こんなに泣いたのは、いつ以来だろう。
 泣いたのだ、芹沢は。
 ぼろぼろと。
 声を上げて。

 挙げ句、泣き疲れて眠ってしまったと言う、まさに一生の不覚。
 とてもじゃないが、クールビューティ・芹沢直茂様としては、大きな声では言えない。



 さわやかな朝日の中で、タオルケットにくるまったまま、ベッドの上に長身を起こす。
「…最悪」
 呟いた声は掠れていた。
 喉はがらがらだし、瞼も腫れぼったい。
 鏡を見なくても、このまま表を歩ける状態ではないことだけは分かる。
 けれど、何をする気も起きない。
 おもむろに頭をかいて、小さくあくびをした。
 その、瞬間。

 自分のものではない、匂い。

 ――ああ、斉木さんの……。
 くるまったタオルケットからは、斉木の残り香。
 いつの間に、染み付いてしまったのだろう。
 そばにいる時は、気がつきもしなかった。
 気にかける必要もなかったから。
 手を伸ばせば、必ずつかまえられる所にいた。
 抱き締めて、その存在を確かめられた。



 だが、もう二度と。
 この腕で抱き締めることは出来ない。
 それは許されない。
『やめろ!』
 キスをして、突き放されたのは初めてだった。
 斉木がその気になれば、今までだっていくらでも拒絶できたのだ。
 そして、拒絶された。
 最後通牒だと思った。
 気がついたら、言葉が転げ出ていた。
『出てけよ!』
 終わりは、自分で決めるしかなかった。
 斉木に告げられたら、自分はそれを受け入れられないから。



 斉木の残り香のする、タオルケットを握り締める。



 斉木を好きだと言う気持ちは、どんどん変わっていった。
 『好き』と言う言葉では、全然足りなくなった。
「愛してる」
 もっともっと言い聞かせていたら、斉木は自分を好きになっていてくれただろうか。
 自分だけを見ていてくれただろうか。
 今となっては、確かめる術も、ない。

 芹沢は、タオルケットを投げ出して、洗面所に駆け込んだ。
 服を脱ぐのももどかしく、洗面台に頭を突っ込んで、冷水を浴びた。
 冷たい液体と、熱い液体が、混ざり合い、排水溝に吸い込まれて行くのを見る。
 目が覚めた。
 目が覚めたから、2本並んだ歯ブラシや、2種類のムースだとか、そこここに、斉木がここにいた証を次から次へと見つけてしまう。
「いた…」
 髪から水滴を滴らせたまま、芹沢は胸を押さえてその場に座り込んだ。
 膝を抱える。
 きつく閉じた瞼の裏に、黒々とした空洞が広がった。



 芹沢は、ようやく自分の心と向き合った。
 斉木を失った今、心の中は空っぽだった。





 今更気がついても、手遅れだったが。





 とりあえず冷蔵庫の中にあったものを適当に腹に詰め込み、芹沢は、大きなゴミ袋を持ち出した。
 その中に、歯ブラシやムースやマグカップなどの、斉木が愛用していた品を放り込んだ。
 斉木が関わっていたもの全てをまとめきらない内に、ゴミ袋は一杯になってしまった。
 どれだけ斉木が生活の中に入り込んでいたかを、改めて思い知る。
 そう仕向けたのは、自分だったが。
 機械的に次のゴミ袋を広げて、タンスの中にしまってあった、斉木の着替えを詰めた。
 袋の口を閉じ、ガムテープまで貼る。
 タオルケットは、洗濯機に放り込んだ。
 できるだけ、斉木の痕跡は消さなければならなかった。
 斉木の使っていたものを見るたびに、きっとどんな表情でどんな話をしていたか思い出してしまう。
 匂いなんて、最悪だ。
 もう、匂いを感じられるほど、近寄ることなど出来ないのだから。

 モノトーンでまとめた部屋には、どう頑張ってもそぐわぬゴミ袋が転がった。
 だが、それを捨てられないだろうことも、芹沢は知っている。
 そして、ゴミ袋さえ見るたびに、想いを募らせるのだ。



