しかし、やはり斉木に限界が訪れる。
後半30分、得点は1-0のままである。
ボールが右サイドへ流れたために、空いた中央を埋めようと走る斉木の左膝に激痛が走った。
思わずそのまま膝をつきそうになるが、それはかろうじて持ちこたえる。
斉木は足を引きずりながらベンチを振り返り、両腕で×印を作った。
自ら選手交代を求めたのだ。
まだ、後半は15分も残っている。ロスタイムも入れれば20分近い。
そして点差は最少の1点しかない。
20分もあれば充分に逆転が可能だ。
攻めるにせよ、守りを固めるにせよ、運動量が落ちる自分は足手まといにしかならないと斉木は判断したのだ。
そこに迷いはない。
チームの勝利の前には自分のエゴなど差し挟む余地はない。
斉木の自己申告を受けて、監督は既に準備していたサブの選手を呼んでいる。
が。
「駄目だ、ピッチから出るな! あんたは最後までピッチにいろ!」
斉木が弾かれたように振り向くと、芹沢が鬼の形相で怒鳴っていた。
「今ここで外になんか出たら、絶対許さないからな!」
そう言い捨てて、芹沢は再びボールへと突進して行く。
ベンチは戸惑っている。
監督はことの行方を見守っているように、テクニカルエリアまで来たにも関わらず、コールを止めた。
当の斉木はあまりと言えばあまりの言い草に、呆れ返って口をあんぐりと開けかけたが、そんなことをしている場合ではないとすぐに我に返って怒鳴った。
「何、寝言言ってる! 走れないんだから仕方ないだろ!」
しかし、芹沢は振り向きもせずに怒鳴り返して来る。
「いいからあんたはそこで立ってろ!」
ここまでチームを引き上げたのは斉木なのだ。
一番喜ぶべき優勝が決まったその瞬間に、その喜びを分かち合うべき斉木がピッチにいないということが、芹沢には許せないのだ。
「いいな! 俺達で点を取るぞ!」
残り時間を10人で戦うと宣言したも同然の芹沢の檄に、斉木以外の全員が応えた。
芹沢の思いが他のチームメイトにも通じたのだろう。
同時に、それだけ斉木が慕われている証拠でもある。
監督は選手交代を伝えないまま、ベンチに戻った。
その後ろで、トレーナーが肩を竦めている。
「あんの、馬鹿がっ」
斉木は諸悪の根源である芹沢をにらみつけた。
「立ってろって、棒立ちしてる訳にはいかないだろうが!」
そして、自分の前に転がって来たこぼれ玉を、ワンタッチで中央の芹沢へ送り返す。
その衝撃に顔をしかめるが、痛みを堪えつつも正確に足元に送り込まれたパスを受けた芹沢の言葉に更にしかめることになる。
「だからつっ立ってりゃいいんだよ! 余計なことすんな!」
「んな、ピッチにいてそんなこと出来るか!」
斉木は芹沢へ向かって声を張り上げた
だが、もう芹沢は聞いていない。
ゴール前に切れ込んだ芹沢は、チャンスを待ってボールをキープし続けている。
「ったく、あいつは我が侭なんだから…」
とは言え、芹沢の主張を認めたからこそ監督もサブの選手を引っ込めたのだろう。
芹沢のシュートはGKの好セーブに阻まれ、逆襲のパントは、斉木の方へ飛んで来る。
斉木が動けないことを見越されたプレーだ。
しかし。
「毒喰らわば皿までだ。最後までやってやるよ!」
斉木も開き直った。
「うわっ」
ボールを受け取ろうとする相手チームの選手に、ファウルを取られないようにチャージをかけてバランスを崩させる。
相手が体勢を立て直す前に、斉木はボールを奪い、大きくサイドチェンジした。
動きが鈍ったからと言ってピッチに立っている以上、簡単に抜かれてはたまらない。
「だから立ってろって!」
「うるさい、お前は黙って点を取ってろ!」
怒鳴り合いながら、ゴールを目指す。
その後、両者一歩も譲らないまま、長いホイッスルが鳴り響いた。
その瞬間、割れんばかりの歓声が上がり、青空に応援大旗が幾本も翻る。
観客席から投げ込まれた紙吹雪が斉木の視界を白く埋め尽くした。
1-0で試合終了。
J2での優勝と、3年ぶりのJ1復帰が決まった。
勝ったのだと認識した途端、斉木の左膝が折れ、その場にうずくまる。
限界を超えた膝はがくがくと震え、もはや力が入らなかった。
その心を支配するのは、ただただ安堵の念である。
この膝の状態では、少なくとも次節は休養せざるを得ない。
この試合で決められなかったら大変なことになっていたと考える斉木には、優勝の喜びを噛み締める余裕はない。
そんな斉木の上に、影が覆い被さった。
「こらっ、重いだろうがっ」
背中から首にしがみつかれて斉木は思わず振り払おうとしたが、芹沢は斉木の首筋に顔を埋めて手を離そうとしない。
そして斉木の耳に、消え入りそうな声が届いた。
「ありがとうございます…」
