芹沢は、久しぶりにその店のドアを潜った。
カウンターとボックス席が2つだけの、こじんまりした店だ。
見回すまでもなく、芹沢の待ち人はカウンターの一番奥の席で小さく手を挙げていた。
芹沢が席につくタイミングを見計らったように、ドリンクのメニューが差し出される。
一年前までは、よく通っていた店だ。
マスターは芹沢に限らず、常連客の癖をよく覚えていた。
一年もご無沙汰していたのに、ありがたいことにまだ忘れられていなかったらしい。
「ジントニック」
芹沢がメニューも見ずにオーダーすると、隣の女が笑った。
「変わらないのね。一年も経つのに」
「一年ぐらいで変わるかよ」
「あら、別人になったんだと思ってたけど」
そう言って、また笑う。
芹沢は口元を歪めただけに止めた。
何を言っても、目の前の女は切り返してくることは分かっている。元々がそういう女なのだ。
とりたてて美人と言うわけではないが、全身の印象が垢抜けている。
と言うのも、彼女の職業はスタイリストなのだ。芹沢は雑誌の撮影で知り合った。
性格はとにかくサバサバしている。
約一年前、芹沢が身辺整理をしていた時に、別れてくれと言った芹沢へ驚いた顔をして、
『私達、付き合ってたの?』
と、言い放ってくれた女だ。
現実に、彼女には芹沢のような曰く『ボーイフレンド』がかなりいるらしく、お互い様と言うところで、今もお友達付き合いは続いている。
だが、何回かあった誘いはことごとく断ってきた。
この店も、かつてはとっかえひっかえいろんな女を連れて通っていたのである。
店を切り盛りするのはマスター一人で、客も一見では入りにくく、更にはみんな同じような身の上だから、口は硬く、遊びの女を連れてくるにはもってこいだったのだ。
だが、斉木と付き合い始めてからは、一度も足を踏み入れていなかった。
まして斉木を連れてくるなんてとんでもなかった。
誰か一人にでも、斉木が遊び相手なんて思われるのは、我慢ならなかったから。
何となくジントニックを一気に呷る。
「ホント、どうしたの。どうせ断られると思ってかけたのに」
彼女は頬杖をついて芹沢を見ながら、ニヤニヤ笑っている。
「本命ちゃんに振られちゃった?」
とんでもないことを、言われた。
先に飲んでしまっていて、よかったと思う。
飲んでいる最中だったら、噴き出しかねなかった。
芹沢は2杯目を頼んでから、彼女を見る。
「バカ、言うな。俺が振られる訳ないだろ。振られるぐらいなら振る」
女の中には、たまにこうやたら勘の鋭いのがいる。
それを知ってて誘いに乗ったのは自分なのだが。
わざと皮肉げな表情を作って見せる。
だがそれも、お見通しのようだ。
「うっそ」
一言の元に切って捨ててくれる。
「やせ我慢、バレバレよぅ」
と、バンバン背中を叩かれた。
「気安く叩くんじゃねーよ」
「あら、ごめんなさい」
軽く手を払うと、全く悪いとは思ってなさそうな表情で言う。
「で、ホントのとこどうなの?」
「いつもの気まぐれさ」
「1年前なら信じるけどね」
いちいち痛いところを突いてくる。
思わず芹沢は酒に逃げた。
「怒らせちゃったの?」
「だから…」
「芹沢君、女扱い下手だからね」
「そんなこと言うのはあんただけだ」
本当に生まれて初めて聞いたセリフだ。
はっきり言って、その気になれば日替わりで新しい女を連れて歩ける芹沢へそんなことを言えば、芹沢自身よりも周囲の者にバカにされるだろう。
ただ、今となっては芹沢自身に、思い当たるフシはある。
「特に本命ちゃんなんか、どうしていいのかわかんないんでしょ。遊びばっかだったから」
「オバサンだから、暴言は許してやる」
「年の功と言ってちょうだい」
それこそ芹沢の暴言に、女は余裕の笑みを浮かべる。
全く、ああ言えばこう言って、打てば響く反応が楽しいのだから、しょうがない。
だから、誘いに迷わず乗ってしまったのだ。
自分ではまだそこまでだとは思っていなかったが、案外ひどい精神状態だったのかもしれない。
そんな芹沢の状態を把握しているのかいないのか、彼女は言う。
「ねえねえ、連れてきなさいよ、本命ちゃん」
「それ、前にも言ってたな」
「だって、見たいもの。芹沢君が本気になるような相手って、興味あるわ」
目をキラキラさせて訴えられる。
「見せてくれたら、私が上手くとりなしてあげるから。いいじゃない、いくら私だって、女の子には手を出さないから」