 心の空洞を埋めているのは、未練と言う化け物だった。










 やることがなくなって、結局、不貞寝してしまう。
 ついこの間までは、もっと時間が欲しいと思っていたのに、皮肉なものだと思う。
 ベランダには、洗ったタオルケットが翻っている。
 視線をはずそうと、ごろり寝返りを打った瞬間、携帯が鳴った。
 びくり、と、肩が跳ねた。
 慌てて着信を確認したが、斉木ではなかった。
 ――当たり前のことだ。
 だが、心のどこかで期待していた自分を知り、頭に血が昇った。
 携帯を放り出す。
 しばらく鳴り続けた後に、一度切れ、もう一度高らかに鳴り始めた。
「もしもし」
 仕方なく、いやいや出た芹沢の声は暗雲をはらんでいる。
 だが、そんなものは吹き飛ばす怒声が、通話口から飛び出してきた。
『馬鹿者! 今、どこにいる!!』
 コーチの声だった。芹沢は、寝転がったままあからさまにめんどくさそうな表情を作る。
「家でおとなしくしてますよ。休めって言ったじゃないですか」
『誰が二日も休んでいいと言った! 練習は出来なくても、ミーティングぐらい出て来んかっ!』
「はいはい、分かりましたよ、行けばいいんでしょ、行けば」
『全くお前と言う奴はっ。最近はまじめになったと思っていたのに…』
 芹沢は投げやりに答えて、まだが向こうでがなりたてている通話を切った。
 のろのろと体を起こす。
 ゆっくりと身支度を整えながら、久しぶりに怒鳴られたような気がすると考える。
「…あの人のせいか」
 低く呟いた。
 斉木は、斉木の為に芹沢がミーティングであろうともすっぽかしたら、指一本触らせてくれなかったから。
 サッカーに関しては、本当に鬼みたいだと思う。
 芹沢にしてみれば、練習もあるのならともかく、くだらないミーティングだけなら斉木と一緒にいられる時間を割きたくなどないのに、斉木は聞く耳を持たなかった。
 挙句、『お前を扱わなくちゃいけない監督に同情する』とまで言われたことすらある。
 そんなところから、もう自分達はずれていたのかもしれない。
 芹沢は、唇を噛んだ。
 思考を止める。
 斉木と噛み合わない自分など、考えたくもなかった。





 芹沢が遅れに遅れてグラウンドに現れると、あっという間に行く手をマスコミにふさがれた。
 サングラスをしていなければ眩しいほどのフラッシュをたかれて、渋面になる。
 だが、そんな芹沢の表情に頓着することなく、無遠慮にマイクを突きつけられ、甲高い声まで投げつけられる。
「芹沢選手! 怪我の具合はいかがなんでしょうか!?」
「たいしたことはないです」
「海外移籍の噂については!?」
「広報に聞いてください」
 芹沢は昂然と言い放って、歩みを進める。
 普通ならいい気になるなと言われるところだろうが、逆にそういう自分を求められていることを知っているから、完璧に演じて見せる。
 それでどうこう言われたところで、芹沢自身は痛くも痒くもない。
 自分の素を、見せることなど、もう2度とない。
 誰にも、決して。
 芹沢はマスコミの間を、フラッシュを浴びながら進む。
 後ろは、振り返らない。



 結局、ミーティングはさほどのこともなかった。
 元々、診断は病院について来たトレーナーから監督やコーチの耳に入っているはずだ。
 なのに、全く同じことをわざわざ芹沢を呼びつけて質すこともあるまいに、と思う。本人の口から聞くにしても、電話でも済むはずのことだ。
 無意味なことは嫌いな芹沢である。
 特に最悪な機嫌の今は。
 芹沢自身の報告の後に、芹沢に2試合を欠場させると監督が告げた。その後は怪我の様子見だ。回復していれば来週にも出場することになる。
 その間の戦術の確認、と言っても、神谷が中心であることには変わりがない。
 芹沢の決定力が落ちるだけだ。
 やはり出てくることはなかったと思う。
 怪我さえ回復すれば、またスタメンを取れる。芹沢に危機感を抱かせるような選手は、このチームでさえまだ一人もいない。
 唯一、芹沢が一目置く神谷は、そもそも並び立つべき役割だ。潰し合う存在ではない。
 ――つまらない。
 ポツリと、心の中に湧き上がった言葉。
 実際、神谷がいなければ、とっくに辞めていると思う。
 もし海外に出たら。
 もっと面白いのだろうか。
 神谷は淡々と海外へ渡り、あっさりと日本に戻って来た。
 その心境を神谷は語らない。芹沢も聞こうとはしなかった。
 聞く必要はないと考えていたから。
 海外など、考えていなかった。
 だが、少なくとも今より刺激があるのなら。
 海外も悪くないかもしれないと、表情に乏しい神谷の横顔を見ながら思う。



 ミーティング後、神谷に声をかける前に、芹沢自身が他の先輩選手に呼び止められた。
「何ですか」
 視界の隅から遠ざかる神谷を意識しながら、芹沢は振り向いた。
「お前、今週の日曜日、暇?」
「そりゃあ、暇ですけど」
 この足ですし、と、肩を竦めると、
「あのさー、その日、合コンやるんだ」
 と、先輩はいきなり手を合わせた。
「頼む、出てくれ」
「何で、俺が」
「いや、メンバー集め頼んだ女がお前のファンだとかでさ、どうしても会いたいんだと。会わせてくれなかったら、合コンの話はなしって言われてさ、つい」
「人を勝手に売り飛ばさないで下さいよ」
 無責任な言葉に、芹沢は整った眉をひそめた。
「そこを何とか。モデル限定だから、粒揃いのはずなんだ」
 とかく、世間の常識などには捕らわれない芹沢である。先輩に頭下げられようが何しようが、嫌なら断るし、事実、この1年、この手の話は全て断ってきた。
 相手も、半ば断られることを覚悟しているようにも見えた。
 だが、芹沢はうなずいた。
「いいっすよ」
「マジ?」
「その代わり、俺は金出さないっすよ」
「ああ、いい、いい。マジ、助かる」
「じゃ、日曜日に」
 言って、芹沢はさっさとその場を離れた。
 今更、モデル限定と言う言葉にひかれるところもなかった。
 ただ、一人になりたくなかった。

 一人になれば、考えずにはいられないから。
 たった一人のことを。





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