midnight flower





 カーテンの隙間から差し込む光に、斉木のまぶたが震え、ゆるゆると持ち上げられる。
 まだ夢現の中で、斉木の指が、あるべきものを探して、シーツの上をさまよう。
 だが、それはなかった。
 いや、いなかったと言うべきか。
 腕を伸ばせる範囲のどこにもいないことを確認してからようやく、斉木は芹沢がすでにベッドから出てしまったことを認識する。

 本当ならば探すまでもなく。

 いくらロングサイズのダブルベッドとは言え、斉木サイズの男が二人寝るには少し苦しい。
 まして、相手が芹沢となると、指先どころか全身で相手の体温を感じることになる。
 芹沢は、いないのだ。
 ベッドの下にも気配はない。斉木が蹴り落とした――お互いにままある――訳ではないようだ。

 ――どこにいる?

 半分眠った頭で探っても、気配の欠片も感じられない。
 起きるべきなのかもしれないが、手加減なく貪られた体はだるく、まだ睡眠を欲していた。
「う…ん」
 斉木は一人で寝るには広いベッドの上で、どこか苦しげに寝返りを打つ。
 その、刹那。
 匂いが、斉木の鼻先を掠めた。

 ――ああ、芹沢の…。

 頬が触れたシーツからは、少し香水の甘い香りが混じった、匂い。
 芹沢の匂いだ。
 ここは芹沢の部屋で、芹沢の匂いがするのは当然のことだけれど。
 その匂いは、不安になりかけた斉木の心に忍び入り、不安を幸福に塗り替える。



 そしてそのまま、匂いに誘われるように、斉木は、再び眠りに落ちた――。





「誰もが自分のペースで動いてる
誰もがすれ違うようにぶつかっている」






 「…こんな時間……」
 斉木が本格的に起き出したのは、昼を大きく回った時間だった。
 ため息を吐きながら、枕元に小さな置き時計を戻す。
 それから、痛む体をなだめすかして、そろりとベッドを降りる。
「芹沢?」
 シャワーを浴びてから着替えて――ここ一ヶ月ほどほとんどこの部屋で生活しているので、日常に必要なものはほとんど揃ってしまった――、リビングからダイニングキッチンへ移動しても、芹沢はいない。
 洗面所の方にも、気配はない。
 本当は、わざわざ確認するまでもなかった。
 室内の空気は、冷え切っていたから。
 もうずっと、誰もいなかったように。
 冷蔵庫から牛乳の紙パックを取り出して、洗いカゴに置きっぱなしになっていた自分のグラスに注ぐ。
 「…大学は、無理かな」
 書き置きらしいものもない。携帯にもメッセージは入っていないようだ。
 どこへ行ったかは分からないが、芹沢がいない間に帰ると機嫌が悪くなるので、もう少し待とうと思う。
 大学は、諦める。
 ゼミはないからまあいい、と、自らに言い聞かせた。
 言い訳だと、心の片隅で囁く者がいる。
 けれど、待ちたいと思ってしまうのだから、仕方がない。
 束縛されることも、特別な者にされるそれは喜びなのだと教えてくれたのは、芹沢だ。
 そうでなければ、毎日のお迎えに、のこのこついてきたりはしない。



 まだ、言ったことはないけれど。
 素直に白状してしまうのは、もったいないような気がするから。



 冷たい牛乳を飲み干して、グラスを軽く洗い、洗いカゴに戻す。
 テーブルの上に置いた携帯はうんともすんとも言わない。
 恐らく、練習に行ったのだと思う。
 最近、自分のことで手一杯で、芹沢のスケジュールまで把握しきれていない。
 悪いことをしているとは思うが、今回ばかりは諦めてもらうしかない。
 人生の瀬戸際なのだ。
 今までいくつも分岐点はあったけれど、自分のことだけ考えていればよかった。
 でも、今は違う。

 ――もう、一人ではないのだ。

 一人なら、失敗したらやり直せばいいだけのこと。
 かつて、一つの失敗も我慢ならなかった時期もあったけれど、今は大丈夫。
 今はやり直す力も、勇気もある。
 今は二人だから。
 だからこそ、出来ないこともあるが、出来ることも、増えた。
 その事実は、斉木の心を暖める。
 想う相手がいると言うことは、それだけで幸せなのだ、きっと。
 今だって、気をつけていないと頬が緩む。