背中には、熱いものが落ちてきたのを感じる。
斉木は、首に回された芹沢の手に、自分の手を重ねた。
「来季はJ1だ」
「…はい」
「正念場はこれからだぞ」
「はい」
「来季も一緒に戦おう」
「はいっ」
芹沢は顔を上げないままだが、しっかりと答える。
斉木の顔に穏やかな笑みが広がる。
その刹那。
チームメイト達が雄叫びを上げて芹沢の上に飛び乗って来たのだ。
結果、斉木は一番下で潰されることになる。
「こらっ、お前ら! 俺は怪我人なんだぞ!」
潰された斉木の抗議など誰も聞いてはいない。
だが、
「お前ら…邪魔しやがって…!」
地獄の底から響くような声で言って、芹沢が背中の上に乗っかっていたチームメイト達を振り落とした。
その秀でた額には、くっきりと青筋が浮いている。
いいところを邪魔された芹沢の全身から発散される殺気が本物だと気がついたのだろうか、チームメイト達は蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。
「この、待て!」
芹沢は一試合走り抜いても未だ衰えぬ見事な俊足で追いかけていく。
一人取り残されて斉木は、そろそろと身を起こして体育座りをし、声を立てて笑った。
長く苦しい戦いは、一先ず終わりを告げたのだ――。
選手、スタッフ全員が一度ロッカールームへ戻り、用意されていた優勝記念シャツに着替えてフィールドに戻って来た時には、既に優勝セレモニーの準備が整っていた。
チェアマンから優勝カップを受け取るのは、主将の斉木だ。
斉木は、優勝カップを頭上に差し上げた。
誰も帰ろうとしないサポーター席から万雷の拍手が鳴り響く。
続いて優勝賞金の目録が渡され、一通りのインタビューが終わった後に、ウィニングランだ。
ウィニングランの時、斉木はカップをチームメイトに渡してしまい、芹沢の肩を借りて歩いた。
芹沢は、特に手を貸そうとはしなかった。
本音を言えばしっかり支えてやりたいところだが、斉木は、本当に弱っているからこそ、弱った姿をサポーターの前では見せたくはないだろうと思い、自重する。
事実、相当痛むだろうに、斉木はまるで何事でもないように笑ってさえいる。
だから芹沢も、何食わぬ顔でサポーターの歓喜に答え、悠然と歩く。
ただ、左足を引きずる斉木にとって早くなりすぎないよう、細心の注意を払いながら。
ウィニングランも終わると、お決まりのシャンパンかけとなった。
さすがに皆がかけることをためらった芹沢めがけてシャンパンをかけたのは、悪戯小僧の顔をした斉木だった。
背後からシャンパンをかけられて自慢の長髪からシャンパンを滴らした芹沢は、笑顔で斉木の頭の上で持っていたビンをひっくり返す。
どぼどぼと斉木の頭にシャンパンをかけながら、芹沢は言った。
「まだまだ引退なんかさせませんからね、覚悟しておいて下さいよ」
丸々一本分かけられた斉木は、近くの選手が持っていた新しいビンを取り上げ、念入りに振ってから芹沢めがけて栓を抜く。
「誰が、引退なんかするか。勝手にロートルの仲間に入れんな」
お互いシャンパンでべとべとになりながら軽口を叩き合う二人に、声をかける者がいた。
「斉木君」
振り返ると、やはり記念Tシャツに着替えて頭からシャンパンをかけられた監督が、まるで何事も起こっていないかのようないつもの通りの表情で言う。
「次節からはまたベンチから外しますからね」
途端に、笑顔が消える。
分かっていたことではあるが、斉木はうなだれた。
走れと言われたところでしばらく走れないことは自分が一番分かっているが、それでもサッカーを取り上げられることはとても辛いことだ。
「はい」
悄然とうなずく斉木の様子に、隣に並んで離れようとしない芹沢は何も言わずに、薄い唇を噛んだ。
しかし、
「そういうことなので内田さん、よろしく頼みますよ」
監督はさりげなく斉木の近くに陣取っていたトレーナーへ顔を向けて言った。
「天皇杯の4回戦には間に合わせて下さい」
斉木も芹沢も、そしてトレーナーも鳩が豆鉄砲食らったような顔をしている中で、監督はちゃめっけたっぷりに笑って告げる。
「今年はもう一つ、タイトルを狙いましょう。二人共当てにしてますよ」
斉木と芹沢は顔を見合わせ、
「じゃ、その前に景気づけってことで」
と、二人揃って監督へビンを向けた。
一つの戦いが終わっても、すぐに次の戦いが待っている。
それは、彼らがピッチを去るまで続くのだ。
だが、この一日だけは、全ての苦しみを忘れて、ただ喜びに浸ることが許されてもいい――。
11月前半
拾遺
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