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 ロッカールームのドアは、音もなくスムーズに開いた。
「ども。お初っす」
 と、斉木は軽く頭を下げながら、芹沢に続いてロッカールームに足を踏み入れた。
 その途端。
 それまでざわついていた空気が、一気に冷える。
 そして、突き刺さるような視線が斉木達に集中する。
 明らかに、敵意を含んだそれだ。
 誰もが押し黙って二人をにらみつけている。
 芹沢は、視線だけで少し下がって歩く斉木を見る。
 だが、斉木は気にした風もなく、いつもの人好きのする笑顔を浮かべて、ひょうひょうと歩いている。
「これ、ですね」
 芹沢は一番奥に位置する、自分の隣のロッカーを示した。
 まだ真新しいそれの名札には、「斉木」と手書きの名札が入れられていた。
「よろしく」
 斉木はロッカーにまで挨拶をして、それからドアを開けて、肩にかけていたドラムバックを放り込む。
 ロッカーのドアの影に隠れた途端、それまで何事でもないかのようだった斉木の気配が、変わった。
「改善点その一、雰囲気の悪さ、コミュニケーション不足」
 ぼそり、と、呟く。隣にいる芹沢に届くか届かないかの声だった。
「お前、よく我慢してたな、こんなの」
 今度は、芹沢に話しかけてくる。
 見ると、斉木は正面を向いたままだったが、先程までの人好きのする笑顔はどこかに消えていた。
 ピッチに立つ時だけに見せる、戦闘モードの表情だ。
「俺達は、待遇違いますからね」
 芹沢は抑えた声で答えた。
 日本代表にまで名を連ねた二人は、J2のこのチームの中では、全てにおいて破格の待遇を受けている。年棒はもちろん、ロッカールームの一番奥のこのロッカーに至るまで、全てが、だ。
 それだけに、期待に応えていないと思われれば、皆、手のひらを返す。
 芹沢の神経が磨り減ったのも致し方がないことだ。この針のむしろに2年も耐えただけで、たいしたものだと言える。
「…すみません」
 言いたいことも言い訳したいこともたくさんあった。
 だが、あり過ぎて、芹沢にはそう呟くのが精一杯だった。
 不覚にも、目頭が熱くなる。必死に、泣いたりしないよう自分に言い聞かせる。
「大変ですよ、これから」
 シニカルな笑顔を取り繕って言うと、斉木は相変わらず正面を向いたまま、答えた。
「バカにすんなよ」
 真新しい、このチームのジャージのジッパーを上げて、戦闘準備は完了だ。
 そしてロッカールームに入って初めて、斉木は芹沢の方を向いた。
 その顔には、芹沢が見たこともないような自信に満ち溢れた表情が浮かんでいる。
「俺がどうして中学の頃からキャプテンなんかやってきたのか、その理由を教えてやるよ」
 その顔に。
 思わず、見惚れてしまった。
「どうした?」
 バカみたいにポカンと口を開けている芹沢に、斉木は眉をひそめる。
「いえ、かっこいいなあ、と、思って」
 芹沢は、正直に白状した。
 すると、
「バカ」
 斉木が精悍に笑った。
「俺はずっとかっこよかったんだよ」
 芹沢がまるで知らない斉木だった。
 芹沢はようやく、これから斉木と同じチームで戦えるのだと言う実感を得る。
 敵としてピッチに立つ斉木でもなく、日本代表でサブとして黙々と自分の仕事をこなす斉木でもなく。
 チームのキャプテンとしての斉木と共に。
「知らなかった」
「そうだと思った」
 芹沢の表情からはこわばりが消え、自然に笑っていた。
 芹沢自身は気がついていないが。
 そんな芹沢を見て、斉木も笑った。
 そして。
「じゃあ、行くぞ」
「はい」
 そうして二人は、新たな戦いの場に一歩を踏み出した。






 「皆よく知っていると思うが」
 練習が始まる前に、監督から簡単な紹介をされる。
「今日からチームに合流する斉木選手だ」
「斉木誠です。よろしくお願いします」
 斉木はいつも通りのよく通る声で名乗り、頭を下げる。
 だが、居並ぶチームメイトからは反応はない。
 プラスのそれは勿論、マイナスのそれも。
 もう最初から、無視をし通すことに決めているようだった。
 そんなチームメイトの列にいる芹沢は、思わず斉木を盗み見てしまう。
 だが、斉木は、全く何の動揺も見せていなかった。
 ニコニコと人好きのする笑顔を浮かべたままだ。
「今後は、斉木選手にキャプテンマークをつけてもらうことになる。よろしく頼む」