だが、さすがにそんなことは出来るはずがない。
彼女なら、斉木を恋人だと紹介しても、少し驚くぐらいで済むかもしれない。
が、斉木の方が憤死しかねない。
「俺の恋人だって、言われるのがやなんだと」
そう口にした途端、芹沢は胸が刺されたように痛んだ。
「芹沢君のファンに刺されるとか、思ってるんじゃない?」
偶然にも同じ言葉を使われて、本当に刺されたのかと思った。
今の芹沢には、やましいとこだらけだ。
「…そうかもしれない」
「それは芹沢君のケアが足りないわね。自業自得ってヤツ?」
言葉が返せなかった。
――知られるのは嫌だ。
――知られる訳にはいかない。
いつも言われていることなのに、自分で口にしてみて、こんなに効くとは思わなかった。
男同士で恋愛していることを知られるのが嫌なのだと、ずっと思い込んできたが、もしかしたら本当は、斉木は自分と付き合っていること自体が嫌だったのだろうか。
ありていに言ってしまえば、芹沢が嫌いなのでは。
そんなことは考えても見なかった。
目をそらしていた、と言った方が正しいか。
可能性にすら、視線を閉ざしてきた。
その理由は分かる。
可能性に気がついてしまった今、グラスを持つ手さえ、小刻みに震えている。
斉木は、他人に知られることを極度に嫌がるが、人目のないところでなら芹沢の手を拒んだことはなかったから、芹沢が嫌だなんて可能性は考えてもみなかった。
飽きられてしまうのならまだしも。
最初から、全然自分のことなんて、好きじゃなくて、本当は嫌いだったとしたら。
体だけの関係なんて、いくらでもある。
1年前までの自分が、まさにそうだった。
後腐れがないように、人には知られたくない、なんて、いつも思っていた。
斉木がそう思わないなどと言う、保証はどこにもない。
「どうしたの?」
目の前で、手が横に振られている。
「別に…」
「嘘はもうちょっと上手につかないとね」
芹沢のグラスはいつのまにか空になっていた。
「嘘をついたって全然いいけど、でも最後まできれいに騙さなきゃ。途中でばれる嘘なんて、最低よ」
彼女は次のジントニックを頼んでから、芹沢に向き直る。
「やっぱりね、芹沢君が今まで足蹴にしてきた女の怨念だと思うのよね」
「……人がダメージ深い時に、優しく慰めてやろうって気はないのか」
「あら。慰めて欲しかったの?」
今日初めて、彼女は本気で驚いた表情を作った。
思わず、芹沢はカウンターになついた。
ツンツンと体をつつかれて、頭を上げようと思うのだが、体が動かない。
「ホントに、効いてるみたいね」
「みたい、だな」
芹沢は、小さくうなずいた。
こんなにダメージが深かったとは。
どうやら本当に自惚れていたらしい。
「……じゃあ、慰めてあげよっか」
横になった視界の中で、彼女がにっこりと、実に魅力的な表情で、微笑んでいた。
「……そうだな。慰めてもらおうか」
憎まれ口を叩きながら、その手に、縋りついてしまう。
情けないとは、思うけれど。
「えっらそうに。まあ、いつものことだけど」
彼女は、テーブルになついたままの芹沢の髪をなでた。
その手の優しさを、芹沢は心地よく感じる。
けれど。
この手が斉木だったらよかったのに、と、思う気持ちは止められなかった。
「白いシーツの中で 区切られたドアの中で
悲鳴が聞こえている 話したがっている」
快楽をにじませた高い声。
甘い香りが麻薬のように鼻腔を擽る。
汗で滑る体を抱き締める。
柔らかく、華奢な骨格。
首なんて、片手で握り潰せそうだ。
握り潰してしまおうかと、刹那に思う。
何もかもが、違う体。
なのに、どうしてあの人のことを思い出すんだろう。
自分と同じ、逞しい体。
それでも愛している。
自分の手に一つ一つ反応するこの体が、あの人だったらどんなにいいか。
「直茂…っ」
自分の名を呼ぶこの声が、低くよく通るあの人の声だったら。
――ああ、そうだ。
俺はまだ、あの人に名前を呼んでもらえてない――。
「…っ」
一度頂点に達して、沈み行く意識の中で。
芹沢はその名を呼んだ。
求めて止まぬ、たった一つの、名前を。
「夜の太陽が 輝いている間に
一体僕はどこまで行けるのだろう」
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