斉木の眉間に刻まれた皺は、時間が経つにつれ、深くなった。
 戦術練習に入ってからも、芹沢とチームメイトのギャップは埋まらない。
 むしろ、より大きくなっているように、斉木には見えた。
 中盤から前線へ詰める味方にパスを通す、その練習の時も、やはり芹沢の後ろへボールがこぼれる。
「芹沢さん、前へ出過ぎ…!」
「出過ぎるなんてことはない」
 芹沢を責める語尾に、よく通る声が重なる。
 怒鳴った訳でもないのに周囲に響き渡ったその声の主に、視線が集中する。
 全員の、どちらかと言えば好意的ではない視線を一身に浴びて、だが、厳しい顔をした斉木はぴしゃりと言い放つ。
「受け手に合わせられないパサーが悪いんだ」
「な…っ」
「だって、あんな前に出たらDFに囲まれてるはず…」
「そんなのは、実際の試合じゃ分からない。あそこにスペースが出来ているかもしれない」
「そんなこと…」
「それを作り出すのも、全員の仕事の一つだ」
 斉木は腕組みを解き、監督コーチに視線を走らせる。首脳陣は、黙って小さくうなずいた。
 斉木も軽く頭を下げて、おもむろに、歩き出す。
 誰もが、息を飲んだ。芹沢までが――斉木は、けして鬼の形相ではないが、口を挟ませない気配を湛えていた。
 パサーの位置に立って、斉木は改めて口を開いた。
「この練習は、正確なパスを出すための練習だが、正確なパスって言うのは、教科書通りに決められた位置に出すパスじゃない」
 斉木は自分の足元にボールを寄せる。
「正確なパスって言うのは、受け手にあわせられるパスだ。しかも今は出す方も受ける方も敵のプレッシャーのない状態なんだ、ほぼ誤差なしでパスを出せなきゃ、試合中には何の役にも立たない」
「でも!」
 頭ごなしに自分達を否定され、グラウンド中が殺気立っていた。
 芹沢でさえ、心配してしまうほどに、斉木への敵意が膨らんでいた。
 その敵意の渦に勢いを得て、斉木を責める声が飛ぶ。
「実際に試合中に出せない位置に練習でパスを出したって、意味はないでしょう!」
 だが、斉木は平然と言い返した。
「じゃあ、俺達がパスを出すと決めた位置に敵が絶対にいないなんてことはあるのか?」
 ぐっと詰まる気配がする。斉木の言うことは正論だが、かと言って強すぎる刺激は、えてして更なる過剰反応を引き起こすものだ。
 それを知らない斉木ではない。むしろ、最もよく知っていると言っていいはずの斉木が、これほど強硬な態度に出るとは芹沢にも解せない。
「だったら、あん…あなたは正確なパスが出せるって言うんですか?」
「ああ」
 挑戦的な問いに、斉木は言下に答えた。
 となれば、反応は一つしかなく。
「じゃあ、是非やってみせて下さいよ」
 その言葉は、冷笑を含んでいた。
 言った本人だけではない。
 全員が、やれるものならやってみろ、と、思っているのが痛いほどに分かる。
 だが、斉木は平然としていた。
 足元のボールを押さえて、顔を上げた。
「芹沢! 今と同じに上がれ!」
「はい!」
 思わず返事を返し、それからの芹沢の動きは素早かった。
 スタート位置に戻って、先ほどと同じようにダッシュする。
「そら!」
 斉木のパスは、芹沢の目の前1メートル強、ゴールの正面に落ちた。
 芹沢なら、ちょうど1歩の距離だ。
 芹沢はワントラップしてそのままシュートする。
 何を考える必要もなかった。
 何の無駄もなく、自分のリズムを変えることもない、一番楽に受け取れるパスだった。
 それまでのもたもたした印象のある芹沢の動きからは考えられないような、素早く滑らかな動きだった。
 皆が、息を呑んだのが分かる。
 そして斉木は、食ってかかったその選手を指差して言う。
「次はお前だ。さっきと同じように走れよ」
「…分かりました」
 一瞬唇を噛み、その選手はスタート位置に立つ。
「じゃ、行きますよ」
「いつでもOKだ」
 斉木の言葉を受けて走り出す。
 斉木は無造作にパスを出したように見えた。
