一晩。
 それは物事を決断するには長いのだろうか。短いのだろうか。
 けれど、どれだけ考えたとしても、きっと結論は変わらないから、構わない。
 いうなれば、決死の覚悟だった。
 芹沢がどんな決断をしようと、それを芹沢自身の口から聞かせてもらえたら、全て受け入れようと、斉木は決めていた。





OUR LOVE






 どうやって部屋に戻って来たのか、記憶がない。
 だが目を開けたら、斉木はちゃんと自分の部屋で寝ていた。
 寝起きの目をこすりつつ、玄関へ行くと、鍵も閉まっていた。
 喉がカラカラだった。
 玄関脇にある冷蔵庫からミネラルウォーターの2リットルのペットボトルを取り出し、そのまま飲む。
 渇きが癒されて、ようやく頭がクリアになってくる。
 昨夜の出来事を、思い出す。





 チャイムを鳴らす前には、深呼吸をした。
 不自然な表情にならないように。
 斉木の中で、緊張と暗い予感が渦巻いていた。
 一瞬でも気を抜けば、顔はあっという間に引きつってしまうだろう。

 中から現れた芹沢の具合は、思ったよりははるかによさそうだった。
 芹沢にしては珍しく寝起きの顔だったけれど、顔色も悪くないし、少しびっこを引くぐらいで、ひどく痛むような様子もない。
 本当に軽い捻挫で済んだらしいことに、安堵のため息が出る。
 自然に、笑えた。
 芹沢も機嫌がよさそうだ。

 これなら、言える。

 安心すると、腹の虫が空腹を訴えた。
 朝、起きてから、緊張のあまり何も食べられなかったのだ。
 こんなことは、大事な試合の前でさえないと言うのに。
 心の中だけで苦笑する。
 芹沢も食べると言うから、合わせて簡単な食事を作る。
 食べながら、さりげない話の糸口を探したが、切り出す間もなく食べ終えてしまった。
 次のチャンスを待とうと、食器を洗い始めると。
 何故か芹沢がわざわざゴミを捨てに現れ、そのまま斉木の背後に立っていた。

 芹沢は何も言わない。
 視線が、背中に突き刺さる。


 ――知っている?


 斉木が、どんな覚悟をして、今、ここにいるのか。
 芹沢の視線は澄んでいた。
 振り向かなくても分かる。
 斜に構えているが、案外にその性格は素直であることを、この1年で知った。
 愛しい、と、思う。
 失いたくない、と、思う。
 けれど、確かめなければならないのだ。
 そのために、鈍る足を叱咤しながら、この芹沢の部屋に来た。
 そして芹沢の視線は、斉木を促しているように思えた。



 そして。
 斉木は小さく息をして、言ったのだ。
『大事な体だろう? 移籍…の話があるそうじゃないか。しかも海外』
 少し、声が震えていた。
 ばれないように、ことさらに洗い終えた皿を拭く。
 そして、返って来た言葉は。
『だから何だって言うんです』
 ああ、と、思った。
 芹沢の切り口上に。
 行く気なのだ、芹沢は。
 仕方のないこと。
 一つのチャンスを逃せば、次はいつ巡ってくるか分からないのだ。
 だから斉木は尋ねた。
 それが、自らへのとどめになると知りつつ。
『行く、のか?』
『行く』
 芹沢の答えを聞いた瞬間、情けなくも斉木の肩が揺れた。
 ダメだ――。
『…って言ったら、あんたはどうするんです』
 芹沢の足枷になっては、いけない――。
 分かっていても、目頭が熱くなった。
 斉木は天を仰いだ。
 間違っても、涙など零れないように。
『俺にはお前をどうこうする権利はないよ。お前がやりたいようにすればいい。お前の選ぶ道だ』
 一晩、考えて。準備していた言葉。
 あまり声も震えなかった。上出来だった。
 心は、激しく震えていたから。



 失う。
 失ってしまう。
 こんなにも深い喪失感を味わうのは、斉木のあまり長くはない人生だが、確かに初めてのことだった。



 本当は、諦めきれるはずなんかなかった。
 ただ仕方がないと、思うだけだ。
 南米にしろヨーロッパにしろ。
 遠い。遠すぎる。
 こんな風に、気軽に訪える距離ではない。
 踏ん切りをつけなければならなかった。
 そのために、ここにいた。



 それなのに。



 芹沢に相対させられて、罵られた言葉はもうよく覚えていない。
 芹沢の言っていることがよく分からなかった。受け止めるべき自分の頭の中がグチャグチャだったせいかもしれない。
 胸倉をつかまれて、喚かれて。

 それから、それから。



 キス、をされた。



 その意味が分からない。

 別れなければならないのなら。
 あんな、思いを残すようなことなど、して欲しくはなかった。

 何、だったのたろう、あれは。

 別れのキス、なんて、気取った訳ではあるまいし。
 そんな、キレイごとの仲ではなかったはずだ。
 自分達は。



 ――俺は、芹沢にとって、どんな存在だったのだろう?



 それでも、決めていたのだ。
 例え、道が分かれることになっても。
 決して、芹沢の行く手を妨げるようなことはすまいと。
 仕方がないことだ。
 芹沢と自分は、違う。

 違いすぎる。

 自分はそれを知っているから。
 だから、決して。
 自分は、男だから。
 もしも女だったら、全てを捨てて芹沢の情に縋ることも。
 選べたかもしれない。

 でも、男なのだ。
 変えようのない、事実。
 何もかもを捨てることは出来ない。
 捨ててしまったら、それこそ芹沢の隣に立つ権利までもを失ってしまう。
 相反する、真実。

 芹沢は、自らの翼で、どこまでも飛んで行ける。
 いや、飛んで行かねばならない生き物なのだ。
 飛べなくなってしまったら、死んでしまう。
 地上を駆け回るのが精一杯の自分がしがみついてしまったら、芹沢と言う希有な存在を殺してしまう――。

 そんなことは、出来ない。

 だからせめて、芹沢の行く道をふさぐことだけはしたくなかった。
 辛いけれど。
 何でもないフリが出来るようになるまで、相当の時間がかかることも分かっているけど。

 愛しているから。
 愛してしまったから。

 この世で一番愛しいものを手放すことは、想像しただけで身を切り刻まれるような痛みを感じるけれど。
 それでも、きっと。
 耐えられる。

 誰よりも愛しているから。















 そして、その通りになった。
 分かっていたことだった。
 知っていたと言ってもいい。
 けれど。
 全身を縛る痛みがこれほどひどいとは。
 斉木自身、初めて知った――。





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