 でも。
 絶対絶対。
 そんなことは、男の沽券にかけて口が裂けても言わない。





 テレビをつけても、平日の昼間なんて、ワイドショーぐらいしかやっていない。
 さすがに見る気も起きなくて、思わず部屋の掃除などして時間を潰す。
 もっとも、芹沢はあれで案外几帳面なタチで、常にきれいに片づけているから、それほどの暇潰しにはならないのだが。

 掃除も終わってすることは本当になくなった。
 だが、日が傾いても、テーブルの上の携帯はうんともすんとも言わないし、更に帰ってくる気配は欠片もない。
「どうしたんだ…?」
 ダイニングキッチンの椅子に背もたれを抱えて座って、沈黙を守る携帯を見つめる。
 このままでは、部活も休まなくてはならない。
 もっとも、正直なところ、激しい運動が出来る体調ではないが。
 昨夜の芹沢はいつになく手荒くて、本来男を受け入れるようには出来ていない体は本当にガタガタだ。今も、不用意に動くと、情けなくも呻き声をあげるハメになる。
 それでも、現場にいればいたなりに、キャプテンとして出来ることも、やらなければならないこともある。
 けれど、斉木はこのまま帰る気にはなれなかった。
 ため息を一つついて、携帯を手にする。
 かけた先はチームの副主将だ。
 今日の練習を休むことを伝え、いくつかの事務的連絡をやり取りして通話を終える。
 そのまま、斉木は携帯を操作して、芹沢の番号を呼び出す。
 ――おかしい。
 自分の居場所を知らせる為と言うよりは、斉木の行動を把握する為に連絡を欠かさない奴だ。
 なのに、ここまで電話の一本も寄越さないなんて、普通じゃない。
 斉木は胸騒ぎを覚えた。
 嫌な予感がして、逆に今まで二の足を踏んでいたのだが、思い切って通話ボタンを押す。
 しかし。
 何度かの呼び出しの後、コールセンターへ回された。
 冷たい機械の声に、そこはかとなく寒気を覚える。
 まだ、日は落ちていないのに。
「俺だ。……また、連絡する」
 一言だけ残して、通話を切る。
 連絡してくれと言えないのは、隠し事をしているからだ。
 言えない。まだ。
 それは斉木としても不本意な事態だったのだが。
「はあ…」
 深く息を吐いて、斉木はテーブルになつく。
 冷たい感触は気持ちがよかったのだが、斉木は苦痛を感じているように眉を寄せ、目を閉じた。





 結局、芹沢からの連絡はなかった。
 練習の後、チームメイトと飲みにでも行ってしまったのだろうか。
 ぐるぐると想像ばかりが脳裏を巡る。
 確認しようにも、当の芹沢は連絡がつかない。
 かと言って、芹沢のチームメイトで電話が出来るほど親しい人間はさすがにいない。
 J1だけで16チームもあると、さすがに斉木の広い顔にも限界がある。

 いや。

 いるにはいる。
 親しい、なんて生易しい言葉では済まない人間が、一人。

 ――さすがに、芹沢のことで神谷に電話する勇気など、斉木にはない。
 どの面下げて、と、この時ばかりは理性と感情が仲良く合唱している。

 「仕方ない…」
 斉木は新聞に挟まれていた裏が白い広告を引っ張り出し、アパートに戻ることを書き置く。
 着いたら連絡をすることも。
 このままだと、電車がなくなる。
 明日も休む訳にはいかない。
 …多分。

 斉木は持ち帰られなくてはいけないものをドラムバッグに詰め込んで、肩にかける。
「じゃあ、また」
 誰もいない室内に声をかけてから、斉木は部屋を出た。
 そうしたら、芹沢にも伝わりそうな気がするから。



 だが、しかし。
 その日から、斉木は芹沢に連絡がつかなくなったのである。





「どうして僕は ここへ迷い込んでる
喉が乾いている 何かが騒いでいる」






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