 今度のボールは、芹沢の時よりは、大分自陣よりだが、その選手から1メートル弱の位置に転がる。
 やはり1歩でトラップ出来る位置だった。
 トラップして、その若手は立ち止まってしまう。
「どうだ?」
 斉木は会心の笑顔を見せた。
「取り易かっただろう?」
 一言もなかった。
 だが、無理がなく取れたことは一目瞭然だ。
 確かに斉木は代表にまで名を連ねる選手ではあるが、所詮、控えだと言う印象がある選手だった。流れを変えるスーパーサブと言うよりは、神谷か加納の控えとして、そのどちらかにアクシデントがあったとか、もしくは温存したいなどの理由がなければ、フル代表としてはピッチに立つことはなかったのは事実だ。
 日本代表で押しも押されぬCFだった芹沢ですら、大口を叩くばかりでこのチームをどうにも出来なかったと言うことが、チーム全体に刷り込まれている。
 いわんや、代表ではたかが控えの斉木が何が出来ると、全員が侮っていたのは疑いようのない事実であり、そんな斉木が、代表で一緒になったことがある芹沢だけではなく、今日初めて一緒にやる選手にピタリとパスをあわせて見せたことに、全員が衝撃を受けていた。
「どうする、後、二、三人やってみるか?」
 斉木の挑発に、二人の選手が名乗りをあげたが、結果はやはり同じだった。
 ゴールから見た位置は前後していたが、それぞれが1歩で追いつく位置に、斉木はパスを出してみせた。
 そうして、言う。
「試合に絶対、なんてことはありえない。だから、どんな位置にでも正確なパスが出せるように練習していなきゃいけないんだ。それでも、試合中はなかなか思うようには出せないんだからな」
 応える者はなかった。
 芹沢以外の者はまだ承服しかねているようであり、芹沢は、言うべき言葉が見当たらなかった。
 斉木はさほどではないような顔をしているが、初めて見ただけの選手にパスをあわせるのは、相当に難しいことだ。
 いくら、練習を見ていたとは言え、それだけで出来るものなら、誰だって一流になれる。
「監督、紅白戦には俺も入れて下さい」
 しかし斉木は、答えなど気にしないそぶりで、監督に話しかけている。
「今日は練習を見ているんじゃなかったのか?」
「後は実際にやってみないと分からないんで」
 その言葉で、戦術練習の後のミニゲームで、斉木は芹沢と同じスタメンチームに組み入れられる。
「よろしく」
 と、斉木は礼儀正しく、メンバーに頭を下げる。
 しかしすぐに、
「そうだな、3点差以上つけて勝とうか」
 さらっとすごいことを言い出す。
 斉木のゲームメークは手堅いことで知られているが、とても手堅いとは思えない発言だった。むしろ神谷辺りを彷彿とさせる、攻撃的な態度だ。
「そんな簡単に…」
 非難の視線が集中したが、
「大丈夫。こっちには芹沢がいる」
 気軽に肩を叩かれて、芹沢は困惑の表情を隠せない。
「斉木さん…」
「芹沢なら、二枚までのマークなら楽に振り切れる。三枚ついたら、こっちは二人フリーになれるってことだ。フリーの人間で点を取る」
 斉木は簡単な方針だけを告げる。
「その辺の切り替えは俺が指示を出すから…」
「もし、斉木さんがマークされたらどうするんですか?」
 意地の悪い質問にも、斉木は動じない。
「俺も二枚までなら何とかする。三枚目は、つかれないように努力する。もしもついたら、芹沢が1.5列目に下がってくれ。下がればマークは外れるだろう。指示は出す」
「分かりました」
 明解な指示に、他の者が何を言うより早く、芹沢がうなずいた。
 斉木を一人矢面に立たせたくなかった。
「で、最初はマイボだからな、相手が油断している間に速攻で1点いただこう」
 斉木は芹沢に笑いかける。
「最初が肝心だからな」
 斉木の気配が塗り変わる。
 けして表情が変わった訳ではない。だが何かが、明らかにほんの数瞬前までとは違っている。
 斉木は練習開始前に受け取った、まだ新しいキャプテンマークをポケットから取り出し、左腕に嵌めた。
「よっし、行くぞ」
 戦闘開始の合図だった。