 監督の手から斉木へキャプテンマークが渡る。
 斉木は受け取ったキャプテンマークを無造作にジャージのポケットに突っ込んだ。
「それではこれから各自――」
 と、斉木の紹介を終え、練習に入ろうとする監督に、斉木が声をかける。
「あ、すみません、監督」
「何か?」
 そう言う監督の声も心なしか冷たかったが、斉木はまるで能天気とも言えるほど、笑顔のままだ。
「今日は俺、全員の練習を見ていたいんですが。早く、皆の実力を把握したいので」
「ああ、当然だな。構わんよ」
「ありがとうございます」
 斉木は大きな声で言い、深く頭を下げた。
 芹沢にはいまだに違和感のある、典型的な体育会系の風景だ。
 だが、監督の機嫌が少しよくなったように思える。
 一応、芹沢もそれなりに体育会的筋を通したつもりだったのだが、まだまだ足りなかったのだろう。芹沢の場合、先天的に体育会気質が不足しているので、致し方のないことなのだが。
 それはともかく、コーチの指示を受けて各自ウォームアップを始める。
 ストレッチを行った後は、心拍数を目標値である130まで上げるためのランニングだ。
 当然、ランニングのスピードはそれぞれの心肺能力とスタミナによって違ってくるが、大体3グループほどに分けられる。
 が、芹沢は、その3グループのどれにも属していない。
 あまりにも群を抜き過ぎているのだ。
 その昔、スタミナ不足で痛い目を見ている芹沢は、オフシーズンといえども体力作りは怠らない。それは、日本人としては規格外の体格を支えるためにも必要なことだ。
 そういう努力は、真夏を越えたこの季節、露骨に表れる。
 すでに少しバテ気味なチームメイトを置き去りにして走る芹沢の顔には汗の一粒もない。
 斉木は低く呟く。
「改善点その二、基礎体不足」
 全員の心拍数が大体目安の130まで上がった所で、基礎練習が始まる。二人一組になって壁パスを繰り返しながらゴール前から反対側へのゴール前へダッシュする。
 芹沢は一番最後に並んでいた。
 流れて行く中で順番はすぐに回って来たが、その姿を見て、斉木は男らしい眉を寄せた。
 芹沢のスピードが大分遅い。
 そもそも一歩のストライドが長いため、芹沢は相当足の速い方である。代表の中でも芹沢は、100メートルを11秒台で走り抜く平松や松下辺りと充分に対を張る。その上に、テクニックがあり、かつ、パワーと外国人選手にひけを取らない上背がある芹沢は、日本最強のFWだと言っても過言ではない。
 だが、今の芹沢のスピードは、斉木の目からするとあまりにも遅かった。一歩進める毎に半拍の休みが入っているかのような、ぎこちない動き。
 右膝に古傷を抱えているが、今は特にどこも痛めてはいないはずだったよな、と、斉木は思わず思い巡らせる。
 その時、
「芹沢さん! また速すぎますよ!」
 え、と、斉木は目を剥いた。
 芹沢の後ろをボールが転々と転がって行く。
「あーあ、まただよ」
 聞こえよがしな声が上がった。
 斉木はその選手の顔を記憶する。
 芹沢は無言でボールを取りに戻り、何事もなかったかのように再開するが、その動きは更に緩慢になった。
 なまじ、体格がいいだけに、その動きは重々しくすら見える。
「芹沢はどうしてあああわないのかな」
 斉木の隣でコーチの一人が呟いた。
 それはそうだと斉木は内心だけで呟く。
 芹沢は並ではないのだ。並でない相手は、それなりに扱わねばならない。
 教科書通りにやっていては、追いつかない。
 芹沢は、充分に合わせようとしている。
 だが、芹沢がレベルを下げて合わせては何の意味もないのだ。
 芹沢の域に入ることは出来ない。そんなことは無理な相談だ。
 芹沢は、天才なのだから。
 しかし、芹沢の域に少しでも近づくことは可能なはずだ。
 だが、壁パスの列は芹沢の部分だけではなく、乱れている。細かなミスが重なった結果だ。
 とても、シーズンの半分を折り返したチームとは思えない。
「プラス、意識の低さ」
 斉木は腕組みをして、太い息を吐く。
「論外だな」
 よくもここまで放っておいたものだ。
 居並ぶ監督やコーチを盗み見る。特に何も言うことはなさそうなその気配に、もう一度溜め息を吐く。
「これは、大分骨だ」
 芹沢は本当によく我慢している。昔の芹沢なら間違いなく放り投げていたろうに。
「仕方、ない」
 斉木はある決意を込めて、グラウンドへもう一度視線を向けた。