして手紙やメールを寄越すファンもいるのだから、あんまり馬鹿馬鹿しい記事は願い下げしたいところだ。
「相変わらず針小棒大でいっそ感心しますね」
乾いた笑いの後に、芹沢は思う。
――馬鹿じゃねえの。
言い合えるならまだいい。
口もきいて貰えぬようになったら、その時こそおしまいなのだ。
自覚なく険しい顔になった芹沢へ、神谷が言う。
「で、何でお前いんの、いつもすっ飛んで帰るくせに」
「別にすっ飛んでなんかないですよ」
苦笑する芹沢に構わず、神谷が畳み込んだ。
「いいけどさ、斉木さんはどしたのよ」
不意打ちを喰らって、肩がびくりと震えてしまった。
ここで否定したところであまりに露骨すぎる。
隠すことは諦めて、芹沢は質問を返す。
「何で神谷さんが知ってるんですか」
元々、芹沢と斉木の直接の関わりは薄い。
大学の連中にはバレバレだが、それ以外ではいきなり芹沢と斉木を結び付ける者はあまりないはずだ。
しかし、神谷に知らしめた犯人は、芹沢にとっては意外な人物だった。
「前に斉木さんからお前のこと聞かれたんだよ」
怪我して落ち込んでる時に地雷踏んだらまずいだろう、と、斉木は言ったそうだ。
「別に踏んだっていいと思うからそう言っといたけどな」
「神谷さん、ひどい」
「甘えてんじゃねーよ、そんくらい自分で乗り越えねえでどうすんの」
神谷は自分にも厳しく他人にも厳しい。
その上あの無愛想でぶっきらぼうな話し方だから誤解を振り撒いて歩いてしまうのだが。
それはさておき、斉木が神谷に芹沢のことを相談していたという事実が、芹沢の心を暗くする。
それは、斉木が芹沢の告白を本気とは捉えていなかったということだからだ。
本気で男に好きだと告白されたと考えていたなら、斉木の性格ならば誰にも言えないだろう。
思わず黙り込んで視線を落とした芹沢に、神谷はペットボトルのジュースを一口飲んで言い捨てた。
「ていうか、うぜえ、どんよりした空気振り撒いてんじゃねえ」
しかし続く言葉はまた芹沢の表情を凍りつかせる。
「何か怒らせたんならとっとと謝っとけよ。斉木さんは甘い人だからちゃんと謝れば許してくれんだろ」
だが、すぐに芹沢はうっすらと笑った。
笑うしかなかった。
他のことならいざ知らず、今回ばかりは難しい。
いや、許しを乞うて許してもらえるものなら、芹沢は土下座も厭わないが、それをする勇気はない。
「いいからかけてみろよ。今なら向こうも練習上がった頃じゃねえの」
分かっていない神谷は、神谷なりの気遣いで勧めているのは分かるが、この場合は正に小さな親切大きなお世話である。
「後でかけますよ。じゃあ、俺はこれで」
「あ、おい、芹沢」
これ以上面倒なことになる前に、芹沢は席を立った。
神谷に呼ばれても振り返らず、足早にクラブハウスを出る。
明日も顔を合わせるが、神谷も他人事をそこまで引きずらないだろう。
取り残される格好になった神谷は、鋭く舌打ちをして呟く。
「しょうがねえなあ……」
そうして、傍らのバッグに手を突っ込んだ。
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ウチの芹斉の基本設定では、神谷と芹沢はチームメイトです。
夕日(2011.03.29)